精選版 日本国語大辞典 「ウクライナ」の意味・読み・例文・類語
ウクライナ
- ( Ukraina ) ヨーロッパ‐ロシア南西部にある国。ソビエト連邦を構成した社会主義共和国の一つ。一九世紀に農業が発展し、小麦の世界的な産地となる。また、ソ連最大の重工業地帯でもあった。一九二二年、ソ連邦の結成に参加。九一年ソ連邦解体をもたらした独立国家共同体(CIS)の結成に参加し、独立国家としてウクライナを国号とする。首都キエフ。
ヨーロッパ東部、黒海に面する共和制国家。かつてはソビエト連邦の構成共和国の一つ、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国Украинская ССР/Ukrainskaya SSRであったが、1990年7月共和国主権宣言、1991年8月独立宣言し、国名を「ウクライナ」とした。西はポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、モルドバに、北はベラルーシ、東はロシアに接する。面積60万3500平方キロメートル、人口4824万0902人(2001センサス)、4474万人(2014年世界銀行)。首都はキーウ。国内にクリミア自治共和国と24州、2特別行政区がある。
[渡辺一夫・木村英亮]
国土の西端近くに東カルパティア山脈の一部(最高点は2061メートル)がそびえ、その東にはポドリスク丘陵が張り出している。国土の中央部は、ドニプロ(ドニエプル)川、ドニステール(ドニエストル)川、ブーフ(南ブク)川の流れる低地となる。ドニプロ川はこの国最大の川で、国土総面積の約2分の1がドニプロ水系に属する。その支流プリピャチ川はウクライナとベラルーシとの国境地帯にあたり、砂堤と湿地が交替する、ポレシエとよばれる独特の景観をみせる。国土の東部にはロシアとの国境近くにドネツ丘陵(標高250~350メートル)が広がり、地下資源の豊かな丘陵として知られる。国土の南にはクリミア半島(クリム半島)が黒海に突出し、標高1500メートルを超える急峻(きゅうしゅん)なクリム山脈が南縁を東西に走る。
気候は穏やかな大陸性気候であるが、南西から北東に行くにつれ厳しさを増す。月平均気温は、1月は4℃(クリミア半島南岸)~零下8℃(北東部)とかなり差があるが、7月は23℃~18℃と差が小さい。年降水量はカルパティア山脈で1600ミリメートルを超すが、北部のポレシエで700ミリメートル、南部の黒海沿岸で300ミリメートルに減少する。一般に雨は春から初夏に多いが、その季節には中央アジアから不安定な乾燥した気団がスホベイとよばれる強風となってウクライナ南部に侵入し、農業に大きな災害を与えることがある。
植生は、北部、西部にマツ、カシワ、ヤマナラシなどの混合林、中央部低地に広葉樹林と草原、南部には乾燥した景観をみせるヨモギやナギナタガヤなどの草原と、塩分が地表に吹き出してこびりついた沼沢地がみられる。国土の中央部を東西に黒土帯が横断し、その南にも濃い栗色土壌が分布し、世界有数の肥沃(ひよく)な農地となっている。国土のうち、かつて森林だったと推定される面積の90%がすでに開拓されて農地になったり、火入れを繰り返したために草地となった。国内には9か所の自然保護区(合計12万7000ヘクタール)が設けられている。
[渡辺一夫・木村英亮]
ウクライナの主要民族は、ウクライナ人77.8%、ロシア人17.3%、続いてベラルーシ人、モルドバ人、クリミア・タタール人、ユダヤ人などである(2001)。
人口動態の特色をみると、自然増加率は1985年から1992年の比較で約3%と低いが、都市人口の全人口に対する割合は、1940年の34%から1980年の62%、1994年の68%に上昇しており、都市への人口集中が進行していることがわかる。なお、1975~2003年の人口増加率はマイナス0.1%、2003年の都市人口率は67.3%となっている。主要都市の人口は、キーウ289万3215人、ハルキウ143万0515人、オデーサ99万3831人、ドニプロ99万0381人、ドネツク91万0252人(2018推計)。
[渡辺一夫・木村英亮]
紀元前6~前5世紀、黒海沿岸にギリシアの都市国家がいくつか現れたが、現在のウクライナ人の歴史の出発点は、紀元後4~7世紀にドニプロ川沿いの中央地帯に東スラブ族が入り、9世紀にキーウ(キエフ)を中心とするキーウ・ルーシ(キエフ大公国)が出現してからである。この国家は、ギリシア正教とビザンティン文化を取り入れて栄えたが、13世紀初めモンゴルの侵入によって崩壊し、これ以後、東スラブ族はロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人に分かれることになった。
14世紀後半、北部はリトワ大公国に、南西部はポーランドに併合され、西部のガリツィアはハンガリーの支配下に入った。農民はポーランド人領主の農奴となったが、ドニプロ川下流に逃亡した農民集団はコサックを形成した。1569年のポーランドとリトワの合併は、ポーランド貴族による搾取とカトリック教会による正教徒抑圧を強めた。クリミア・タタールとトルコも侵入した。1648~1654年、ウクライナ民族はボグダン・フメリニツキーの指導のもとにポーランドの支配に反乱、ロシア皇帝に保護を求め、ドニプロ川左岸とキーウがロシア帝国に併合された。18世紀後半、ポーランド分割によりドニプロ右岸もロシア領となり、ガリツィアはオーストリア領となった。黒海沿岸とクリミアもトルコから獲得した。
大北方戦争の際、スウェーデンのカルル12世の軍隊がウクライナに侵入したが、1709年ポルタバの戦いでピョートル大帝に粉砕された。このころからウクライナの自治は制限され、18世紀末にはエカチェリーナ2世によって完全にロシアの一部とされた。19世紀にはロシア化政策に対して詩人のタラス・シェフチェンコも加わった民族運動が起こってくる。19世紀後半、ウクライナはヨーロッパの穀倉とよばれるようになったが、他方ドンバス(ドネツ炭田)には石炭業、鉄鋼業が発展し、1913~1914年にはロシア帝国の石炭の71%、鉄鋼の58%を生産した。労働運動も活発になり、1905年革命の際は、キエフ、オデッサ(現、オデーサ)にソビエトが形成された。
1917年の二月革命後、臨時政府に対抗して3月にキエフに中央ラーダ(評議会)が設立されたが、ボリシェビキの勢力は十月革命後12月にハリコフ(現、ハルキウ)で開いたソビエト大会でウクライナをソビエト社会主義共和国と宣言し、ソビエト政府を組織、1918年1月にキエフを攻撃し中央ラーダを廃止した。しかしまもなくウクライナ全域をドイツ・オーストリア軍が占領、その下で地主勢力によるゲトマン・スコロパツキーPavel P. Skoropadskii(1873―1945)政府が4月に成立したが、農民はパルチザン闘争を展開、占領軍が自国の革命のため撤退したのちは民族主義者ペトリューラSimon Petlyura(1879―1926)が継ごうとしたが、1919年初めソビエト政府が復活した。この後、反革命のデニキン軍、農民の支持を得たマフノ軍、赤軍、三者絡み合いの戦闘や、1920年4~10月のポーランド・ソビエト戦争と反革命ウランゲリ軍との戦争を経てソビエト政府が確立し、1922年12月末、ロシア、ベラルーシ、ザカフカスの3共和国とソ連邦を結成した。工業、農業ともに発展していたウクライナは、ソ連の経済建設において中核的な役割を果たしたが、全面的集団化のなかでの1932年の大飢饉(ききん)や、1930年代後半大粛清期のウクライナの指導者・党員の大量逮捕、処刑は、大きな悲劇であった。
1939年、西部ウクライナがポーランドから再統合され、1940年にはベッサラビアの一部と北部ブコビナも領土に加えられた。第二次世界大戦時の1941年、ウクライナはナチス・ドイツ軍によって一挙に全土を占領され、500万以上の住民が殺され、徹底的に破壊、略奪された。しかし1944年初めには解放を達成し、ただちにソ連の他の諸共和国、諸民族の援助を得て復興を始め、戦後は隣接する東ヨーロッパに人民民主主義諸国が生まれ、協力の関係がつくられた。ザカルパト・ウクライナ(ザカルパッチャ州)がチェコスロバキアから再統合され、また1954年にはクリミア地方がロシア共和国から譲渡された。
1980年代後半、ソ連においてペレストロイカ(改革)が進行するなかでウクライナは1990年7月16日に国家主権を宣言した。そこには、ウクライナとソ連両市民権の保障、経済問題の決定権、ウクライナ語使用の推進、国内軍組織がうたわれている。10月25日に開かれた民族派「ルーフ」の第2回大会では、独立ウクライナ国家の再生を目標とすることが決められた。1991年3月の国民投票では連邦維持が多数を得て支持されたが、ソ連の八月クーデター後の8月24日に最高会議は国名をウクライナ・ソビエト社会主義共和国からウクライナに変え独立を宣言した。その後ロシアが国境問題などを提起したことはウクライナの民族感情を刺激し、12月1日の投票では、クリミアなどロシア人の多い地域でさえ独立支持が多数を占め、ソ連から独立する姿勢を強めたウクライナ共産党のクラフチュクLeonid Kravchuk(1934―2022)最高会議議長が独立後初の大統領に選ばれた。
クラフチュクは、ロシア大統領エリツィン、ベラルーシ最高会議議長シュシケビチStanislav Stanislavovich Shushkevich(1934―2022)とともに12月8日にベラルーシのミンスクでスラブ3か国による独立国家共同体(CIS)を創設した。12月21日、カザフスタンのアルマ・アタ(現、アルマトイ)で旧ソビエト連邦構成共和国のうち、バルト三国とジョージア(グルジア)を除く11か国が独立国家共同体参加条約に調印し、ソ連邦は解体された。
[渡辺一夫・木村英亮]
1994年3~4月、独立後最初の最高会議選挙が行われ、共産党、社会党、農民党の左翼連合が圧勝し、ソ連からの完全独立を主張した「ルーフ」は敗れた。また7月10日の大統領選挙決選投票では、ソ連最大の戦略ミサイル工場ユジマシの企業長から首相になった実務派で親ロシア派のクチマが、クラフチュクを破って勝った。クチマは8月、政府と州議会を大統領直轄とし、経済改革の推進を図った。最高会議はそれに反対し、行政機関も同調した。1996年6月、最高会議は、その権限を強化した新憲法を採択した。これによると、大統領の任期は5年、最高会議は一院制で450議席、首相は大統領が指名し、最高会議の3分の2以上の賛成で承認される。1998年3月の最高会議選挙では共産党が第一党となった。1999年11月の大統領選挙でクチマは再選され体制を強化。2002年3月の最高会議選挙の結果、「統一ウクライナのために」(クチマ支持派の政党連合)と「我らのウクライナ」(反クチマ派の政党連合)が二大勢力となったが、その後「統一ウクライナのために」は分裂し、連立与党を形成した。2004年11月クチマ大統領の任期満了と退任に伴い、大統領選挙が行われ、親ロシア派でクチマに支持される与党候補ヤヌコビッチ首相Viktor Yanukovych(1950― )と、親欧米路線を掲げる野党候補ユシチェンコの対決となった。当初、ヤヌコビッチの勝利が伝えられたが、不正選挙疑惑が発覚、同12月再選挙が行われた。その結果、ユシチェンコが当選、2005年1月大統領に就任した。このときの不正選挙に対して行われた大規模抗議行動は、野党のシンボルカラーにちなみ「オレンジ革命」とよばれている。同年2月、ティモシェンコYulia Volodymyrivna Tymoshenko(1960― )が首相に就任し、新内閣が発足。しかし9月、ユシチェンコは閣僚内の対立などからティモシェンコら全閣僚を解任、後任にドニプロペトロウスク州知事エハヌロフYuriy Ivanovych Yekhanurov(1948― )が任命された。2006年1月、大統領の権限縮小を骨子とする改正憲法が発効。同年3月に実施された最高会議選挙では、ヤヌコビッチ率いる「ウクライナの地域」(地域党)が第一党となった。ティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」は第二党、ユシチェンコ率いる与党「我らのウクライナ」は大敗し第三党となった。選挙後に「ウクライナの地域」「我らのウクライナ」、社会党、共産党の連立が成立し、ヤヌコビッチが首相についたが、すぐに「我らのウクライナ」はヤヌコビッチと対立し、連立を脱退した。ユシチェンコとヤヌコビッチの対立はますます激しくなり、その決着をつけるため、2007年9月に最高会議選挙が行われた。この選挙で「ウクライナの地域」は第一党となったが、ユシチェンコは第二党の「ティモシェンコ連合」と第三党の「我らウクライナ・国民自衛」の連立を選択、ティモシェンコがふたたび首相となった。2010年1~2月の大統領選でヤヌコビッチが当選(3月就任)、2014年5月の大統領選ではポロシェンコPetro Poroshenko(1965― )が当選し、6月に就任した。首相は2014年2月から2016年4月までアルセニー・ヤツェニュークArseniy Yatsenyuk(1974― )が務めた。
[渡辺一夫・木村英亮]
2019年3月の大統領選ではゼレンスキーVolodymyr Zelenskyy(1978― )が当選し、5月に就任した。
[編集部]
ウクライナ情勢を理解するためには、この国が特徴をもついくつかの地域から構成されていることを知ることが必要である。東部のドネツク(旧スターリノ)などのある地域はロシア人が多い。その西のポルタバやキーウの地域は小ロシアとよばれ、コサックの自治国家があった地域である。その西のドニプロ右岸地域はポーランド分割でロシア帝国に併合されたポーランド地主の多い地方であった。その南のオデーサなどの地域はロシア人、ウクライナ人、ユダヤ人が植民した地域で、さらに北西にはポーランド分割でオーストリアに属していたガリツィアがあり、その南にはハンガリー領であった地域がある。ウクライナでは西部地域は反ロシア感情が強い。また、クリミア半島は戦前クリミア・タタール人の自治共和国があったが、1944年にクリミア・タタール人は中央アジアなどに追放され、その後自治共和国は解体された。その後1991年にクリミア自治共和国となり、1992年に追放されていたタタール人の生残り40万人の半数が帰還した。第二次世界大戦後の1954年にロシアからウクライナへ帰属替えされたが、そのためクリミアにはロシア人が多い。
ソ連解体後、戦術核はロシアに移送され、1994年1月、アメリカ、ロシア、ウクライナ、各首脳の核廃棄合意文書調印によって、ウクライナの核は7年以内に全廃されることになり、1994年12月にウクライナは核不拡散条約(NPT)に加盟した。クリミア半島南西部にあるセバストポリは、ロシアがソ連時代から黒海艦隊の根拠地としており、ロシアとウクライナはソ連邦の解体時からこの帰属をめぐって対立していたが、1997年5月、両国は黒海艦隊分割などを定めた3協定に調印。1999年3月ウクライナ最高会議によって同協定が批准された。
人口の7割をロシア人が占めるクリミアでは、以前から分離独立問題がおこっていて、1992年5月にウクライナからの独立条項を含む憲法が採択されたが、ウクライナの圧力で撤回された。1994年1月にはクリミアで親ロシアのメシュコフYuriy Meshkov(1945―2019)大統領が誕生、4月のクリミア最高会議選挙でウクライナからの独立派で親ロシア派の勢力が圧勝、5月20日に1992年制定の憲法を復活させた。これに対してウクライナ議会は、ただちにその無効を決議し、1995年3月に「クリミア共和国大統領」の地位を廃止した。なお1997年5月にロシアとの間で国境不可侵を含む友好協力条約に調印、クリミアのウクライナ帰属が確定した。
2007年10月、ロシアはウクライナに供給している天然ガスの値上げを通告、これを契機にウクライナとロシアの対立が激化した。2009年1月にロシアはウクライナと、ウクライナ経由のヨーロッパ向け天然ガスの供給を一時停止したが、その後すぐに供給は再開された。
ウクライナはCIS諸国が1993年9月に結成した経済同盟には、トルクメニスタンとともに参加しなかったが、1994年4月には準加盟を決定した。その後、ロシアを中心にユーラシア経済共同体が結成されたが、ウクライナは参加せず、ジョージア、アゼルバイジャン、モルドバとともにGUAM(民主主義・経済発展のための機構)を結成した。さらに隣接諸国との関係強化にも努めている一方、北大西洋条約機構(NATO)への接近を図っている。
[渡辺一夫・木村英亮]
ウクライナは多くの地下資源、先進的な重工業、豊かな農産の国として知られ、開発もかなり進んでいる。国民経済面でとくに重要なのはドネツク州とドニプロ川沿いの地域で、この両者は複雑に結び付いて世界有数の工業地帯となっている。これに大きな役割を果たすドニプロ川の開発も進み、キーウ、クレメンチュク、カホウカ、ドニプロなどのダム、閘門(こうもん)、発電所があり、ドニエプル・カスケードと称される電源地帯をなしている。ドニプロのダムはドニエプロゲスと称され、1932年完成のアーチ式ダムである。これらにより、ドニプロ川は、最上流部と最下流部を除けば、階段状に多くの湖が連続することになった。カホウカ貯水池からは「南ウクライナ―北クリミア運河」が南下し、乾燥したこの地方の農地開発に役だっている。
東部のドネツ炭田は世界でも有数の採炭地で、ソ連時代には全ソ連の約3分の1を産出した。瀝青炭(れきせいたん)、無煙炭が多く、品質もよい。一方、中部には世界有数の規模のクリビー・リフ鉄山があり、豊富な鉄鉱石を産する。この両者の結び付きが、ウクライナの鉄鋼業の大規模な発展を可能にした。鉄鉱石はクリビー・リフを中心に、石油はカルパティア山脈東部で産出している。天然ガスは豊富で、東部のハルキウ、北部のチェルニヒウなどの付近で生産している。このほか、石膏(せっこう)(北部ブコビナ)、カリ塩などの鉱物資源がある。
ドンバスとドニプロの工業都市は、ドネツク、マキイフカ、ホルリフカ、ザポリージャ、ドニプロ、ドニプロジェルジンシクなどで、工業製品は工作機械、製鋼(ザポリージャなど)、特殊鋼、自動車(ザポリージャのコムナール工場など)、タービン、航空機、電子機器、窒素肥料など多岐にわたっている。そのほか、国内に分散する工業都市は多く、キーウ(精密機器、小型カメラ)、ハルキウ(発電機、トラクター)、ルハンシク(世界有数規模の鉄道車両工場)、シンフェロポリ(テレビ)、リビウ(貨物自動車)などの各都市がある。
[渡辺一夫・木村英亮]
農業は、近郊野菜、近郊乳酪農、穀物、工芸作物から、粗放な乾燥地の放牧、移牧(クリム山脈)など、多くの形態がみられる。国土総面積の約70%が農牧地で、農牧地面積の80%は播種(はしゅ)地、そのなかばが穀作地であり、ヨーロッパの穀倉としての役割を果たしている。一般に秋まき小麦とトウモロコシが多く、ポレシエとカルパティア山脈地域ではライ麦、ソバ、ヒエ、黒海沿岸では灌漑(かんがい)による水稲耕作が行われる。工芸作物では、サトウダイコン(テンサイ)、ヒマワリ(種子の油を食用、工業用に利用)、亜麻(あま)、麻、ホップなどが多い。
[渡辺一夫・木村英亮]
ソ連では各構成共和国が分業により一定の産品を専門的に生産して全体を支える産業構造がとられていたが、独立後はこの分業体制の崩壊によって、原材料、部品等の供給の滞りが生じた。これが全面的市場経済化政策に重なり、ロシアより激しい生産の減少とインフレの進行をもたらした。とくに石油不足の打撃は大きい。欧米諸国は1986年に大事故をおこしたチェルノブイリ原子力発電所の閉鎖を要求し、ウクライナ側はエネルギー不足を理由に拒んでいた。しかし、先進7か国(G7)の経済支援により2000年12月、チェルノブイリ原子力発電所は全面閉鎖となった。
物価上昇でルーブルが不足したため1992年1月ルーブル通貨にかわるカルボバネツ・クーポンを導入し、11月にルーブル圏を離脱した。1996年9月暫定的に使用していたカルボバネツ・クーポンにかえて、新通貨フリブニャ(グリブナ)Hryvniaを導入した。
2000年以降は近隣諸国の経済回復などの影響もありプラス成長を続けたが、2008年夏以降、鉄鋼需要の頭打ちに加え、世界的な金融危機の影響で財政状況は悪化。さらに鉄鋼産業やロシア向け輸出の落ち込みで2013年には経済成長率が0%となり、2014年には東部紛争の影響などによる打撃を受けて-6.8%のマイナス成長となった。同年の輸出総額は501億ドル、輸入総額は498億ドル。主要輸出品目は鉄、非鉄金属、穀物、機械、輸入品目は石油、天然ガス、機械、電子機器。おもな貿易相手国は輸出入ともにロシアが第1位で、以下、輸出ではトルコ、エジプト、輸入では中国、ドイツとなっている。
2008年に起きた世界的金融危機はウクライナにも重大な影響を及ぼし、通貨フリブニャの為替レートが急落し、経済危機に陥った。そのため、IMF(国際通貨基金)からの融資を受けた。なお、2008年2月にWTO(世界貿易機関)に加盟している。
[渡辺一夫・木村英亮]
交通輸送体系は、穀物などの農産物、比較的重量の大きい固体燃料や重工業製品を輸送する必要から、著しく発達している。鉄道総延長2万2473キロメートルで、9250キロメートルが電化されている(2004)。主要鉄道網はハルキウ、キーウ、リビウを中心として放射状をなし、モスクワ―キーウ―プラハ(チェコ)間などの国際列車も通っている。このほかドンバス、ドニプロ相互間と黒海沿岸を結ぶ鉄道や自動車道路はよく発達し、ドニプロ川を主体とする水上交通がこれに加わって、交通はきわめて便利である。黒海、アゾフ海沿岸の海港は、古くから石炭、穀物、工業製品の輸出で繁栄し、おもな港湾都市にオデーサ、マリウポリ、ケルチなどがある。
[渡辺一夫・木村英亮]
ウクライナ語は1989年11月の言語法によって国家語と規定され、初等・中等教育でもウクライナ語化が進んでいる。キーウ大学では1992年に講義をすべてウクライナ語で行うこととし、5年間の猶予期間をおいて、できない教員は解任するとした。
宗教においてもウクライナ化が進み、ロシア正教へ統一させられていたウクライナ正教会と、1990年に復活した独立正教会が合同して1992年6月ウクライナ正教会を結成した。
[渡辺一夫・木村英亮]
1992年(平成4)1月に外交関係を樹立。1993年1月在ウクライナ日本国大使館、1994年9月在日ウクライナ大使館が開館。対日貿易は輸入が自動車、機械・装置類、電気電子機器など6億1000万ドル、輸出が穀物、鉄鉱石・スラグ、鉄鋼品など2億1000万ドル(2014)。1995年3月にクチマ大統領、2005年7月にユシチェンコ大統領、2009年3月にティモシェンコ首相が来日。
[渡辺一夫・木村英亮]
『中井和夫著『ウクライナ・ナショナリズム――独立のディレンマ』(1998・東京大学出版会)』▽『伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』新版(1998・山川出版社)』▽『東京農大ウクライナ100の素顔編集委員会編『ウクライナ100の素顔――もうひとつのガイドブック』(2005・東京農大出版会)』▽『黒川祐次著『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』(中公新書)』
基本情報
正式名称=ウクライナUkraina/Ukraine
面積=60万3500km2
人口(2010)=4596万人
首都=キエフKiev(日本との時差=-7時間)
主要言語=ウクライナ語(公用語),ロシア語
通貨=フリブナHryvna(1996年8月まではカルボバネッツKarbovanets)
ソ連邦を構成する共和国の一つであった〈ウクライナ・ソビエト社会主義共和国Ukrains'ka Radyans'ka Sotsialistichna Respublika〉が,1991年8月24日独立し,国名を〈ウクライナ〉と改称したもの。独立国家共同体(CIS)の構成国の一つ。人口や経済的重要度において,旧ソ連邦中ロシアに次ぐ第2位を占め,文化的にも長い伝統を保持してきた。北東でロシア連邦と,北でベラルーシ,西でポーランドとスロバキア,南西でハンガリー,ルーマニア,モルドバの諸国とそれぞれ国境を接し,南は黒海,アゾフ海に面している。ロシアを除けば,国土面積ではヨーロッパ最大,人口ではドイツ,イギリス,フランス,イタリアに次ぐ。ハリコフ,キエフ,オデッサなど24の州oblast’とクリミア自治共和国からなる。ウクライナという名称は〈辺境〉を意味するクライkraiからつくられたもので,12世紀ころから使われていた。なお〈小ロシア〉という呼称がウクライナの別称として使用されることがあるが,正確には,後述するように,これはウクライナの一部に与えられた行政地名である。
ほぼ全域が小高地や丘陵を含む平たんな地形でおおわれており,平均標高170m。例外は西の国境沿いのカルパチ山脈(最高峰はゴベルラ山で2061m)とクリミア半島のクリミア山脈(最高峰はロマン・コシ山で1545m)である。主要河川はドニエプル川(全長2200kmでヨーロッパ第3位。ウクライナ領内1200km),ブーグ川,ドニエストル川,ドネツ川などで,ほとんどすべての河川が南のアゾフ海,黒海に流れ込んでいる。巨大な人造湖(ドニエプル下流のカホフカ湖など)を除けばウクライナには湖は少なく,いずれも比較的小さい。気候は穏やかな大陸性気候で,平均気温は1月が北部および北東部で-7~-8℃,クリミア南部で2~4℃。7月は北西部で18~19℃,南東部で23~24℃となる。年降水量は最も少ない南東部で年間300mm,最も多いカルパチ地方で1200~1600mmに達する。雪は通常11月終りごろから降り始める。ウクライナを土壌と植生から見ると次の3地帯に分けられる。(1)ポレシエ地方 森林と沼沢に富み,ポドゾルと呼ばれる耕作に不適な酸性土壌の地帯。キエフ以北の地方で,ウクライナ全体の19%を占める。(2)森林ステップ地方 肥えた黒土(きわめて肥沃な黒色土壌チェルノーゼム。最高16%までの腐植土を含み,180cm程度の層をなしている)地帯で,ドニエプルをはさんでウクライナの中央にひろがる地方。ウクライナ全体の33%を占める。(3)ステップ地帯 ウクライナ南部の草原地帯で,やはり黒土を土壌とする。ウクライナ全体の48%を占める。また経済的観点からみて,次の2地方は特に重要な意味をもっている。(1)クリボイ・ログ地方(ドニエプロペトロフスク州) 鉄鉱石の豊富な埋蔵地で,1881年以来採鉱されており,鉄の含有率は68%に達する。(2)ドネツ炭田(ドンバスとも呼ぶ。ルガンスク州とドネツク州) 豊富な石炭埋蔵量を誇り,推定埋蔵量は635億~762億t。1721年に石炭が発見され,19世紀初めから採掘されている。その他,マンガン,硫黄,石油,天然ガスなどの天然資源にも恵まれている。
ウクライナ人はロシア人,ベラルーシ人とともに東スラブ族に属する。他の東スラブ族に比し身長は高く,肩幅が広い。陽気で,歌や踊りを好み,コサック・ダンスと民族楽器のバンドゥーラが有名である。1989年の民族の構成比は,ウクライナ人72.2%,ロシア人22.1%,ユダヤ人とベラルーシが各0.9%など。ウクライナ以外の旧ソ連諸国に677万人,うちロシア連邦に436万人が住むが,その母語率は4割強で,ロシア化が浸透している。ウクライナに住んでいるウクライナ人のうちウクライナ語を母語とするものは1989年で87.7%(1970調査では91.4%)であり,母語率は低下しているが,地域別ではウクライナの西から東へ,また北から南へと低下する傾向がみられる。89年ウクライナの人口の67%は都市に住んでいる(1970年には55%)。ウクライナ最大の都市は首都のキエフで,人口は264万5000(1991)。そのうちウクライナ人は約7割である。人口100万以上の都市は,ほかにハリコフ,ドニエプロペトロフスク,オデッサ,ドネツクがある。旧ソ連以外に住んでいるウクライナ人は300万以上で,アメリカとカナダおよびポーランドにその大部分がいる。その他西ヨーロッパ諸国,南米,オーストラリアに居住しており,スロバキアなどの東ヨーロッパにも少数民族として住んでいる。
ウクライナ在住のロシア人1100万余(旧ソ連の非ロシア系諸国在住のロシア人約2000万人の半分に当たる)は,おもにウクライナ東部と南部に住んでいる。西部や中部の諸州ではロシア系住民は10%以下だが,東部と南部では10~50%を占め,とくにクリミア自治共和国では70%に及ぶ。このような住民構成が,独立後のウクライナとロシア連邦との関係,ウクライナの政策を考えるうえで,前提条件となる。
ウクライナの鉱工業生産は1940年と比べて80年には約14倍となった。電力生産は80年に2360億kWhに達し旧ソ連全体の約20%を生産していた。石炭は1970年以来毎年2億t前後を産し,旧ソ連全体の3分の1に達していたが,94年には9000万t台に下がっている。鉄鉱石は旧ソ連全体の約50%,マンガン鉱は4分の3を産し,その他の鉱物資源も豊富である。鉄鋼生産(1994年5130万t)をはじめとする冶金・金属工業,重機械製造業,化学工業などの重工業がドンバス,ドニエプル流域で,またハリコフ,キエフ,オデッサなどの大都市とその周辺では,精密機械工業や食品工業が盛んに行われている。国内総生産(GDP)の約31%を鉱工業が占め,農業は21%強である(1993)。
ウクライナは古くから穀倉地帯として知られている。1917年の革命後,とくに第2次大戦後の目ざましい工業発展によって産業の中心は工業分野に移ったとはいえ,農業生産の重要性は不変であり,増産がはかられてきた。農業総生産は,1940年と比べて80年には2.1倍となった。主要穀物の生産は1976年に4460万tで,旧ソ連全体のおよそ20%を占めたが,79年以降大幅に生産が落ち込み,95年に小麦が1627万tである。穀類以外では旧ソ連全体の6割以上を産したテンサイをはじめとして,トウモロコシ,ヒマワリ,綿花,大豆,野菜,果物などが栽培されている。古くからの産業である養蜂,養魚も盛んである。畜産業も盛んで95年で牛1962万頭,豚1395万頭,羊・ヤギ557万頭が飼育されている。鉄道総延長は2万2557km,自動車道路は17万2000km(1995)。黒海とアゾフ海の北岸にはオデッサ,ヘルソン,ニコラエフ,マリウポリ(旧ジダーノフ)などの港町がある。
ウクライナは地理的に見て顔を南に向けている。ウクライナを流れる主要な川は南流し,すべて黒海かアゾフ海に注いでいる。前8世紀ころから後13世紀まで,黒海はウクライナにとっては〈帝国(すなわち地中海地域)への窓〉の役割を果たしつづけた。ウクライナ人の祖先はその政治的・社会的体制(世襲制),キリスト教信仰をはじめとする文化をコンスタンティノープルから導入してきた。
ウクライナの古代史は黒海北岸とステップ地帯で始まった。前8~前7世紀に黒海北岸にはテュラス,オルビア,ケルソネソス,パンティカパイオン(現,ケルチ),タナイスなどのギリシア人植民市が建設された。ステップ地帯はスキタイ,サルマートといった騎馬遊牧民族国家の一部となった。ウクライナ史におけるヘレニズム時代は黒海北岸東部のボスポロス王国(前4世紀~後4世紀)の時代である。
中世初期のユダヤ人国際商業団ラダニヤと対抗した南フランスのキリスト教徒の国際商業団ルーシに発したルーシ・ハーン国は,イティリを首都としたハザル・ハーン国(〈ハザル族〉の項参照)のカバル革命(830年代)によるハーン亡命によって成立した。ルーシ・ハーン国はボルガ時代(839-930),ドニエプル時代(930-1036),キエフ時代(1036-1169)の3時期に分けられる。そのうちの10~12世紀後半はキエフ・ロシアまたはキエフ・ルーシとも呼ばれる。キエフ・ロシアは,ウクライナ人が以前から住んでいたポレシエと森林ステップ地帯に加えて,〈ワリャーギからギリシアへの道〉と,黒海北岸の一部を領域として統合し支配した。
キエフ・ロシアが崩壊した後,ガーリチ・ボルイニ公国(13~14世紀)はポレシエと森林ステップ西部を支配したが,14世紀にガリツィアはポーランドに,ボルイニはリトアニアに併合された。1569年のルブリン連合によりリトアニアはポーランドと合同しレーチ・ポスポリタ(共和国)が形成され,ウクライナはポーランド支配下に入ることとなった。すでに15世紀からステップ地帯にはポーランド,リトアニアからの逃亡農民を中心にウクライナ人コサックの集団が形成され,先住コサックであるタタール人コサックと競合かつタタール化しつつしだいに軍事集団として成長し,クリム・ハーン国最大の奴隷市場のあったカーファ(現,フェオドシア)をはじめとする都市攻撃を敢行していた。1550年ころリトアニア貴族出身のD.I.ビシネベツキー(?-1564)はドニエプル川の中洲のホルティツァに要塞を建設してコサックの本営(シーチ)とした。彼らはザポロージエ(〈早瀬porogiの向こう〉の意)のコサックと呼ばれた。17世紀初めに登場したザポロージエ・コサックの指導者P.K.サハイダーチヌイ(?-1622)はキエフの再建に着手し,教会を再建し,正教(キリスト教)を保護した。1634年にはモヒラ・アカデミー(ペトロ・S. モヒラによる正教研究中心の学問施設)が設立され,キエフは再び東ヨーロッパの一大文化センターとなった。ウクライナ・コサックはそのキエフの保護者として正教信仰を核とした自覚的民族意識をもった集団となっていった。48年ウクライナ・コサックはポーランドからの独立戦争をボフダン・フメリニツキー(1595-1657)に率いられて開始した。54年にはウクライナ・コサックは新興の正教国モスクワとペレヤスラフ協定を結んでポーランドと対抗した。しかし67年ポーランドとモスクワはアンドルソボの講和によりウクライナを分割することに同意した。このためドニエプル右岸はポーランド領に,左岸(ただしキエフを含む)はロシア領となった。ロシア領となった左岸ウクライナには〈ヘトマンシチナ〉と呼ばれるウクライナ・コサックによる自治国家が18世紀後半まで約1世紀間存続することになる。このヘトマン国家はコサックの頭領ヘトマン(ロシア語ではゲトマン)を長とし,財政,外交,法律,軍事などの閣僚がヘトマンを補佐して政府を構成していた。国内は16の地域に分けられ,それぞれにコサックの連隊が駐留してその地を支配した。18世紀初め北方戦争の最中,ヘトマンのI.S.マゼパ(1644-1709)はロシアからの独立をはかってスウェーデンのカール12世と連合してロシアと戦ったが,ピョートル大帝に敗北し(1709年,ポルタワの戦),ウクライナの自治は制限されていった。エカチェリナ2世はウクライナ・コサックに対する攻撃を強化し,1764年にはヘトマンという役職とその政府を廃止した。75年にはザポロージエの本営に依拠して抵抗していたコサックを征服し,本営を破壊した。さらにエカチェリナ2世は83年にヘトマン国家体制をその地方行政組織にいたるまで完全に廃止し,この地方を小ロシアと名づけ,直轄諸県に分割した。左岸ウクライナに農奴制が導入されるのはこの年である。一方,ポーランド支配下の右岸ウクライナでは18世紀を通じて正教を信仰するウクライナ農民とコサックのカトリック・ポーランドに対する大規模な反乱(ハイダマキ運動)が起こった。とくに1734,50,56年の反乱の際にはポーランド政府の要請によってロシア軍が反乱鎮圧に出兵した。ポーランド領ウクライナはポーランド分割によりガリツィアを除いてロシア領となった。
ウクライナを19世紀までの歴史的経過によって地域分けすると,(1)スロビツカ(自由な)・ウクライナ ドンバス,ハリコフなどを含むウクライナ東部で早くからモスクワの支配下に入った地方。おもにロシア人(一部ウクライナ人)による植民地域で,ウクライナにおける最初の西欧型大学が1805年この地のハリコフに設立された。(2)マロロシア(小ロシア。かつてのヘトマン国家の地域) キエフ市もここに属する。ウクライナの文化的伝統を代表する地域。(3)右岸ウクライナ ポーランド分割によりロシア帝国に併合された。ポーランド人地主の多い地域。(4)ノボロシア(新ロシア) ウクライナ南部で,ザポロージエの本営の粉砕,クリム・ハーン国の併合(1783)後にロシア人,ウクライナ人,ユダヤ人などが入植した植民地域。オデッサが中心的大都市。(5)ガリツィア ポーランド分割によりオーストリア領となった。
1798年に刊行されたイワン・コトリャレフスキー(1769-1838)の《エネイダ》は,近代ウクライナ文語の発展の始まりを意味するものであり,19世紀のウクライナ民族のルネサンスの開始を告げるものであった。農奴出身の詩人T.G.シェフチェンコ(1814-61)はその力ある詩と生涯により,ウクライナ民族を代表する詩人となった。1846年キエフで結成された政治結社キリル・メトディウス団にはシェフチェンコのほか,歴史家で作家のパンテレイモン・クリシ(1819-97),歴史家で作家のN.I.コストマーロフ(1817-85)など,19世紀のウクライナを代表する知識人が参加し,スラブ連邦形成,農奴制廃止などを掲げたが,47年全員逮捕され,とくにシェフチェンコはその詩の反ロシア的な内容を理由に中央アジアへ10年間の流刑となった。19世紀後半,ロシア政府はウクライナ民族に対して激しいロシア化政策をもって臨み,63年にはロシアの内相P.A.バルーエフ(1815-90)の指令によって,また76年にはエムス法によって,オリジナルと翻訳を問わずウクライナ語出版を全面的に禁止しただけでなく,ウクライナ語による劇,歌謡,講演までも禁止するという弾圧処置を実行した。ロシア帝国下で文化的活動の余地さえなくなったウクライナ人は,活動の場をオーストリア領ガリツィアに求めた。ここではすでに1848年に農奴解放が行われ,60年代の改革で国会,地方議会も開設されて,まがりなりにも合法的なウクライナ人の活動が可能だったからである。ジュネーブで亡命生活を続けていたM.P.ドラホマーノフ(1841-1895)やイワン・フランコ(1856-1916)の活動によりガリツィアはしだいに民族運動の中心となり,〈ウクライナのピエモンテ〉ともいうべき重要な役割を演じることになった。90年,ウクライナ急進党がガリツィアで形成され,94年にはリビウ(リボフ)大学にウクライナ史の講座ができ,M.S.フルシェフスキーが教授となった。
1900年にはロシア帝国内のハリコフでウクライナ革命党が形成され,02年にはハリコフ,ポルタワで農民蜂起が起こるなど,革命運動が盛んとなった。05年革命後の国会にはウクライナ人の代表が議員となり,学校でのウクライナ語授業を認めるよう要求をしたが入れられなかった。第1次世界大戦で一時ロシア軍に占領された東ガリツィアでは,徹底したウクライナ人弾圧,ロシア化政策がとられた。
1917年二月革命の後,キエフにフルシェフスキー,V.K.ビンニチェンコ(1880-1951),S.V.ペトリューラ(1879-1926)らを指導者として成立したウクライナ中央ラーダ政府(〈ラーダ〉の項参照)は帝政時代のロシア化政策を一掃して,ウクライナ化政策を各分野で実行しようとした。とくに軍隊のウクライナ化をめぐってロシアの臨時政府と厳しく対立した。十月革命後,中央ラーダ政府はソビエト・ロシアと絶縁し完全独立を宣言したが,ソビエト・ロシアは軍隊を送ってキエフを占領した。ウクライナはドイツと講和を結び,ドイツ軍との協力のもとにソビエト軍をウクライナから追放した。しかし18年4月ドイツ軍は中央ラーダ政府をクーデタによってスコロパツキー政権に代え,農村からの収奪を強行した。ドイツ軍が18年秋に撤退した後,19年を通じてウクライナは激しい内戦の舞台となった。ソビエト軍,ペトリューラ主導のディレクトーリア軍(民族派),N.I.マフノらに率いられる農民軍,A.I.デニキン率いる白衛軍などが入り乱れて戦った。20年にはほぼソビエト権力がウクライナに確立したが,その過酷な穀物徴発政策により21年夏までに約100万人の農民が飢饉により死亡した。この間ガリツィアのウクライナ人は1918-19年にかけて西ウクライナのオーストリアからの独立を宣言し,ウクライナ本国との合同を追求したが,ポーランドに敗北して失敗し,ガリツィアはポーランド領となった。
1918年夏にはすでにウクライナ共産党が形成され,19年春にはウクライナ社会主義ソビエト共和国の設立が宣言されていたが,22年暮れにはロシア,白ロシア,ザカフカスの3共和国とともにソ連邦を形成した。ソ連邦の形成と1924年憲法の制定の過程で,ウクライナの指導者はグルジアの指導者らとともに中央集権化に反対する主張を展開した。
1920年代を通じて,ウクライナの党と政府は公式の路線として〈ウクライナ化政策〉を採用した。ウクライナにおけるソビエト権力を根づかせるためにそれが必要と認識されたのであった。O.シュムスキー(1890-1946),M.スクリプニク(1872-1933)といった党の指導者により,学校教育のウクライナ化,党や政府へのウクライナ人の登用,ウクライナ語出版物の増大などがはかられ,多くの詩人や作家が輩出し,ウクライナ科学アカデミーを中心にウクライナ史などの研究も精力的に行われ,ウクライナの文化生活は一種のルネサンスを迎えた。しかし,30年代になるとウクライナ化政策は180度の転換を示した。ウクライナ人知識人に対する最初の〈見世物裁判〉がいくつか行われ,1920年代に活躍した詩人,作家,評論家,歴史家などが次々に批判され,解職,逮捕,流刑となった。さらにウクライナ化政策を推進した指導者や党員も次々に粛清の対象となった。21年に成立してウクライナ人の多くが属していたウクライナ独立正教会も解散を指示された。多くの者の〈罪状〉として挙げられたのは民族主義であった。1927年ハリコフで合意されたウクライナ語正字法は,1920年代のウクライナ言語学者の努力の結実であったが,これもロシア語正字法からの分離を図ったとされ,言語学者は逮捕された。それまで使われていたgを削除するなど,正字法自体もロシア語に近づける方向で手直しされた。一方,29年から開始された〈上からの革命〉もウクライナに大きな打撃を与えた。強制的な農業集団化,過酷な穀物徴発はウクライナ農村に大きな混乱と飢饉をもたらし,33年前後に少なく見積もっても人口の10%以上を飢饉で失うという惨状となった。
ウクライナ化政策の廃止,ロシア化への逆行,飢饉,粛清を経験したウクライナ人の中には,41年6月の独ソ戦の勃発にスターリン体制からの解放の希望を見た者もあった。ウクライナ民族組織(OUN)のバンデラ派はドイツ軍占領下のウクライナでウクライナの独立を宣言したが,ドイツ軍はそれを認めず,OUNの指導者は逮捕された。ナチス・ドイツはウクライナをその植民地と見なし,ウクライナ人を〈劣等人種Untermensch〉として取り扱い,数十万のウクライナ人を〈東方労働者Ostarbeiter〉として強制的にドイツに送った。ウクライナ・パルチザン軍(UPA)を結成したウクライナ人たちは42年からドイツ軍に対してゲリラ戦を開始した。ドイツ軍撤退のあとUPAは反ソ独立を掲げてソビエト軍と戦闘を継続したが,50年代半ばまでには鎮圧された。第2次大戦でウクライナでは少なく見積もって550万の死者が出た。そのうち民間人は390万であり,さらにそのうち少なくとも90万がユダヤ人であった。第2次世界大戦によってガリツィアはウクライナに併合されたが,その直後から農業集団化が強行され,その地で優勢だったウクライナ・カトリック教会は非合法化され,ガリツィアから約50万の人々がシベリアに流刑となった。なおウクライナ共和国は白ロシア共和国とともに国際連合にその設立と同時に加盟したが,この決定は1945年のヤルタ会談で行われたものである。53年にスターリンが死亡すると,ウクライナ共産党第一書記だったL.G.メリニコフ(1906- )は,誤ったロシア化政策を遂行したと批判され,ウクライナ人のO.I.キリチェンコ(1908-75)に代わった。54年にはペレヤスラフ協定300年が祝われ,クリミア半島はロシア共和国からウクライナ領に移譲された。多くの粛清されたウクライナ人の名誉回復が56年以降行われた。50年代末から60年代前半にかけて,若い世代の作家や詩人たちによりウクライナ文化の活発化がはかられ,再び〈ウクライナ化〉を求める声が高まった。63年から党第一書記であったP.Yu.シェレスト(1908-96)は部分的ではあるが,国内のウクライナ化を求める声に支持を与えた。シェレストは外交政策においては強硬派で68年のチェコスロバキア事件に際しては出兵を強く主張した。彼は72年アメリカ大統領ニクソン訪ソのときに失脚したが,後に〈民族主義者〉として批判された。ウクライナの反体制派に対しては72年に大量逮捕が行われた。76年11月には人権擁護団体ウクライナ・ヘルシンキ・グループが結成されたが,彼らもまた逮捕された。1972年ウクライナ共産党第一書記になったV.V.シチェルビツキーはいくつかの難しい問題を抱えていた。まず,ロシア化に抵抗するウクライナの民族運動,文化運動である。ウクライナ民族とその文化が歴史的に長い伝統を誇っていること,1920年代および部分的にしろ60年代に党・政府の公式路線として〈ウクライナ化〉,ウクライナ文化の発展に対する鼓舞が行われたことが,この運動を根強いものにしていた。ロシア化の社会的・行政的圧力は増大していたが,そのこと自体がまたウクライナ人の反発を強めていた。第2には停滞する経済である。66年に始まった第8次五ヵ年計画以来,重点投資地域でなくなったことも原因となって,工業生産の伸び率は著しく低下し,石炭や鉄鋼の生産はむしろ減少する傾向が見えていた。農業生産も78年を除けば不振で,とくに1972年と79年以降は深刻な状態が続いていた。すでにシェレストもシチェルビツキーもソ連中央に対して予算と税の分配に関して不満を表明したことが何度かあった。
唯一の政党であるウクライナ共産党は293万6404(1983)の党員を擁し,ドネツク,ハリコフ,ドニエプロペトロフスク,キエフなどのグループに分かれ,最大のグループはドネツクのグループであった。ウクライナ共産党は独自の中央委員会と大会をもつとはいえ,ソ連共産党の一地方組織であり,ソ連共産党中央委員会メンバー319人のうちウクライナ人は45人であった(1982年。1976年には287人のうち50人)。
執筆者:中井 和夫
1986年以来,ペレストロイカの下で,ウクライナでは民族運動が活発になったが,それは〈第3のウクライナ化〉ともいうべきもので,ウクライナ語の地位向上,特に教育現場におけるウクライナ語使用の拡大,ウクライナ語の公用語化,ウクライナ語出版物の増大などの要求が知識人・作家を中心に出され,また,歴史の見直し作業も進んだ。89年に入って,〈シェフチェンコ名称母語協会〉〈ナロードニイ・ルーフ(民衆運動)〉という二つの民間団体が形成されて,こうした運動を指導した。後者は〈ペレストロイカを支持するウクライナ民衆運動〉の略称で,〈ルーフRukh〉は〈運動〉の意。90年以降は独立志向を強め,名称から〈ペレストロイカを支持する〉を外し,91年には70万人のメンバーを擁した。ここに結集した反体制派や体制内改革派の活動をベースに,モスクワでの保守派による91年8月クーデタの失敗直後,ウクライナは8月24日独立を宣言した。同年12月1日の国民投票で9割以上の賛成により独立宣言は承認され,同月初代大統領にL.クラフチューク(旧ウクライナ共産党の幹部)が就任した。同年末の独立国家共同体(CIS)の発足に参加した。
しかし,独立後ウクライナは,従来ロシアに石油・天然ガスの大半を依存してきたため,生産低下とハイパー・インフレーションに直面し,経済は混乱を極めた。94年7月の大統領選挙では,CIS諸国との経済的統合は推進するが政治的・軍事的統合はしないとするL.クチマ(もとは兵器工場の管理者)が勝利した。この間にルーフは分裂し,93年にV.チョルノビルの率いる政党に組織替えしたが,94年の大統領選では敗れたクラフチュークを支持したこともあり,退潮している。
この間,1986年4月に起こったチェルノブイリ原発事故は,地元ウクライナおよび隣接するベラルーシなどに甚大な被害をもたらし,経済の困難に拍車をかけている。
ロシア連邦との関係では,黒海艦隊(ウクライナのセバストポリが基地)の分割をめぐる交渉が難航した(2分の1に分割することでは合意)ほか,クリミア自治共和国をめぐる問題が大きい。ウクライナの行政単位のなかで,唯一ロシア人が過半数を占めていたクリミア州では,ウクライナ独立の動きと並行してウクライナからのクリミア自立・ロシア接近の動きが進行し,91年9月に〈クリミア共和国〉を宣言するに至った。曲折をへて〈クリミア自治共和国〉とされているが,この問題には,クリミアの先住民といえるクリミア・タタール人のスターリンによる1944年の追放と近年の帰還も重なっている。
NATO(北大西洋条約機構)やEU(ヨーロッパ連合)などの西側の組織と大国ロシアのはざまに立つウクライナは,外交路線を決定するうえでもさまざまな問題をかかえている。
→クリミア半島
執筆者:竹村 英一
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(袴田茂樹 青山学院大学教授 / 2008年)
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ヨーロッパ・ロシアの西南部にあり,ソヴィエト連邦解体後の1991年独立。住民の70%以上はウクライナ人だが,ロシア人も20%以上。14世紀以降ポーランドとロシアの争奪対象となったが,1667年左岸ウクライナはロシア領となった。右岸ウクライナは1795年にロシア領となった。18世紀までにポーランド・カトリック勢力の政治的・文化的影響を強く受けた。1919年社会主義共和国,22年ソヴィエト連邦に加盟。古来穀倉地帯として有名。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…クリミア遠征は摂政ソフィアのときにも側近の貴族ゴリーツィン公によって2度行われたが,いずれも失敗に終わり,これがソフィア政権の命とりになった。
[ウクライナへの進出]
西方との関係ではすでにイワン3世がバルト海への進出を考え,リボニアの騎士団に圧力を加えていたが,イワン4世がリボニア戦争を始め,これはロシアの強化を恐れるリトアニア・ポーランドとスウェーデンの参戦で敗戦に終わった。こののちボリス・ゴドゥノフがスウェーデンから失地の一部を回復したが,続いておこったスムータでロシアは両国に広い領土を奪われ,完全に内陸に封じこまれた。…
※「ウクライナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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