戦間期から第2次世界大戦半ばにかけ国際共産主義運動に君臨した指導・統制センターであった〈共産主義インターナショナルCommunist International〉(ロシア語ではKommunisticheskii Internatsional)の略称。
労働運動,労働者政党の国際的組織化をめざす試みはすでに1840年代のヨーロッパにみられたが,その後労働運動の発展と社会主義政党の成長とともに,第一インターナショナル(1864-76),第二インターナショナル(1889-1914)が誕生した(インターナショナル)。第二インターナショナルの最左翼を占め,その改良主義的傾向を激しく批判していたレーニンに指導されるロシア社会民主労働党(共産党)は,ロシア革命を成功させると,ただちに新しい国際的革命組織の結成にのりだした。ボリシェビキは第1次世界大戦に伴う各国の政治・経済体制の動揺に革命の絶好の条件を見いだしただけでなく,後進国ロシアの革命は,先進工業国の革命なしには生きのびることはできないと確信していたからであった。
1919年3月,ペトログラード(現,サンクト・ペテルブルグ)で開催された革命的プロレタリア政党国際会議は,時期尚早の少数意見もあったが,共産主義インターナショナル(第三インターナショナル)の創設を決議した。そしてロシア革命を起爆剤とするヨーロッパ革命への期待が空しく消えたとき,レーニンらはそこに既成の社会主義政党幹部の裏切りを認め,彼らとの完全な絶縁,鉄の規律と中央集権体制に立脚した一枚岩的国際革命組織をつくりあげることを決意した。第2回大会(1920年7~8月)で承認された21ヵ条(プロレタリアート独裁の明示,非合法組織の併設,軍隊・農村・労働者組織・議会内での活動,植民地独立,民主的集権主義の確立,粛清,執行委員会のいっさいの決議に無条件で服従することなど,社会民主主義との絶縁を規定した)に及ぶコミンテルン加入条件はその具体化であった。またこのような組織原則を守り,コミンテルン支部として編制される共産党は,しばしば社会主義運動の分裂のなかから出現した。そのため,1923年,労働・社会主義インターナショナルの形で社会民主主義の国際組織が復活すると,二つのインターナショナルの対立はさらに構造化した。
コミンテルンの政策に特徴的なことは,急進主義から現実主義への,またその逆への方針転換がしばしばみられたことであった。これはいわば宿命ですらあった。なぜならば共産党が革命の党としてのアイデンティティを保持しようとする限り,既存左翼政党にみられない急進的行動に訴えることが必要となるが,これは反面,大衆からの遊離の危険を招くことになり,今度は逆に労働者大衆を引きつけるために日常活動を重視しなければならなくなるからである。ドイツ共産党の3月行動(1921)が失敗に終わり,ドイツの革命情勢の大幅な後退を背景として開かれたコミンテルン第3回大会(1921年6~7月)以降,統一戦線戦術の名のもとに社会民主主義勢力との協力の道が模索されるようになったのは,この理由による。しかし社会民主主義政党指導部を迂回した一般党員への接近工作(下からの統一戦線),あるいは指導部への直接的働きかけ(上からの統一戦線)のいずれも所期の目的を達することはできなかった。1923年1月のルール占領に端を発する危機的状況がドイツ共産党とコミンテルンによって効果的に利用されることなく去り,資本主義の相対的安定期に席をゆずるとともに,コミンテルンのあり方も大きく変貌を遂げていく。24年6月から7月にかけて開かれたコミンテルン第5回大会では,レーニンの姿はすでに見られず,ボリシェビキ党内の指導権争いでいちはやく有利な地位を占めたスターリンによって,〈ボリシェビキ化〉が提唱され,コミンテルンにおける党内民主主義の制限,ソ連の対外政策同調化への圧力が強まった。
コミンテルンは,ヨーロッパ中心主義を脱却できなかった第二インターナショナルとは違って,植民地,従属諸国における民族運動のエネルギーを高く評価し,これを先進国における変革に連結する反帝世界革命の構図をえがいていた。植民地・民族問題の核心は,本来ブルジョア民主主義運動である民族解放運動を共産党がどこまで支持すべきかという点にあり,コミンテルン第2回大会でレーニンとインド人共産主義者ローイM.N.Royの論争を呼んだ。論争は,民族解放運動を支持しながら,同時に共産主義者の自主性をあくまで維持するという折衷案に落着した。大会の直後,第1回東方諸民族大会がバクーで開催され,アジア・中東諸国の32の民族代表1891名が参加し,1922年1月にはモスクワとペトログラードで開かれた極東革命組織大会には10ヵ国,148名の代表が出席した。
しかし民族ブルジョアジーとプロレタリアートそれぞれの闘争の有機的統合という命題は,実践においてしばしば解きがたい矛盾に逢着した。たとえばトルコ,ペルシア(イラン)のような国々における民族独立運動の発展は,ソ連にとって,イギリスなどの帝国主義国の南方からの圧力の軽減という意味で歓迎すべきものであったが,運動内部における民族主義者と共産主義者の利害の対立が表面化する場合には,コミンテルンは,通常,後者への支持を切り捨てることを選んだ。このような,国家としてのソ連の立場と各国共産党の利害の相克という状況は,1920年代後半の中国国民革命をめぐるコミンテルンの対応のなかにも再現された。1922年8月以降,国民党と共産党の間には提携関係が存在していたが(第1次国共合作),反帝反封建闘争の深化とともに,国民党右派と共産党の対立は不可避となっていく。このような事態に対するコミンテルンの対応は,ソ連指導部内の分派抗争とからみ,スターリンは保守的現状維持の立場から,トロツキーに反対して国共合作路線を最後の瞬間まで支持し,蔣介石による反共クーデタ(1927年4月)の成功をみすみす許した。スターリンはついで武装蜂起による権力奪取の極左方針に転ずるが,もはや逆流をおしとどめることはできなかった。
コミンテルン第6回大会(1928年7~9月)は,中国革命の挫折,ソ連における集団化と工業化の開始を反映するかのように,大きく左に旋回し,資本主義の安定が崩壊し,戦争と革命の〈第3期〉に入りつつあるという状況判断を下したが,やがて社会民主主義を労働階級の主要な敵と規定する社会ファシズム論が打ち出された。たしかに翌年の大恐慌の到来によってこの診断の正しさは立証されたものの,闘争目標に関する処方箋は,現実との対応関係を見失ったものであり,ドイツではナチズムの制覇を結果的に助けることにしかならなかった。
ナチス・ドイツの出現とともに,ソ連は西欧民主主義諸国への接近を強めることになったが,コミンテルンのレベルではすべての非ファシズム勢力の結集が追求された。1934年にまずフランスで実行され,翌35年夏,コミンテルン最後の大会となった第7回大会で採択された人民戦線戦術がそれである。コミンテルンの新政策は,36年に入るとスペイン(2月),フランス(6月)で相ついで人民戦線政府を生み出すことに成功した。しかし反ファシズム運動のなかにも,ソ連の安全保障上の考慮が持ち込まれ,ナチス・ドイツに対抗するうえでイギリスの支持を不可欠とみなしていたスターリンは,保守党政府を疎外させることをおそれ,人民戦線運動の急進化にブレーキをかけようとした。そのための一つの手段がこの時期にソ連で荒れ狂った大粛清の嵐であり,多くのコミンテルン指導者や活動家がその犠牲になった。こうして人民戦線のエネルギーの枯渇化につれて,ミュンヘン協定(1938年9月),独ソ不可侵条約(1939年8月)に見られるように反ファシズムの理念は地に落ち,とりわけ後者は共産党員の間で大量の離党者を出す原因となった。
第2次世界大戦の勃発にさいして,公式的な非戦ポーズをとったコミンテルンの方針は英仏共産党の国民からの孤立を深めることにしかならなかったが,ドイツの対ソ攻撃(1941年6月)はコミンテルンをこの袋小路から救い出し,共産党員がレジスタンスの先頭に立つことを可能にした。しかしコミンテルンの存在自体,ソ連による内政干渉のイメージにもつながり,反枢軸同盟の結束を害するおそれがあると判断したスターリンは,規約に反してコミンテルンの解散にふみ切った(1943年5月)。しかしその後も,ロシア革命を偶像化し,モスクワの権威を無条件に受け入れる共産党の体質は惰性として長く残ることになった。
コミンテルンの最高機関は世界大会であり,最初のうちは年1回開催されていたが,しだいに間遠くなり,1935年の第7回大会以後は開かれていない。大会と大会の間の指導機関は執行委員会で,各国共産党にたいする指令,除名,綱領の承認にあたり,機関誌《共産主義インターナショナル》を発行,ニュース速報的刊行物に《インターナショナル新聞通報International Press Correspondence》(略称《インプレコールInprecorr》)があった。執行委員会はより少数の政策決定組織として幹部会を選び,さらに日常的な執行機関である(政治)書記局が設けられた。執行委員会の下部組織としては,組織局(1922-28),国別あるいは地域別(たとえばアングロ・サクソン,極東,ラテン・アメリカなど)書記局がモスクワに置かれ,これに対応する形で国外ビューローが存在した。西ヨーロッパ・ビューロー(所在地ウィーン,のちベルリン),ラテン・アメリカ・ビューロー(ブエノス・アイレス),極東ビューロー(イルクーツク,ついでハバロフスクとウラジオストク,上海にも支局)がその例である。なお,財政と規律問題を統轄する機関として統制委員会が大会ごとに選出されていた。
またコミンテルンの実勢力については,第7回大会当時の数字として,加盟組織76,準加盟組織19(うち共産党組織57),314万1000名(資本主義諸国に住む者78万5000名)があげられよう。
日本でコミンテルンの働きかけのもとで非合法に共産党が結成されたのは1922年7月,コミンテルン日本支部として公認されたのは同年11月であった。しかし党は主として知識人からなる組織で,大衆との結びつきが弱かったため,弾圧を受けて動揺し,いったんは解党を決議した(1924年3月)。これにたいしコミンテルンは解党を批判し,26年12月には第2次共産党が再建された。一方,コミンテルンは党の理論的支柱であった福本イズムをセクト主義と批判し,27年7月,日本問題特別委員会は日本における革命の課題に関する決議(27年テーゼ)を発表し,大衆的革命政党への脱皮の方向を示した。その後,日本の満州侵略と対ソ干渉の危険の増大という新しい状況をまえに,コミンテルンは共産党に根強く残る左翼セクト主義にたいする批判を強め,32年3月,執行委員会幹部会は再び日本問題に関するテーゼ(32年テーゼ)を採択した。しかし厳しい弾圧のもとで地下活動を続けざるをえなかった党は,戦術的硬直性も禍いして,大衆的基盤を獲得できず,すでに35年春ごろには全国的組織としての党は姿を消した。
執筆者:平井 友義
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共産主義インターナショナル(Communist International)の略称。第3インターナショナルともいう。1919年3月レーニンが創設し,中央集権体制のもとに各国共産党を直接に指導した。20年末までは世界革命をめざす急進的政策をとったが,ドイツ革命が挫折すると,21~28年には社会民主主義政党との統一戦線による革命の道が模索された。また,植民地や従属地域における民族解放運動を革命運動に発展させることがめざされ,この観点から中国革命に介入した。29年以降,社会民主主義政党とファシズム政党を同列において攻撃する極左戦術をとったが失敗し,34年以降は一転して人民戦線戦術を採用して,フランスとスペインで政権樹立に成功した。第二次世界大戦中の43年5月にソ連の政策転換によって解散した。
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共産主義インターナショナルCommunist Internationalの略称(Comintern)。第3インターナショナルとも。ソ連1国が社会主義国であった時代に各国共産党を拘束した国際的組織。1919年3月創立,43年5月解散。本部モスクワ。国際共産主義運動の発展に努めたが,ソ連共産党の指導権が強く,また各国共産党を支部とする組織原則をとったため,ソ連の利益の優先,ソ連の対外政策への支持の強要などがしばしば各国共産党とその運動を混乱させた。第1次大戦直後にはヨーロッパ革命に期待したがはたされず,その後は中国革命への支援など長期的戦略が重視された。1922年(大正11)には日本共産党をコミンテルン日本支部に指定。30年代にはファシズムの台頭という情勢のなかで,方針を転換して人民戦線戦術を採用し,各国の政治と革命運動に大きな影響を与えた。
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…なお,共産党が前衛党(前衛)であるということの意味は,それが労働者階級の先進分子を結集した労働者階級の政治的指導集団であるということであって,M.ウェーバー的意味での大衆政党(党規律の厳格な大量の党員を有する組織政党)の観念と矛盾するわけではない(たとえば,大衆的前衛党という用例)。 共産党の起源をマルクス,エンゲルスが組織した1847年の共産主義者同盟,そして第一インターナショナル(インターナショナル)に求める見方もあるが,より直接的には,第1次大戦の勃発による第二インターナショナルの分裂・崩壊,レーニンらの指導による1917年11月のロシア革命の成功を経て,19年3月に第三インターナショナル(正式には共産主義インターナショナル,略称コミンテルン)という世界単一共産党が創設されたことが,かつて世界に存在した100を超える各国共産党などの政党の真の起源となった。そのことは,コミンテルン支部として組織された各国共産党のイデオロギー,戦略・戦術,行動様式,組織原則などが,その初期においてはコミンテルン創設者レーニンらの,ついでソ連共産党内部でスターリンの覇権が確立されていき,それと並行してコミンテルンのソ連共産党への従属が進行していくにつれて,スターリン主義の,ないしはスターリンが定式化した〈レーニン主義〉の圧倒的に深い影響下にあったことを意味している。…
…第1次,第2次世界大戦間期の1930年代,ファシズムの台頭に抗して組織された運動に与えられた名称。その代表的な表れは,人民戦線政府を成立させたフランスとスペインに見られるが,こうした動きは後で触れるコミンテルン第7回大会(1935年7~8月)における国際共産主義運動の方向転換と密接に関連しており,国際的な広がりをもつものであった。
[フランス]
1933年1月のドイツにおけるヒトラーの政権掌握は,国際的にファシズムの脅威を増大させたが,フランスでは世界恐慌のあおりをうけた経済不安の高まりの中で,〈アクシヨン・フランセーズ〉や〈クロア・ド・フー〉などの極右ないしファッショ的志向の団体が活動を強化していた。…
…くわえて21年7月には,ロシア革命の道を歩もうとする中国共産党が誕生した。このときコミンテルンは東方に革命をもとめ,また孫文の方でも中国の革命に対する国際的援助をもとめていたので,双方の利害は一致し,ここに国共合作が日程にのぼることとなった。プロレタリアートの前衛党である共産党とブルジョア政党との合作協力は,半植民地・半封建社会における抑圧者=帝国主義と封建主義,とりわけそれらの政治的代理人である軍閥に対する統一戦線として可能となったものである。…
…党員は半減したが,党の統一は強化された。この間共産党は19年3月のコミンテルン設立に参加,その一員となり,ドイツ革命に期待するボリシェビキ指導者の指示をも受けることになった。 20年12月,独立社会民主党のコミンテルン加盟に伴い,同党は共産党に合流,統一共産党が成立し,党員数36万の大衆政党となった。…
…
[党創立]
第1次世界大戦後の社会運動の高揚とロシア革命の影響が波及するなかで,社会主義も新たな台頭をみせ,1920年12月に日本社会主義同盟が結成された。このころ,ロシア革命の成果を吸収した堺利彦や山川均らによるマルクス=レーニン主義の普及とコミンテルンからの働きかけがあいまって,21年4月には堺,山川らが中心となって日本共産党準備委員会を組織し,〈日本共産党宣言〉と〈日本共産党規約〉を採択した。22年1月から2月にかけてコミンテルン主催の極東民族大会に,アメリカから入露した片山潜らとともに日本から徳田球一,高瀬清,吉田一らが参加したことが契機となり,同年7月15日,正式の創立大会がもたれ,堺利彦が委員長となった。…
…なお同インターの影響のもとに各国の労働組合中央組織を結集する国際労働組合連盟(アムステルダム・インターナショナル)が組織された。ロシア革命の成功後,レーニンは社会民主主義の系譜とは別個の,共産主義インターナショナル(第三インターナショナル,コミンテルン)を結成した(1919)。これは各国の共産党を支部とし,モスクワの本部に指導権を集中する中央集権的な組織であり,その後の国際的革命運動によかれあしかれ絶大な影響を及ぼした。…
… 内戦・干渉戦は国際帝国主義との闘争で,ロシア革命は世界革命の第一歩と考えられたので,革命的共産主義者を糾合して新しいインターナショナルをつくることが構想された。1919年3月2~6日,共産主義インターナショナル(コミンテルン)第1回大会が包囲下のモスクワで開かれた。ここから世界へ散った代表たちは,各国社会主義運動の左翼を結集して,20年7月23日に第2回大会を開いた。…
※「コミンテルン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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