日本歴史地名大系 「七隈村」の解説 七隈村ななくまむら 福岡県:福岡市城南区七隈村[現在地名]城南区七隈一―八丁目・別府(べふ)六丁目・茶山(ちややま)三―六丁目・友丘(ともおか)六丁目・松山(まつやま)一―二丁目・金山団地(かなやまだんち)荒江(あらえ)村の南、ほぼ北流する七隈川(新川)流域にある。北東は田島(たしま)村、東は片江(かたえ)村、西は飯倉(いいくら)村・干隈(ほしくま)村。東と西に高原(七隈原)があり、村は両原の間の谷間にある(続風土記)。正応元年(一二八八)一〇月三日の蒙古合戦勲功賞配分状(入来院武光文書/鎌倉遺文二二)によれば、早良(さわら)郡七隈郷地頭職のうち田地三町(下ハカマ・橋爪・フチ田・タキ田の四ヵ所にある)、屋敷二ヵ所(比伊郷上乙王丸名内などにある)、七隈郷内武清の三反二丈を含む畠地六反が薩摩国の御家人武光三郎師兼に与えられ、同日付の蒙古合戦勲功配分状(旧記雑録/鎌倉遺文二二)では七隈郷地頭職のうち郷内の田地三町(上ムギ・下ムギ・道下にある)、郷内行貞などにあった屋敷二ヵ所などが薩摩の御家人国分寺留守備後次郎友兼に与えられている。武光師兼へ与えられた分は応長二年(一三一二)六月一七日師兼(法忍)から子の弥三郎経兼へ(「武光法忍譲状」入来院文書/鎌倉遺文三二など)、元徳三年(一三三一)七月一三日には武光三郎重兼へと譲られ(「日妙譲状」入来院武光文書/鎌倉遺文四〇)、貞和七年(観応二年、一三五一)三月一八日には正応に配分された七隈郷一分地頭職が重兼から小三郎兼者(兼氏か)に譲与された(「武光重兼譲状」入来院文書/南北朝遺文(九州編)三)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by