田島村(読み)たじまむら

日本歴史地名大系 「田島村」の解説

田島村
たじまむら

[現在地名]防府市大字田島

佐波さば川河口の南東にあたる田島山(二二二・一メートル)の東に広がる開作地で、伊佐江いさえ村の南、のちに開作された浜方はまがた村の北に位置する。萩藩領で三田尻宰判に属する。

古く「本朝無題詩」に「周防田島湊」と題する釈蓮禅の作が載り、「漁客舟々分浦釣、偃松処々傍湖横」などとある。

保延三年(一一三七)九月日の待賢門院庁下文案(東大寺図書館所蔵文書)に、藤原実明が法金剛ほうこんごう(現京都市右京区)に寄進した周防一宮玉祖たまのや神社の社領三ヵ所の一として「田嶋庄」の名があり、古くは佐波川河口にある島であり、早くから荘園とされていたことが知られる。

応安四年(一三七一)九月、この地を出発して筑紫に向かった今川了俊はその紀行「道ゆきぶり」に

<資料は省略されています>

と記している。また足利義満が厳島いつくしまに詣でた折にも三田尻みたじりに立ち寄ったが、その折船出して大風に遭い、「田島といふうらばたの海人の家に、草のおましをよそひておはします」(鹿苑院殿厳島詣記)と避難している。


田島村
たじまむら

[現在地名]田島町田島

現田島町の北東部に位置し、阿賀川流域の平坦地に集落と耕地が開ける。東部を水無みずなし川が北流し、田部原たべのはらで阿賀川に合流する。阿賀川河岸段丘上字折橋おりはしの折橋遺跡は出土遺物の相違により、折橋集落の西をB、集落北をA、集落東の大門だいもん川と国道一二一号を隔てた地区をCと、三遺跡に区分される。A遺跡は弥生時代中期の川原町口式前後のものと考えられ、B遺跡は川原町口式ないし同二ッ釜式の土器片を主体に、縄文時代前期浮島式頃の土器も少量出土する。C遺跡はA遺跡の東方、水無川が阿賀川に注ぐ合流点の河岸段丘上にある畑地で、縄文時代前期から弥生土器・土師器まで出土する複合遺跡である。獣面把手の土器片は栃木県藤原ふじはら町の三依みより遺跡と共通のものであることから、関東との文化交流を考えるうえで重要である。

塩江の鷲しおえのわし神社蔵の銅製鰐口の刻銘に、永享四年(一四三二)一一月二一日の紀年で「長江庄田島郷二崎」とみえ、村名はこの郷名を継承。長江ながえ庄を領した長沼氏は、初め水無川左岸の台地上に居館を築いたが、室町時代初めに愛宕あたご(鴫山)鴫山しぎやま(田島城)を築いて移った。同城北麓に形成された城下町は、会津と関東を結ぶ山王さんのう峠越の街道(のち下野街道)が通っており、長沼氏による市場形成と産業奨励策により六斎市のほか毎年六月に馬市が開かれ、牛頭天王の祭礼(田島祇園祭)には御輿が町中を渡御するなど、長江庄一帯の政治・経済の中心地であった(田島町史)。天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉の奥羽仕置により長沼氏が去り、会津に入った蒲生氏郷領となると鴫山城には城代が配置された。


田島村
たじまむら

[現在地名]甲西町田島

現甲西町の東部、滝沢たきざわ川の氾濫原に立地する。天正一〇年(一五八二)徳川家康が甲州に入部した際、塚原六右衛門尉は一一月七日付で「甲州田島」内で「和田源介分」五〇貫文の地を信州・上州の改替分として宛行われた(「徳川家印判状」滋賀中村不能斎採集文書)。同一一年四月一九日の徳川家康印判状写(社記)によれば、田島内の三輪みわ大明神(現神部神社)領五〇〇文の地が安堵されている。同月二四日家康に安堵された府中八幡宮領の中に「田島郷内弐百文」の地があり(「徳川家康印判状写」西山梨郡志)、同二六日には田島内の南明なんめい寺領一貫文の地も安堵されている(「徳川家康印判状写」寺記)。当地には久遠くおん寺末の妙太みようたい寺があり、同二〇年には加藤光政より九九坪分の坪銭を免除された(同年二月一四日「加藤光政身延山末寺屋敷免許状」久遠寺文書)

慶長六年(一六〇一)の田島郷検地帳(県立図書館蔵)によると麦田七反余・上田一町九反余・中田七町九反余・下田六町九反余・下々田三町八反余、上畑一町二反余・中畑一町八反余・下畑二町余・下々畑一町三反余、田畑計三〇町六反余。


田島村
たのしまむら

[現在地名]鳥取市田島たしま田園町でんえんちよう一―四丁目・青葉町あおばちよう一―三丁目・松並町まつなみちよう一―三丁目・相生町あいおいちよう一丁目・同三―四丁目

千代川右岸に位置する。伯耆街道が村の南を通り、千代川の土手外に対岸の高草たかくさ安長やすなが村と結ぶ安長渡が設けられていた。田野島とも記され(因幡民談記)、「因幡志」は往古の村田・入野・中島の三領主の名にちなむ村名と伝えている。正保国絵図・正保郷帳には田之島村と記されたが、元禄国絵図作成に際し田島村に改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。上村・下村に分れる。拝領高は三七二石余、本免六ツ。安政五年(一八五八)の生高五二六石余、物成二八三石余、山役米九斗余・川役銀二五匁・藪役銀一匁八分余が課せられていた(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。「因幡志」によれば家数九〇。安政五年の村々生高竈数取調帳では竈数一二九。文久三年(一八六三)の戸数一五一(鳥取藩史稿本)

古市ふるいち村から当村までの千代川の土手には松並木があり、松原まつばらとよばれた。


田島村
たじまむら

[現在地名]白河市田島

舟田ふなだ村の南東、阿武隈川右岸に位置する。西は白河城下、東は深仁井田ふかにいだ(現東村)に通じる街道が東西に通って街村状を呈し、人馬の継立を行った。集落の四方に田畑が広がる。村名は往古阿武隈川下流が閉塞して湖水となっていた頃、島ができ、その後水田が開けたことに由来するという(白河風土記)。端村に門前もんぜん松葉まつば入形いりかたがあり、門前は清光せいこう寺の門前にあたる。康永二年(一三四三)と推定される一一月二八日の結城親朝譲状案(仙台結城文書)には白河庄の内として「田島」とみえ、他の郷村とともに子朝常に譲られている。永仁二年(一二九四)の結城家系図(結城家文書)に、結城白川祐広の三男として「広尭田嶋与七左衛門」とあり、当地は結城宗広の弟広尭の本領の地であったと推定される。


田島村
たしまむら

[現在地名]宗像市田島

田島川(現釣川)下流の左岸、牟田尻むたじり村の上流側にあり、同川を挟んだ対岸は多礼たれ村と吉田よしだ村。村の西部は名児なご山に連なる山々で、東部は田島川沿いに耕作地が広がっている。「中右記」長承元年(一一三二)一二月二九日条・同二年六月六日条には、長承元年九月一一日に宗像社が合戦により焼失したとあり、「宗像宮社務次第」には同年宗像氏平と宗像氏房の相論により、宗像社と田島在家が一宇残らず焼失したとある。保延四年(一一三八)一〇月二〇日に宗像宮内字田島村住人擬大宮司藤原貞包が埋経供養をしている(鎮国寺蔵経筒銘)。文保元年(一三一七)以前に成立したとされる宗像社造営代々流記(宗像大社所蔵文書/神道大系神社編四九宗像)に宗像田島がみえる。「宗像大菩薩御縁起」には「第三神者、示居海辺、今号田嶋是也、居海浜、是奉号市杵嶋姫」と記され、辺津へつ宮の鎮座地を田島とする。


田島村
たしまむら

[現在地名]内海町 まち大浦おおうら内浦うちうらなど

常石つねいし(現沼隈町)の南海上に浮ぶ田島を村域とし、西は坊地ぼうじノ瀬戸を挟んで横島よこしま村に続く。東北は阿伏兎あぶとノ瀬戸を境に能登原のとはら(現沼隈町)で、島内南西部にたか(三二八・八メートル)、東南部に内浦山(一九八・六メートル)がある。古くは「多島」とも記した。

正長元年(一四二八)一〇月二〇日付の村上備中入道宛備後国守護山名時熙の宛行状(「閥閲録」所収村上太左衛門家文書)に「備後国多嶋地頭職事、為給分所宛行也」とあり、享徳二年(一四五三)八月一二日付の備後国沼隈郡田島先達者宿坊願文(熊野那智大社文書)にも「多嶋中人」とみえる。文安二年(一四四五)には田島船籍の一九艘が兵庫北関(現神戸市)を通過しているが、積荷の大部分は備後塩で、田島産の塩も含まれていた(兵庫北関入船納帳)


田島村
たしまむら

[現在地名]日田市田島本町たしまほんまち・田島一―二丁目・淡窓たんそう一丁目・田島

竹田たけだ村の北東に位置し、府内・日田往還が通る。宇佐宮の国々散在常見名田であった日田郡五ヵ所の一、田島別符の遺称地とされる。文禄三年(一五九四)太閤蔵入地となり、日隈ひのくま城が築城されるに伴い当村は移されて同城城下町となった。寛永元年(一六二四)日田藩主石川忠総は求来里くくり村にあった大原おおはら八幡宮を当村に移築した。江戸初期は竹田村の内とみられ、正保郷帳には村名の記載がないが、竹田村と記す二村のうち高九〇三石余分は当村と考えられる。田高五九〇石余・畑高三一三石余で、刃連ゆきい郷に属し、八幡山松有、日損所と記す。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では竹田村一千七九七石余とあり、元禄見稲簿では村名がみえ、高七八一石余。


田島村
たじまむら

[現在地名]清里村上田島かみたじま

雁平かりひら川右岸の山裾にあり、北は深沢ふかさわ村、西は雁平川を挟んで福島ふくしま村に接する。上江かみえ用水が通る。承久四年(一二二二)二月二一日の藤原某譲状案(茂木文書)に「越後国田嶋経田」とみえ、鎌倉時代初期から茂木氏の所領となっている。この「田嶋経田」が当地をさすか、現三和さんわ村の下田島をさすかは不明。応永一八年(一四一一)八月一九日の居多神社社領注文(居多神社文書)に「物部郷内 八反小 田嶋得安給田」とみえる。

正保国絵図に高二二三石余とみえる。万治三年(一六六〇)年貢皆済目録(上田島区有文書)には高二二二石二斗余、うち山高二石四斗(免相五ツ取)・地高二一九石八斗八升(免相二ツ六分)とある。


田島村
たしまむら

[現在地名]城南区田島一―六丁目・茶山ちややま一―三丁目・同五―六丁目・別府べふ一丁目・同六―七丁目・別府団地べふだんち友泉亭ゆうせんてい友丘ともおか一―五丁目、中央区梅光園ばいこうえん二―三丁目・梅光園団地ばいこうえんだんち笹丘ささおか一―三丁目・六本松ろつぽんまつ四丁目・輝国てるくに一―二丁目・小笹おざさ四丁目・たに二丁目・南公園みなみこうえん

片江かたえ村の北、南東から北へ流れる樋井ひい(田島川)の流域にある。南東は下長尾しもながお村、北は鳥飼とりかい村。樋井郷一〇ヶ村の一。文安六年(一四四九)三月一八日の仁保盛安書状(興隆寺文書/山口県史 史料編中世三)によれば、大内氏の氏寺である周防国氷上山興隆こうりゆう(現山口市)の寺領として「鳥飼内田島」がみえ、大内盛見の代(応永一〇年―永享三年)には寺領となっていた。


田島村
たじまむら

[現在地名]三条市田島一―二丁目・北中きたなか嘉坪川かつぼがわ一丁目・興野こうや二―三丁目・東三条ひがしさんじよう一―二丁目・いちもん一―二丁目・曲渕まがりふち一丁目・下坂井しもさかい

五十嵐いからし川右岸、いち木戸きど村の東にあり、東はなか村、北は嘉坪川村。文禄四年(一五九五)六月一一日付の直江兼続黒印状(上松文書)には、大槻おおつき庄一〇ヵ村のうちに「田島村」がみえる。またこれより前、天文二三年(一五五四)頃かとみられる三月一八日付弾正少弼入道(上杉謙信)宛上杉光徹(憲政)書状(上杉家文書)には、普請のために「三条田島へも人足申付候」とみえる。

近世は初め三条藩領で、元和六年(一六二〇)幕府出雲崎代官から三条藩稲垣氏へ引渡した三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)では高九三九石八斗。


田島村
たじまむら

[現在地名]浦和市田島一―一〇丁目・四谷よつや一―三丁目・沼影ぬまかげ一丁目・新開しびらき一丁目・同四丁目・せき二丁目・鹿手袋しかてぶくろ六―七丁目・曲本まがもと二丁目・松本まつもと一丁目・西堀にしぼり三丁目・田島

松本新田の北にあり、荒川の沖積平野に立地する。同川を隔てて南西は新座にいくら内間木うちまぎ(現朝霞市)、西は入間いるま宗岡むねおか(現志木市)平野原ひらのはらの新開地に持添新田がある。田園簿によると田四六二石余・畑一五八石余で、旗本水野領(四〇八石余)・同宮崎領(二一一石余)・幕府領(一石余)。慶安二年(一六四九)七石が氷川明神領となり(「朱印状書上」栗原家文書)、承応三年(一六五四)大宮氷川神社領として四ッ屋よつや村一石余が新開村四五石余などとともに見沼水いかり(水没田)の替地となった(「見沼水没地知行所替地覚」岩井家文書)


田島村
たじまむら

[現在地名]足利市田島町・赤松台あかまつだい一―二丁目

田島川流域の沖積地、東西に山丘が連なる谷間に位置し、南は江川えがわ村・利保かかぼ村。村名はかつて東西を川が南流して落合おちあいで合流し、田が島の中にあるようであったことによるという(地誌取調)。仁治二年(一二四一)二月日の足利義氏下文(鑁阿寺文書)に「田嶋郷」とみえ、同郷による鑁阿ばんな寺忌日用途の未進を停止するよう足利庄公文所に命じている。享保二一年(一七三六)の鑁阿寺別縁起(同寺蔵)には、仁治二年三月二九日に「高橋・木戸・小曾根・田島四邑」が鑁阿寺忌日仏事料として義氏によって寄進されたとある。


田島村
たしまむら

[現在地名]泗水町田島

花房はなぶさ台地の南西部、高江たかえ村の北西に位置し、「泗水町誌」によれば、もとは合志川畔に集落があったが、加藤清正の新井手開削に伴って現在の地に村移りがなされたという。

鎌倉後半期と考えられる天満宮安楽寺草創日記(太宰府神社文書)に「満願院本尊地蔵菩薩不動、毘沙門アリ堀川院」として「康和三大江匡房建立、寄進桑原庄三十町、三昧六口、預一人、大租社、香薗・田島庄、本来別符」とみえる。田島庄の成立が康和三年(一一〇一)以前にさかのぼるかどうか不明だが、同日記所載の諸庄の成立の最後のものが承久三年(一二二一)であることからみて、平安末ないし鎌倉初期にさかのぼるものとみられる。


田島村
たじまむら

[現在地名]富岡市田島

かぶら川が南境から東境を流れ、蚊沼かぬま川が村央を東流する。西は神原かのはら村、北は宮崎みやざき村・いちみや村と接する。近世はおおむね小幡藩領。寛永一四年(一六三七)の検地帳(「一ノ宮郷土誌」所収)によると田四二町九反四畝余(うち上田五町九反余)・畑三三町二反七畝余(うち上畑一九町一反余)・屋敷二町二反一畝余。文政前後の領内村々書上帳(松浦文書)では新畑として五反七畝余がみえ、真綿一六把、大豆七石二斗余を納めた。


田島村
たじまむら

[現在地名]婦中町田島

神通川中流左岸と井田いだ川中流右岸の中間地点に位置。北東は羽根新はねしん村、西は東本江ひがしほんごう村。かつては神通川・井田川・御門みかど川の三川に囲まれて島のようであったが、ほとんど耕作され田となったので村名とされた(婦負郡志)。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(土佐国蠧簡集残篇)に「田嶋」とあり、六一五俵が佐々定能に与えられている。慶長九年(一六〇四)当村の久三郎に対し轡田くつわだ村などの野を開くことが許可された(「野開許可状」越中古文書)


田島村
たじまむら

[現在地名]小田原市田島

西をつるぎ沢が流れ、南は国府津こうづ村、東は上町かのまち村、西は高田たかだ村、北は曾我別所そがべつしよ村に接する。曾我道が南北に走る。寿永二年(一一八三)二月二七日の源頼朝寄進状(県史一)によれば、「相模国田嶋郷」が鎌倉鶴岡八幡宮若宮に寄進されている。「風土記稿」は「北条記」にみえる永禄七年(一五六四)松田孫太郎が二〇〇貫文を領した「田鶴」を当村のこととする。同一〇年正月晦日の香林こうりん寺宛の北条氏康什物寄進状写(県史三)には「灯明銭六貫六百文 国府津田島之内に伏」とあるが、天正一五年(一五八七)九月八日の北条家禁制写(同書)は「田嶋郷天神別当安楽院」に宛てられ、同院が国府津にあることから、田嶋郷は国府津一帯を含んでいたと考えられる。


田島村
たしまむら

[現在地名]生野区田島二―六丁目・巽西たつみにし二―四丁目・巽南たつみみなみ一丁目・舎利寺しやりじ二―三丁目・林寺はやしじ五―六丁目

東成ひがしなり郡に属し、いま川を挟んで林寺村の東にある。中央を平野川が南東から北東に抜け、地形は平坦。天正二〇年(一五九二)三月二三日の豊臣秀吉朱印状(足守木下家文書)に「たしま」とみえ高三九一石余、秀吉の室北政所領。文禄四年(一五九五)正月一一日の豊臣秀吉朱印状(同文書)によるとかけ郡に属し「田島」とみえ、先高三九〇石余・出米九二石余。出米高は同三年の検地による打出分と思われる。所属郡については、慶長九年(一六〇四)木下浄英黒印状(同文書)では欠郡に含まれ、同一〇年摂津国絵図には東成郡に田島村とあり、以降の郷村帳では東成郡に記される。


田島村
たじまむら

[現在地名]富士見村田島

原之郷はらのごうの北に位置する。全域おおむね平地で、田が多く、その中に人家が散在する。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳によると田方二三二石余・畑方一〇二石余。明和元年(一七六四)の村明細帳(田島区有文書)によると高四七三石余・反別五四町八反余、家数七二・人数二九四(二歳以上)、馬二四、田方用水はこまざわ川と中山なかやま沢から引き、その堰三ヵ所。「脇道沼田通り米野村、溝呂木村助伝馬人足出し来り申候、土岐美濃守様沼田より御通り之節、前橋、米野、溝呂木、長井小河田村、森下村地頭より被仰付、人馬差出シ申候」とある。


田島村
たじまむら

[現在地名]佐野市田島町

佐野川の西岸に位置し、中央を菊沢きくさわ川が南流する。西は君田きみた村。慶安郷帳に村名がみえ、田高一千六七八石余・畑高三〇七石余、下総古河藩領。貞享元年(一六八四)再興された佐野藩領となる。元禄郷帳では旗本堀田・矢橋・隠岐と堀二氏の五給で、高一千四三石余に減少。赤坂あかさか村を分村したためであろう。文政九年(一八二六)堀田正敦の佐野移封に伴い佐野藩領と旗本堀・堀田の三給となり(同一一年「村明細帳」島田嘉内文書)、改革組合村では佐野藩領とある。


田島村
たじまむら

[現在地名]朝霞市田島一―二丁目・田島・朝志あさしおか二―三丁目・根岸台ねぎしだい三丁目

だい村・根岸村の北にある。南を黒目くろめ川が東へ、北東を新河岸川が南東へ流れ、当村南東端で合流する。両河川に囲まれる水田地帯で水害が多い。新座にいくら野方のがた領に属した。ただし峡田領に属するとの説もある(風土記稿)。元和三年(一六一七)五月旗本富永喜左衛門尉(正義)は「新倉郡膝折之内田嶋浜崎両村」二〇〇石などを宛行われた(記録御用所本古文書)。以後幕末まで同領。田園簿では田一六六石余・畑三石余。寛文年間(一六六一―七三)に北西浜崎はまさき村との境界付近の低湿地が開発され(朝霞市史)、さらに享保期(一七一六―三六)には北西宮戸みやど原の開発が行われ、同一九年と元文元年(一七三六)の検地で二四石余の新田が成立した(寛保三年「武蔵野新田村々高反別帳」東京都内野家文書)


田島村
たじまむら

[現在地名]真岡市田島

五行ごぎよう川中流、西は下大田和しもおおだわ村に接する平坦な氾濫原にある。川岸に葦野をもつが、北の飯貝いいがい村、川を挟んで東の京泉きようせん村などと入会秣場争論が多発した。慶長三年(一五九八)宇都宮藩領となり、同六年真岡藩領。寛永九年(一六三二)相模小田原藩領。同一二年旗本稲葉知行。寛文四年(一六六四)再び小田原藩領。同一〇年の村々明細帳(渡辺善兵衛文書)によると、田方五四町四反余・五五七石余、畑方三五町八反余・一七九石余、葦野五反余、人数二八五、馬三五、寺一(天台宗密蔵院寄付高一石余)


田島村
たしまむら

[現在地名]甘木市田島

城力じようりき村の北、かつら川の右岸に位置する。下座げざ郡に属し、北東は中島田なかしまだ村、西は桑原くわばら村。江戸時代を通じて福岡藩領。小早川時代の指出前之帳では田島村の田三町五反余(分米四一石余)・畠三反余(分大豆二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高二七一石余、うち大豆三四石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二七二石余・反別一九町四反余、家数八・社一、人数六八(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も二七二石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数一八(うち酒家一)・人数八二、馬一三(別本「続風土記附録」)。庄屋は代々後藤家が勤め、同家は古江ふるえ村に住した後藤次郎右衛門清次(後藤又兵衛基次の甥)から四代目の長左衛門の弟忠左衛門が分家して立てた家という(「村誌ひなしろ」・後藤家文書)


田島村
たのしまむら

[現在地名]金沢市田島町

二俣ふたまた村の南、医王いおう山の北西、田島川の谷間に位置。村名の由来は田島川の氾濫によって村が島状に残ったことによるという。二俣本泉ふたまたほんせん寺は寺基を固めるまでに数回移転しているが、蓮乗(蓮如の次男)が二俣から最初に移ったのが当地で、一両年居住したものの、二俣同様街道に近く人の往来が激しいとの理由で平尾へ移ったという(蓮如上人塵拾鈔)


田島村
たしまむら

[現在地名]三根町大字西島にしじま字田島

寒水しようず川と切通きりどおし川間の低平地に立地。堀が多い。貞和六年(一三五〇)の板部成基安堵申状足利直冬外題安堵状(光浄寺文書)に「田島東犬丸名」とみえる。同年の板部宗全光浄寺免田坪付注文(同文書)に「参段弐杖田島東元犬丸名字号島町島者本塚之跡也」とみえ、天文二二年(一五五三)の横岳資誠同千代童連署寺領寄進状(同文書)に「為志、翁本智禅定門、田島大屋敷、同所前之早田二段、紀四郎名六段」とあって、中世において村内に光浄こうじよう寺の寺領があったことがわかる。


田島村
たじまむら

[現在地名]坂井町田島

坂井平野の中央部東寄りに位置し、南北に流れる田島川の右岸にある。西は田島川を挟んで宮領みやりよう村。長禄二年(一四五八)の越前国長崎称念寺光明院寺領塔頭領惣目録(称念寺文書)に「長畝郷但馬藤沢畠壱町」「但馬畠七反」などとみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では長畝下のうねしも郷に属していた。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となった。


田島村
たじまむら

[現在地名]敦賀市三島みしま

小浜藩敦賀役所(陣屋)の南に若狭街道に沿って位置。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図ではしま郷に、正保郷帳では徳市とくいち村に属した。元禄郷帳に「幸若知行、徳市村枝郷 田島村」高五六石余と出、天保郷帳の村高は一〇〇石。享保一二年(一七二七)敦賀郷方覚書に「高百石、内十八石六斗三升畑方、但四斗五升俵百四拾俵程年貢有 幸若領 家数拾五軒」とみえる。

当村はかつて陰内いんない村と称し、「遠目鏡」に「舞々 柳太夫、いんない村中」とみえる。


田島村
たじまむら

[現在地名]明和村田島

南大島みなみおおしま村の南に位置する。天正一九年(一五九一)館林城主榊原氏により検地が行われ、大荒木郡佐貫庄田島之郷検地帳(奈良文書)が残る。末尾が欠落しているため全容はわからないが、下田二一筆・上畠二七筆・中畠二四筆・下畠七四筆・屋敷五筆が数えられ、名請人のほかに分付百姓の記載がある。大荒木おおあらき郡は邑楽郡の古訓表記である。慶安四年(一六五一)の検地帳写(同文書)によると、上田五町一反余・中田三町四反余・下田一五町五反余、上畑九町二反余・中畑八町五反余・下畑一六町三反余、屋敷一町六反余。名義人計六五、うち村内四五・村外二〇(江口村一七・新里村三)、屋敷三〇筆。寛文郷帳によると田方二三〇石余・畑方二四六石余、館林藩領。


田島村
たじまむら

[現在地名]金山町田島

南東流する飛騨川東岸にある。美濃国加茂郡に属し、北は飛騨国益田郡大船渡おおふなと村。慶長郷帳に村名がみえ、高六八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では高七八石余、遠山友政(苗木藩)領。正保郷帳では田一二石余・畑五四石余。なお天保郷帳では飛騨川下流の油井ゆい(現加茂郡白川町)を含み、高九八石余となっている。油井村・広野ひろの村・宇津尾うつお村・若松わかまつ(現白川町)と合せ油井五ヵ村とよばれた。元禄一四年(一七〇一)には大船渡村との間で国境相論があり、検使による見分の結果当村の主張は退けられたが、以前からの保木場の利用はそのまま認められた(「国境論裁許状」亀山文書)


田島村
たじまむら

[現在地名]三和村下田島しもたじま

東は岡田おかだ村、南は今保いまほ村、北は新保しんぼ村。北西に溜池がある。承久四年(一二二二)二月二一日の藤原某譲状案(茂木文書)に「越後国田嶋経田」とみえ、故右大臣殿(源頼朝)の下文と父筑後入道の譲状を添えて子息藤原一王に譲られており、鎌倉時代初期には茂木氏の所領となっている。嘉元元年(一三〇三)一一月二六日には茂木心仏より嫡子知氏に譲られている(「同譲状案」同文書)


田島村
たじまむら

[現在地名]妻沼町田島

利根川右岸の氾濫原に位置し、西は西野にしの村、南は下奈良しもなら(現熊谷市)。明徳五年(一三九四)六月二四日の了悟寄進状写(歴代古案)によると、了悟は長井ながいの柴雅楽助の重代相伝所領であった「(幡)羅郡長井庄田嶋の郷」内の田八段・畠五段を買得し、上野国貝沢かいざわ(現群馬県高崎市)の聖了寺に寄進している。田園簿によると田方二九七石余・畑方四八石余、旗本戸田・天野の二家の相給。


田島村
たじまむら

[現在地名]内原町田島

結城街道の北に位置し、東は水田を隔てて加倉井かくらい(現水戸市)。水田地帯に半島状に突出た台地上に立地し、地名も地形に由来するとの説がある。北部に田島古墳群(前方後円墳三、円墳三五)があり、また各所から当時の土器が多量に出土する。

和光院過去帳(和光院文書)の文禄二年(一五九三)に「田嶋」とみえ、寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳には「田島村」とあり、高四〇七石余、うち田二四一石余は四ツ二分、畠一六六石余は四ツ三分とあり、旗本白江太郎右衛門ら八人の給地であったが、幕末には二藩(笠間藩・麻生藩)・四旗本領が錯綜した。


田島村
たじまむら

[現在地名]牧村田島

標高約一七〇メートルの飯田いいだ川右岸にあり、上流は桜滝さくらたき村、対岸は下昆子しもひるこ村。応永一八年(一四一一)居多神社社領注文(居多神社文書)に「八反小 田嶋得安給田」とみえる。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高九五石二斗余。天和三年郷帳では高六三石一斗余、うち山高二石一斗二升・漆高三斗七升、反別田三町五反余・畑屋敷四町八反余・山林二一町二反、漆木三七本、家数九。


田島村
たじまむら

[現在地名]富士市田島・八代町やしろちよう

中河原なかがわら村の東に位置する。寛永改高附帳に田島村とみえ、田方九一石余・畑方一五石余。元禄郷帳では高一二九石余。東海道の吉原よしわら宿の加宿村とされ伝馬役を負担し、江戸時代を通じて幕府領であった。天保一五年(一八四四)の村々様子大概書(江川文庫蔵)によれば、高一二九石余、反別田一〇町九反余・畑一町五反余、年により汐入水損があった。


田島村
たじまむら

[現在地名]松伏町田島

松伏村の北東にある。古くは田島新田と称して松伏村に属し、元禄一〇年(一六九七)に分村したとされるが(風土記稿)、田園簿に田島新田として高付されており、田高三二八石余・畑高三一石余で、幕府領。なお地内の真長しんちよう(新義真言宗)蔵の正保三年(一六四六)銘の鰐口に「下総国葛飾郡八郷之内田島村」と記されていたという(風土記稿)。鷹匠頭戸田五助組の捉飼場であった(嘉永二年「書上帳写」新井家文書)


田島村
たじまむら

[現在地名]掛川市上内田かみうちだ

城東きとう郡に所属。上小笠かみおがさ川の上流域にあり、北は桶田おけだ村、西は金谷かなや村。秋葉街道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田方一二〇石余・畑方二一石余、旗本井上領(幕末に至る)


田島村
たじまむら

[現在地名]新潟市田島

西にし川左岸に沿い、東北は曾和そわ新田村、南は金巻かねまき新田村。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録では高一六石三斗余。慶安二年(一六四九)の検地では高一八一石二斗余、田一一町九反四畝余・畑三町五反九畝余・屋敷七反二畝余で、名請人一三人だが、肝煎兵右衛門の田・畑の記載はない(合併町村の歴史)


田島村
たしまむら

[現在地名]竹田市植木うえき

濁淵にごりぶち川の分流笹無田ささむた川沿いにある。正保郷帳では長田ながた郷に属し、田方二五石余・畑方一七石余。「豊後国志」では植木組のうちで、田平たびら村の枝村とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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