三城潟村
さんじようがたむら
新在家村の南、猪苗代湖北岸の平坦地にあり、地元では「さんじょがた」とも発音する。川西組に属した。往時、野口伊賀が当地の地頭であった時には内城村と称していたが(「翁島村郷土史」など)、三浦経連が会津地方を領有すると、その子経泰・赤房・義泰の三人の館を当地に築いたので三城潟と改めたという(新編会津風土記)。近世には本宮街道の脇道が通り、同道の宿場町として発達した。旅籠を営んでいた伊勢屋・吉川屋・松島屋・越後屋のほか、あめや(駄菓子屋)・かどや(追分茶屋)など、現在でも屋号が用いられている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに三条方とあり、高四二四石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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