細菌学者。肥後国(ひごのくに)北里村(熊本県阿蘇(あそ)郡小国(おぐに)町)の総庄屋(そうしょうや)北里帷信の長男に生まれる。1871年(明治4)熊本の医学所病院(のち熊本医学校)で蘭医(らんい)マンスフェルトに師事、その指示により東京医学校に入り、苦学勉励し、1883年東京大学医学部(東京医学校の後身)を卒業。行政官を志し内務省衛生局に入り、局長長与専斎(ながよせんさい)の細菌学導入計画に加わり、1884年2月ドイツ留学より帰った東大教授緒方正規(おがたまさのり)が兼務する衛生試験所細菌室で学んだ。約10か月後、緒方の紹介を得てドイツに留学、1885年1月コッホの研究室に入り、ここで水素ガスを用いてウシの嫌気性菌・気腫疽菌(きしゅそきん)の純培養に成功し、ついで破傷風菌の純培養に成功、破傷風毒素・破傷風免疫の研究に進む。1890年ジフテリアの免疫研究者E・ベーリングと共著で「ジフテリアおよび破傷風の血清治療について」という免疫血清治療発見の論文を発表、北里の名は全世界に広がった。ベーリングはこの研究を発展させ第1回ノーベル医学生理学賞(1901)を受賞することになる。
北里は、コッホのツベルクリン研究修得のため皇室内帑金(ないどきん)によって留学期間を延長、プロイセン政府よりプロフェソールの称号を受け、1892年に帰国した。しかし国内には彼の研究すべき場がなく、これを知った福沢諭吉が、東京芝公園内に北里のために伝染病研究所を建て、大日本私立衛生会の管理とした。1894年、官命により香港(ホンコン)のペスト流行を調査しペスト菌を発見、これは独立的に同時発見したエルサンと並ぶ功績である。この年、研究所は動物舎や病室を備えた新研究所になり、北里は治療用免疫血清・予防用ワクチン製造と後進の育成に努めた。1899年伝染病研究所が内務省管轄となり、以後北里は伝染病研究所所長として防疫指導にあたった。この間、各国政府、学会から名誉会員などの栄を受け、1906年(明治39)帝国学士院会員となった。しかるに1914年(大正3)10月大隈重信(おおくましげのぶ)内閣が突如、伝染病研究所を東京帝国大学の組織下に移すことを発表、北里は反対し、彼と全職員が辞職した。そして私財をもって北里研究所を創立、生涯所長を務めた。1917年慶応義塾大学医学部創設に際し医学科長に就任。貴族院議員、大日本私立衛生会会頭、日本医師会会長、第6回極東医学会会頭などを歴任、1924年男爵に叙せられた。昭和6年6月13日、脳出血により急逝した。
[藤野恒三郎]
『北里柴三郎、中村桂子著『破傷風菌論――生の場・能動知性1』(1999・哲学書房)』▽『長木大三著『北里柴三郎――北里大学学祖』(1977・竹内書店新社)』▽『長木大三著『北里柴三郎とその一門』(1989/増補版・1992・慶応通信)』▽『若山三郎著『人類をすくった“カミナリおやじ”――信念と努力の人生・北里柴三郎』(1992/オンデマンド版・2000・PHP研究所)』▽『長木大三著『北里大学誕生の記』(1998・慶応義塾大学出版会)』▽『野村茂著『北里柴三郎と緒方正規――日本近代医学の黎明期』(2003・熊本日日新聞社)』▽『砂川幸雄著『北里柴三郎の生涯――第1回ノーベル賞候補』(2003・NTT出版)』▽『山崎光夫著『ドンネルの男・北里柴三郎――生誕150年』上下(2003・東洋経済新報社)』▽『篠田達明著『闘う医魂 小説・北里柴三郎』(文春文庫)』
明治・大正期の細菌学者。肥後国阿蘇郡北里村に生まれ,1869年(明治2)藩校時習館に学び,熊本医学所を経て75年東京医学校に入学,同校後身の東京大学医科大学を83年に卒業し,翌年内務省衛生局東京試験所に勤務。85年ドイツに留学。R.コッホに師事し細菌学の研究に専念し,89年破傷風菌の純培養に成功,翌年E.vonベーリングとともにジフテリアおよび破傷風の抗毒素を発見し,血清療法の基礎を築いた。この業績に対し欧米諸国から招聘(しようへい)が相次いだが辞して92年帰国。しかし国内には彼を受け入れる機関がなく,福沢諭吉の援助で芝公園内に伝染病研究室が設けられ,同年11月大日本私立衛生会の所属として日本で最初の伝染病研究所(伝研と略称)が創立され,翌年愛宕町に新築移転した。この研究所は,所員に秦佐八郎や志賀潔を擁し,世界的にも屈指の研究所とされた。94年香港に発生したペスト病調査に派遣され,現地にてペスト菌発見の報を公表したが,この北里菌をめぐって99年まで論争がつづく。伝研は99年国立の研究機関となり内務省の所管のもとにおかれたが,1914年さらに文部省の監督下に移り,東京大学の付属機関となるにおよんで,北里所長以下全職員が辞職し,私立北里研究所(芝白金三光町)を興した。17年慶応義塾大学医学科が創設されると医学科長に招かれ,官学に対する独自の学風を築いた。1906年帝国学士院会員,17年貴族院議員に勅選,23年日本医師会創立とともに会長に推され大きな影響力をもった。24年男爵を授けられた。
執筆者:松田 武
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明治〜昭和期の細菌学者,男爵 北里研究所所長;日本医師会初代会長;慶応義塾大学医学部初代学部長兼附属病院長;貴院議員(勅選)。
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(村上陽一郎)
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(2019-4-11)
1852.12.20~1931.6.13
明治~昭和前期の細菌学者。肥後国生れ。20歳のとき熊本医学校に入学してマンスフェルトに学び,1874年(明治7)東京医学校に入学。卒業後,国民の疾病を治療し予防する行政医の道に進むため,内務省衛生局に入った。のちドイツに留学し,86年からロベルト・コッホに師事し細菌学を学び,コッホ四天王の1人といわれた。帰国後,福沢諭吉らによって設立された伝染病研究所の所長となり,同所を辞任したのち,1914年(大正3)北里研究所を創設し所長になった。滞独中に破傷風菌の純粋培養とその毒素の研究,ジフテリアと破傷風の血清療法の創始などの功績をあげた。
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…しかしその弟子たちは,病原菌の発見から,画期的な治療法を発見した。1883年E.クレブスとF.A.J.レフラーがジフテリア菌を発見,90年には同門の北里柴三郎は菌から毒性成分を分離した。彼はさらにベーリングとともに,これを動物に少量ずつ注射して,かなりの量にも耐えられるようになったところで,その動物の血清がジフテリアにかかった動物を回復させる能力のあることを発見(1893),同様な方法で,2人は破傷風についても治療血清をつくりだした。…
… この大学が日本の近代化の過程で果たした文化的・社会的役割はきわめて大きい。永井荷風を主幹として1910年創刊された《三田文学》に代表される文学史上の輝かしい足跡をはじめ,福沢の熱意を受けて北里柴三郎が創設した医学部は官立医学への激しい対抗の中から医学界に独自の領域を開拓し,その発展を支えた慶応医学の伝統を生みだし,創設以来の伝統ある理財科(経・商・法)は実業界に幾多の指導的人材を輩出している。大隈重信の早稲田大学とともに,日本の私立大学の双璧をなす代表的私学の一つである。…
※「北里柴三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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