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保科正之 ほしなまさゆき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

保科正之
ほしなまさゆき

[生]慶長16 (1611).5.7. 江戸
[没]寛文12 (1672).12.18.
江戸時代初期の大名。幼名は幸松丸。江戸幕府 2代将軍徳川秀忠の四男。3代将軍徳川家光の異母弟。信濃高遠藩主保科正光の継嗣となり,のち会津藩主。4代将軍徳川家綱の補佐として,幕政に参与した。

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デジタル大辞泉の解説

ほしな‐まさゆき【保科正之】

[1611~1673]江戸前期の大名。徳川秀忠の庶子。信濃高遠(たかとお)藩主保科正光の養子。のち、会津23万石の領主となり、幼少の将軍家綱を補佐して幕政に参与。民生の安定、社会政策の実施に尽力。

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百科事典マイペディアの解説

保科正之【ほしなまさゆき】

江戸前期の大名。陸奥(むつ)会津藩主松平氏の祖。徳川秀忠の妾腹の子で家光の異母弟。保科正光の養子となり,信濃(しなの)高遠藩主,出羽(でわ)山形藩主を経て1643年会津藩主。
→関連項目会津藩社倉聖教要録徳川家綱前田綱紀松平信綱若松

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

保科正之 ほしな-まさゆき

1611-1673* 江戸時代前期の大名。
慶長16年5月7日生まれ。徳川秀忠の子。母は浄光院。徳川家光の異母弟。保科正光の養子となり,寛永8年信濃(しなの)(長野県)高遠藩主保科家2代。出羽(でわ)山形藩をへて,20年陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩主保科家初代。23万石。徳川家綱を補佐し幕政を主導。「会津家訓十五箇条」をつくるなど藩政の基礎をかためた。寛文12年12月18日死去。62歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

保科正之

没年:寛文12.12.18(1673.2.4)
生年:慶長16.5.7(1611.6.17)
江戸前期の大名,陸奥国会津藩(会津若松市)藩主。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の末男,母はお静の方で神尾氏。家光の異母弟。幼名幸松丸。江戸の生まれ。元和3(1617)年,信濃国高遠藩主保科正光の養子となる。寛永8(1631)年義父正光の遺領,高遠3万石を相続し,翌年肥後守を称す。11年徳川家光の上洛に従う。13年出羽山形に転封となり20万石を領し,次いで20年,会津23万石を領する。慶安4(1651)年,家光の遺命により幼将軍家綱を補佐し,幕政を主導する立場となった。その一方で会津藩の藩主として家臣団の編成や行政機構の整備に力を注ぎ,農村支配についても農民救済を目的とする「社倉」の設置や専売制をはじめとする税制の整備など,充実をめざした。また好学の藩主として知られ,儒学者の山崎闇斎や神道家の吉川惟足らを重用。彼らは神仏分離や寺院整理策など,正之の宗教政策に大きな影響を与えることとなった。正之の政治思想を示すものとしては,寛文8(1668)年に藩主としての心得を子孫に残した「会津家訓十五カ条」が著名。他にも『会津風土記』『会津神社志』など,領内の地誌や神社の調査記録,および『伊洛三子伝心録』などの儒学関係の書物を編纂させている。寛文9年致仕し,家督を正経に譲って隠居した。

(大森映子)

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江戸・東京人物辞典の解説

保科正之

1611〜1672(慶長16〜寛文12)【会津藩主】会津の名君。腹違いの兄家光の遺言で、家綱の名補佐役に。 会津23万石の藩主。徳川家光の異母弟。父秀忠の命で保科氏の養子となる。1643年会津藩の大名として入部すると、幕府に先駆けて殉死を禁じるなど、藩政を改革した。家光の遺言で4代家綱を補佐し、武断政治から文治政治に転換する幕政を主導した。殉死の禁は正之の献策。玉川上水開墾の建議も行った。

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世界大百科事典 第2版の解説

ほしなまさゆき【保科正之】

1611‐72(慶長16‐寛文12)
江戸前期の大名,会津藩主。徳川秀忠の三男。母は神尾(かんお)氏お静の方。家光の異母弟。信濃国高遠藩主保科正光の継母が家康の異父妹であった縁で,1617年(元和3)正光の養子となる。31年(寛永8)家を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり,従五位下肥後守に叙任。その後,侍従・少将に昇進し,53年(承応2)正四位下中将に叙任。36年出羽山形20万石に移り,43年会津23万石を領した。藩政においては家臣団編成・農政にすぐれた手腕を示し,江戸時代前期の名君の一人に数えられる。

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大辞林 第三版の解説

ほしなまさゆき【保科正之】

1611~1672) 江戸前期の大名。徳川秀忠の庶子。将軍家綱を補佐して幕政にあずかり、文治政策を推進。会津二三万石を領した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

保科正之
ほしなまさゆき
(1611―1672)

江戸前期の大名。会津松平藩祖。将軍徳川秀忠(ひでただ)の第4子。家光(いえみつ)の異母弟、幼名幸松麿(ゆきまつまろ)。母は秀忠の側室神尾(かんお)氏お静、その出生をはばかり7歳のとき信濃(しなの)国(長野県)高遠(たかとお)藩主保科正光の養子となり、1631年(寛永8)養父正光の遺領3万石を継ぐ。1636年出羽(でわ)山形藩20万石、1643年3万石を加増され会津23万石となった。同時に幕領で南山(みなみやま)5万石余を私領同様の取扱いで預かった。1651年(慶安4)家光の死去後、遺言によって幼少の将軍家綱(いえつな)の後見として幕政に参与、慶安(けいあん)事件(由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱)などで動揺した幕政を安定させ、文治政治を推進した。明暦(めいれき)大火後の両国橋架橋、玉川上水工事などにも尽力した。一方藩政では、入部と同時に家臣の知行(ちぎょう)を俸禄(ほうろく)制とし、城代、家老、奉行(ぶぎょう)、加判制と月番制、軍役などの制度を改正整備した。また郷村仕置の法令を布達し、領内産物の他領流出の防止、市場の再興、特産物の蝋(ろう)、漆(うるし)の納入および買い方の決定などを正保(しょうほう)年間(1644~1648)までに確定、1648年(慶安1)領内総検地を実施した。1654年(承応3)農民に低利で米金を貸与する社倉法を実施、さらに1658年(万治1)定免(じょうめん)制によって藩財政の収入を安定させるなど会津藩の藩体制を揺るぎないものとした。また殉死の禁止、領民の風俗匡正(きょうせい)、人身売買の厳禁、孝子節婦の表彰、高齢者の養老扶持(ふち)の支給なども行った。正之は朱子学と神道(しんとう)の信奉者で、朱子学は山崎闇斎(あんさい)に、神道は吉川惟足(これたり)に学び、『輔養編』『玉山(ぎょくざん)講義附録』『二程治教(にていちきょう)録』『伊洛(いらく)三子伝心録』を編纂(へんさん)し、『会津神社誌』『会津風土記(ふどき)』なども残している。1668年(寛文8)正之自ら起草したと伝えられる「家訓十五ヶ条」は、永代会津藩政の基本となった。寛文(かんぶん)12年12月18日、江戸で没した。[誉田 宏]
『会津若松史出版委員会編『会津若松史 3』(1965・会津若松市)』

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世界大百科事典内の保科正之の言及

【会津神社志】より

…会津藩内の神社について,藩主保科正之(ほしなまさゆき)の命をうけ,服部安休(1619‐81)が記した書。1巻。…

【会津藩】より

…大土木工事による支出の増大を補うための年貢増徴に加え,農村を襲った寛永の大飢饉により農民の逃散が相つぎ,家臣堀主水との軋轢(あつれき)(会津騒動)もあり,43年明成は封を返還した。代わって徳川家光の異母弟保科正之が最上より入部,保科氏は95年(元禄8)松平の姓と葵の紋を許され,幕末まで家門大名としてこの地を支配した。本領23万石のほかに,南山あるいは越後国において預地の変遷がみられた。…

【殉死】より

…徳川家康に殉死者がなかったのは,家康が殉死に反対の見解を示していたためといわれる。大名の中にも同様の見解を抱く者が多くなり,その一人である保科正之の意見などにもとづいて,幕府は63年(寛文3)4代将軍家綱が武家諸法度を公布した際に,口頭で殉死を禁止する旨を申し渡した。実際に幕府は,その2年後に殉死者を出した宇都宮藩主奥平家を罰して2万石を減封し,殉死者の子を斬罪に処したので,この風習はほぼ絶えた。…

【垂加神道】より

…1658年(万治1)初めて京から江戸に遊学した闇斎は以後毎年江戸に下り諸大名に講学した。その結果65年(寛文5)会津藩主保科正之に招かれその賓師となり,正之との交わりは72年正之死去のときまで変わることなく持続した。正之の知遇をうけ儒学者として闇斎の社会的地位も確立したが,当時正之は吉川惟足(これたり)に師事し熱心に神道を研究しており,闇斎も1671年54歳のとき垂加霊社という生前霊社号を惟足から授与された。…

【生祠】より

…その生祠を霊社(れいしや)と称している。生前神になった事例は,山崎闇斎の垂加霊社や会津藩主保科正之の土津(はにつ)霊神がある。また松平定信は〈我は神なり〉と主張し,自己の木像を家臣にまつらせ,守国霊神と称された。…

【保科氏】より

…信濃の豪族。平安末期諏訪氏の一族が高井郡保科(現,長野市若穂町)によったことにはじまる。1181年(養和1)の横田河原の合戦に木曾義仲軍井上光盛の手勢として保科党がみえる。また保科太郎は源頼朝の家人となった。一族は15世紀はじめに伊那高遠へ移った。その後裔正則は高遠城により,正俊,正直の2代は武田氏に属し勇名をはせた。正直は武田氏滅亡後徳川氏に仕え,1590年(天正18)徳川氏の関東移封にともない下総多胡1万石の領主となった。…

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