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戊辰戦争 ぼしんせんそう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

戊辰戦争
ぼしんせんそう

明治維新期,倒幕派と幕府派との間の一連の戦い。慶応4 (1868) 年 (戊辰の年) 1月3日大坂から京都へ進撃した会津藩桑名藩の兵は,鳥羽,伏見で薩摩藩長州藩を中心とする新政府軍と戦って敗れた (→鳥羽・伏見の戦い ) 。

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デジタル大辞泉の解説

ぼしん‐せんそう〔‐センサウ〕【戊辰戦争】

慶応4年(1868)戊辰の年1月から翌年5月にかけて、維新政府軍と旧幕府派との間で行われた内戦。鳥羽・伏見の戦い上野の彰義隊の戦い会津戦争箱館戦争などの総称。戊辰の役。

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百科事典マイペディアの解説

戊辰戦争【ぼしんせんそう】

1868年1月鳥羽・伏見の戦に始まる旧幕府佐幕派諸藩軍と朝廷側の倒幕軍との内戦。小御所会議に挑発されて行動を起こした旧幕府軍と会津・桑名両藩軍が鳥羽・伏見の戦で敗走すると,倒幕派は朝廷の徳川慶喜追討令を受けて東征軍を江戸に送った。
→関連項目秋田藩磐城平藩ウィリス王政復古(日本)大久保利通大鳥圭介大村益次郎飫肥藩和宮片岡健吉河井継之助川村純義奇兵隊桐野利秋雲井竜雄黒羽藩児玉源太郎五稜郭西園寺公望西郷隆盛相楽総三佐佐木高行佐竹氏品川弥二郎新発田藩島津忠義彰義隊白河藩新撰組仙台藩相馬藩草莽隊大政奉還棚倉藩熾仁親王東郷平八郎倒幕運動鳥尾小弥太長岡藩日本二本松藩沼田藩パークス彦根藩土方歳三平戸藩福島藩前原一誠松代藩松平容保松本良順三島通庸明治維新盛岡藩柳原前光山形藩米沢藩

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防府市歴史用語集の解説

戊辰戦争

1868年(明治元年)の鳥羽・伏見の戦い[とば・ふしみのたたかい]から、翌年の1869年(明治2年)の五稜郭[ごりょうかく](現在の函館市)における戦いまでの、旧幕府側と新政府側との一連の戦いです。なかでも長岡藩[ながおかはん](新潟県)や会津藩[あいづはん](福島県)では藩内が戦場となり、多くの死傷者を出しました。防府の諸隊も出兵し、遠く東北や北海道にまでおもむいた兵士も少なくありません。

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世界大百科事典 第2版の解説

ぼしんせんそう【戊辰戦争】

王政復古によって成立した新政府が,反抗する諸藩軍や旧幕府残存勢力を武力をもって平定し,統一国家の基礎を固めることになった内乱である。戦乱は1868年(明治1)戊辰の年にあたる1月から69年5月まで1年半に及んだ。王政復古の結果,旧幕府武力討伐を唱える討幕派と,旧幕府を含めた平和的諸藩連合を構想する公議政体派が,拮抗(きつこう)しながら連合した新政府が成立した。武力討幕派は関東攪乱(かくらん)工作を行って旧幕府軍の軍事行動を挑発し,ついに1868年1月3日,大坂に集結した旧幕府軍は進撃を開始し,鳥羽・伏見を守る薩長軍と交戦したのである。

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大辞林 第三版の解説

ぼしんせんそう【戊辰戦争】

1868年(慶応4)戊辰の年に始まり、維新政府軍と旧幕府側との間に一六か月余にわたって戦われた内戦。正月の鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。翌年5月、最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ、内戦は終結、明治国家確立への途が開かれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

戊辰戦争
ぼしんせんそう

1868年(慶応4)1月の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いから1869年(明治2)5月の箱館(はこだて)戦争までの戦争をいう。1868年が干支(えと)で戊辰(つちのえたつ)の年にあたるので、この呼称がつけられている。
 1867年(慶応3)12月9日の王政復古クーデターによって成立した新政府は、徳川慶喜(よしのぶ)を政権から排除し、辞官・納地を彼に要求した。新政府は、クーデターに参加した薩摩(さつま)、土佐、安芸(あき)、尾張(おわり)、越前(えちぜん)など諸藩の連合政権であり、公議政体論を支配的なイデオロギーとしていたが、政府内では当初の討幕派の優位がしだいに失われて公議政体派が優位となり、辞官・納地問題も当初の方針がしだいに緩和されていった。しかし、鳥羽・伏見の戦いにより局面は一変した。新政府軍の勝利により、近畿以西の諸侯は急速に新政府に忠誠を誓い、西日本の大商人層も新政府に協力することになった。政府内では公議政体論的権力構想は急速に衰え、討幕派の指導権が成立した。新政府は、天皇親政の名のもとに少数の専制的政治家が国家の最高意志を決定する方向に変貌(へんぼう)していった。1868年3月14日の五か条の誓文(せいもん)はこのような新政府の成立を内外に宣言するものであったし、閏(うるう)4月の政体書は誓文の精神を官制上に具体化したものであった。
 一方、鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に帰った慶喜は、新政府に自己の恭順を訴える工作を行ったが効果なく、ついに上野寛永寺(かんえいじ)に閉居する。新政府は朝敵慶喜追討のため、大総督府の下に北陸、東海、東山三道の先鋒(せんぽう)総督府を置き、諸藩軍隊を指揮して江戸に向かわせた。草莽(そうもう)有志が結成した諸隊も東征に参加した。草莽諸隊のなかには、相楽総三(さがらそうぞう)らの赤報隊(せきほうたい)のように新政府側の策謀によって偽官軍の罪で弾圧されたものもある。江戸城総攻撃は、西郷隆盛(さいごうたかもり)、山岡鉄太郎(山岡鉄舟)の駿府(すんぷ)会談を経て、江戸での西郷・勝安芳(かつやすよし)(海舟)の会談により平和的開城が可能となる。1868年4月4日勅使が江戸城に入り、慶喜の水戸謹慎、開城、軍艦兵器の没収、重臣処分などの降伏条件を徳川方に伝達、同月11日江戸城明け渡しが行われた。しかし徳川方抗戦派将兵は江戸を脱走して関東各地で抵抗戦を行い、おりからの一揆(いっき)、打毀(うちこわし)とともに政府軍を苦境に陥れた。このなかで徳川氏処分の決着が急がれ、閏4月に三条実美(さんじょうさねとみ)は関東監察使として江戸に下り徳川氏処分内容を決定。同月29日徳川相続人を田安亀之助(たやすかめのすけ)(徳川家達(いえさと))とする旨を徳川方に伝えた。5月15日の上野戦争で彰義隊(しょうぎたい)を撃滅して関東制圧に有利な条件を獲得した新政府は、5月24日徳川亀之助を駿河(するが)府中70万石の城主とする旨を徳川方に伝達した。徳川家の駿河移封により、新政府が江戸を中心にして関東を経営し、東北地方にも支配を浸透させ、名実ともに全国に君臨する基礎が固められた。7月江戸を東京とし、10月天皇の東京行幸が実現する。
 一方、朝敵とされた会津・庄内(しょうない)両藩の降伏謝罪条件について、両藩と新政府との間の斡旋(あっせん)に尽力した仙台・米沢(よねざわ)藩などの努力も失敗し、新政府や奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府参謀に不満・不信を抱いた東北諸藩は、5月奥羽列藩同盟を結成し、やがて北越諸藩もこれに参加して奥羽越列藩同盟となって新政府に抵抗。1868年(明治1)7月仙台藩領白石(しろいし)に公議府を設け、輪王寺宮(りんのうじのみや)を軍事総督に推戴(すいたい)し、奥羽越諸藩重臣が参加して軍事・民政・会計その他を議定、執行することになる。これは、奥羽越の地に成立した諸藩連合政権であったが、新政府軍との戦闘に敗れ、同盟諸藩は次々に降伏した。12月奥羽越諸藩の処分が決定。藩主の幽閉、謹慎、削封、転封、重臣処分、贖罪金(しょくざいきん)賦課などが行われた。また、8月に徳川方海軍を率いて脱走した榎本武揚(えのもとたけあき)らは、北海道箱館を攻略してこの地に新政権を樹立したが、69年5月五稜郭(ごりょうかく)において新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終了する。
 戊辰戦争により、諸藩財政の極度の窮乏、藩主の藩内統制力の喪失、勤王・佐幕両派に分裂しての藩内抗争の激化、上級武士対下級武士、将校対兵士、文官対武官などの対立、領土の飛地(とびち)・入組(いりくみ)関係の矛盾の顕在化、その他が広範に現れ、藩体制の解体化は大きく促進された。領主階級の大部分は、天皇新政権への依存度を強め、判物(はんもつ)返上―再交付による藩主の権威の増大、領地再編成によりこの危機から脱出することを願った。この領主階級の願望と新政府指導者の策謀が結合し、1869年の版籍奉還(はんせきほうかん)が平和的に実現する。
 戊辰戦争により封建領主階級は決定的に弱体化し、封建制度の終焉(しゅうえん)と中央集権的統一国家樹立の機運を飛躍的に増大させた。また幕府の倒壊と新政権の誕生は、幕末以来の半植民地化の危機から日本が脱出する可能性を大きく増大させるものとなった。これらが戊辰戦争のもつ最大の意義である。[原口 清]
『原口清著『戊辰戦争』(1963・塙書房) ▽原口清著『明治前期地方政治史研究 上』(1972・塙書房) ▽石井孝著『維新の内乱』(1968・至誠堂) ▽佐々木克著『戊辰戦争』(中公新書)』

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世界大百科事典内の戊辰戦争の言及

【出羽国】より

…また近世中後期の出羽出身の人物に北羽では佐藤信淵,平田篤胤などの日本的学者があらわれ,南羽では幕末に清川八郎や雲井竜雄など維新の志士を生んだ。戊辰戦争は,結局西南雄藩の政府軍と会津・庄内を中心とする奥羽越列藩同盟の戦いとなったが,出羽諸藩の中でも北羽の秋田藩は官軍につき,庄内藩軍との間に激しい戦いを交えた。しかし米沢,山形をはじめ出羽諸藩の大部分は同盟軍となったが,政府軍の洋式軍備のもとに次々と降伏して約6ヵ月の戦いは終結した。…

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