徳川幕府最後の将軍だった徳川慶喜を王政復古後の新政府から排除しようとした動きへの反発がきっかけとされる。旧幕府軍が、薩摩、長州両藩を中心とする新政府軍と戦った1868年の鳥羽・伏見の戦いが始まり。新政府軍に対し、奥羽や北越の諸藩が「奥羽越列藩同盟」を結成して対抗した。旧幕臣らの彰義隊が上野・寛永寺に立てこもった上野戦争を経て、東北地方などにも戦線は拡大。翌69年、北海道・函館の五稜郭に立てこもっていた榎本武揚率いる旧幕府軍が降伏し、終結した。
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1868年(慶応4)1月の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いから1869年(明治2)5月の箱館(はこだて)戦争までの戦争をいう。1868年が干支(えと)で戊辰(つちのえたつ)の年にあたるので、この呼称がつけられている。
1867年(慶応3)12月9日の王政復古クーデターによって成立した新政府は、徳川慶喜(よしのぶ)を政権から排除し、辞官・納地を彼に要求した。新政府は、クーデターに参加した薩摩(さつま)、土佐、安芸(あき)、尾張(おわり)、越前(えちぜん)など諸藩の連合政権であり、公議政体論を支配的なイデオロギーとしていたが、政府内では当初の討幕派の優位がしだいに失われて公議政体派が優位となり、辞官・納地問題も当初の方針がしだいに緩和されていった。しかし、鳥羽・伏見の戦いにより局面は一変した。新政府軍の勝利により、近畿以西の諸侯は急速に新政府に忠誠を誓い、西日本の大商人層も新政府に協力することになった。政府内では公議政体論的権力構想は急速に衰え、討幕派の指導権が成立した。新政府は、天皇親政の名のもとに少数の専制的政治家が国家の最高意志を決定する方向に変貌(へんぼう)していった。1868年3月14日の五か条の誓文(せいもん)はこのような新政府の成立を内外に宣言するものであったし、閏(うるう)4月の政体書は誓文の精神を官制上に具体化したものであった。
一方、鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に帰った慶喜は、新政府に自己の恭順を訴える工作を行ったが効果なく、ついに上野寛永寺(かんえいじ)に閉居する。新政府は朝敵慶喜追討のため、大総督府の下に北陸、東海、東山三道の先鋒(せんぽう)総督府を置き、諸藩軍隊を指揮して江戸に向かわせた。草莽(そうもう)有志が結成した諸隊も東征に参加した。草莽諸隊のなかには、相楽総三(さがらそうぞう)らの赤報隊(せきほうたい)のように新政府側の策謀によって偽官軍の罪で弾圧されたものもある。江戸城総攻撃は、西郷隆盛(さいごうたかもり)、山岡鉄太郎(山岡鉄舟)の駿府(すんぷ)会談を経て、江戸での西郷・勝安芳(かつやすよし)(海舟)の会談により平和的開城が可能となる。1868年4月4日勅使が江戸城に入り、慶喜の水戸謹慎、開城、軍艦兵器の没収、重臣処分などの降伏条件を徳川方に伝達、同月11日江戸城明け渡しが行われた。しかし徳川方抗戦派将兵は江戸を脱走して関東各地で抵抗戦を行い、おりからの一揆(いっき)、打毀(うちこわし)とともに政府軍を苦境に陥れた。このなかで徳川氏処分の決着が急がれ、閏4月に三条実美(さんじょうさねとみ)は関東監察使として江戸に下り徳川氏処分内容を決定。同月29日徳川相続人を田安亀之助(たやすかめのすけ)(徳川家達(いえさと))とする旨を徳川方に伝えた。5月15日の上野戦争で彰義隊(しょうぎたい)を撃滅して関東制圧に有利な条件を獲得した新政府は、5月24日徳川亀之助を駿河(するが)府中70万石の城主とする旨を徳川方に伝達した。徳川家の駿河移封により、新政府が江戸を中心にして関東を経営し、東北地方にも支配を浸透させ、名実ともに全国に君臨する基礎が固められた。7月江戸を東京とし、10月天皇の東京行幸が実現する。
一方、朝敵とされた会津・庄内(しょうない)両藩の降伏謝罪条件について、両藩と新政府との間の斡旋(あっせん)に尽力した仙台・米沢(よねざわ)藩などの努力も失敗し、新政府や奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府参謀に不満・不信を抱いた東北諸藩は、5月奥羽列藩同盟を結成し、やがて北越諸藩もこれに参加して奥羽越列藩同盟となって新政府に抵抗。1868年(明治1)7月仙台藩領白石(しろいし)に公議府を設け、輪王寺宮(りんのうじのみや)を軍事総督に推戴(すいたい)し、奥羽越諸藩重臣が参加して軍事・民政・会計その他を議定、執行することになる。これは、奥羽越の地に成立した諸藩連合政権であったが、新政府軍との戦闘に敗れ、同盟諸藩は次々に降伏した。12月奥羽越諸藩の処分が決定。藩主の幽閉、謹慎、削封、転封、重臣処分、贖罪金(しょくざいきん)賦課などが行われた。また、8月に徳川方海軍を率いて脱走した榎本武揚(えのもとたけあき)らは、北海道箱館を攻略してこの地に新政権を樹立したが、69年5月五稜郭(ごりょうかく)において新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終了する。
戊辰戦争により、諸藩財政の極度の窮乏、藩主の藩内統制力の喪失、勤王・佐幕両派に分裂しての藩内抗争の激化、上級武士対下級武士、将校対兵士、文官対武官などの対立、領土の飛地(とびち)・入組(いりくみ)関係の矛盾の顕在化、その他が広範に現れ、藩体制の解体化は大きく促進された。領主階級の大部分は、天皇新政権への依存度を強め、判物(はんもつ)返上―再交付による藩主の権威の増大、領地再編成によりこの危機から脱出することを願った。この領主階級の願望と新政府指導者の策謀が結合し、1869年の版籍奉還(はんせきほうかん)が平和的に実現する。
戊辰戦争により封建領主階級は決定的に弱体化し、封建制度の終焉(しゅうえん)と中央集権的統一国家樹立の機運を飛躍的に増大させた。また幕府の倒壊と新政権の誕生は、幕末以来の半植民地化の危機から日本が脱出する可能性を大きく増大させるものとなった。これらが戊辰戦争のもつ最大の意義である。
[原口 清]
『原口清著『戊辰戦争』(1963・塙書房)』▽『原口清著『明治前期地方政治史研究 上』(1972・塙書房)』▽『石井孝著『維新の内乱』(1968・至誠堂)』▽『佐々木克著『戊辰戦争』(中公新書)』
王政復古によって成立した新政府が,反抗する諸藩軍や旧幕府残存勢力を武力をもって平定し,統一国家の基礎を固めることになった内乱である。戦乱は1868年(明治1)戊辰の年にあたる1月から69年5月まで1年半に及んだ。王政復古の結果,旧幕府武力討伐を唱える討幕派と,旧幕府を含めた平和的諸藩連合を構想する公議政体派が,拮抗(きつこう)しながら連合した新政府が成立した。武力討幕派は関東攪乱(かくらん)工作を行って旧幕府軍の軍事行動を挑発し,ついに1868年1月3日,大坂に集結した旧幕府軍は進撃を開始し,鳥羽・伏見を守る薩長軍と交戦したのである。数的に劣る薩長軍にとって,あらかじめ勝利を保証するものはなかったが,3日で装備や指揮系統に欠陥をもつ旧幕府軍を撃破した。ここに戊辰戦争が始まった。この鳥羽・伏見の戦に勝利を収めた新政府は,天皇の権威を確保し,以後,討幕軍は官軍として菊章旗を掲げて進軍することができた。また新政府内でも岩倉具視,大久保利通,木戸孝允らの武力討幕派が指導権を握り,西日本の大名らは形勢を見てぞくぞく入京を始め,諸外国も局外中立を宣言した。江戸へ帰った徳川慶喜は当初,反攻を計画したが,すでに新政府内の公議政体派が勢力を失っており,失地回復の手がかりがないのを見て恭順に踏み切った。かくて事実上,大勢は決したのである。2月,新政府は,大総督府,諸道総督府を設置し,有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を大総督宮に任命し,いわゆる朝敵藩に対して,開城,藩主謹慎,勤王誓紙差出しなどを条件に降伏をいれつつ東征の軍を進めた。
関東一帯では百姓一揆や打毀が頻発し,またイギリス公使パークスも江戸の戦乱を憂慮して新政府に圧力を加え,勝海舟と大総督府参謀西郷隆盛は,当初の新政府の方針より後退した無血江戸開城の合意に達した。かくして4月11日,江戸城は新政府軍に接収されたが,なお彰義隊は上野寛永寺に拠ってゲリラ的抗戦を続け,軍備の整わない新政府軍も,これを圧服できず,新政府の前途を危ぶむ声は内外に多かった。この江戸の不安定な情勢が東北で奥羽越列藩同盟の結成を許し,ひいては戦乱を予想外に長期化させる要因になったのである。大村益次郎が彰義隊を討伐し,新政府の権威を江戸に確立するのは,開城の1ヵ月後,5月15日のことである。
江戸の騒乱状態が継続するうちに,慶喜に次ぐ重罪と目された会津藩の寛典を求める東北諸藩は,5月3日に奥羽列藩同盟を結び,ついで長岡藩などの北越諸藩がこれに合流し,ここに戊辰戦争は,新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦乱に拡大した。とくに北越方面では,長岡藩や会津藩援軍などの同盟軍と新政府軍の一進一退の焦土戦が続き,7月29日,新政府軍の再度の長岡城接収によってようやく大勢が決した。越後口と白河口から進攻した新政府軍は,米沢藩,仙台藩などを順次降伏させ,9月15日,約1ヵ月の籠城に耐えた会津藩を攻略し,やがて盛岡藩,庄内藩も軍門に下り,東北の戦乱も終了した。激戦の続いた東北戦争では,両軍の支配地で民衆の一揆が続発し,民政局を設置した新政府も民心掌握のうえで大きな課題を負ったのである。
東北戦争が戦われているころ,旧幕府艦隊に乗船して江戸を脱走した旧幕臣らは,10月20日,蝦夷地に到着し,箱館の五稜郭に拠って,榎本武揚を総裁とする士族共和政府の樹立と蝦夷地の統治開拓に着手した。新政府は,翌春に北征艦隊を派遣,1869年5月18日,これを攻略し,戊辰戦争は終結した。
新政府内で戦争の大局を推進させたのは大久保や木戸らの政務官僚であり,また実戦の戦略や戦地の民政の指導は軍防事務局判事加勢の大村や山県有朋らの参謀たちによって行われ,彼らが維新政府の実権を握るのである。また両軍に参加した諸藩は,ともに長期の遠征や莫大な戦費によって疲弊し,これがやがて封建的藩割拠の体制が終了する重要な要因となった。
執筆者:井上 勝生
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1868年(明治元)1月の鳥羽・伏見の戦から69年5月の箱館戦争までの,新政府と反新政府諸藩・旧幕府勢力との戦争。67年(慶応3)12月9日に小御所会議で決定した前将軍徳川慶喜(よしのぶ)への辞官・納地命令や討幕派の挑発行動により,68年1月3日鳥羽・伏見の戦が勃発。これに勝利した討幕派は慶喜と会津藩へ追討令を発して,東海・東山・北陸の3道から江戸に進軍した。2月慶喜は謝罪,恭順の意を表して江戸城を退去,4月11日江戸城の無血開城となったが,旧幕府主戦派は抗戦を続け,新政府は5月15日の上野戦争で彰義隊を壊滅させてようやく関東の治安を回復した。しかし8月旧幕府海軍副総裁榎本武揚(たけあき)は艦隊を率いて江戸を脱出,10月蝦夷地(えぞち)に上陸して箱館に蝦夷島政府を樹立した。新政府から会津藩追討令をうけていた東北諸藩は,会津藩への寛大な処分を求める周旋工作が失敗に終わると,5月に仙台・米沢両藩を中心に奥羽列藩同盟を結成した。これが奥羽越列藩同盟に発展して,新政府との間で東北・北越戦争が展開されたが,9月の会津戦争を最後に同盟側の敗北に終わった。68年1月に局外中立を表明していた列国も12月これを取り消し,翌年5月18日箱館戦争で榎本軍が降伏して終わった。
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…また近世中後期の出羽出身の人物に北羽では佐藤信淵,平田篤胤などの日本的学者があらわれ,南羽では幕末に清川八郎や雲井竜雄など維新の志士を生んだ。戊辰戦争は,結局西南雄藩の政府軍と会津・庄内を中心とする奥羽越列藩同盟の戦いとなったが,出羽諸藩の中でも北羽の秋田藩は官軍につき,庄内藩軍との間に激しい戦いを交えた。しかし米沢,山形をはじめ出羽諸藩の大部分は同盟軍となったが,政府軍の洋式軍備のもとに次々と降伏して約6ヵ月の戦いは終結した。…
※「戊辰戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
カスタマー(顧客)とハラスメント(嫌がらせ)を組み合わせた造語「カスタマーハラスメント」の略称。顧客や取引先が過剰な要求をしたり、商品やサービスに不当な言いがかりを付けたりする悪質な行為を指す。従業...
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