日本歴史地名大系 「上名久井村」の解説
上名久井村
かみなくいむら
永禄一〇年(一五六七)と推定される東政勝書状案(遠野南部文書)に「八戸殿御宿所 自名久井民部大輔 勝」とある。所伝によれば鎌倉時代伊豆(現静岡県)の工藤祐経の長男犬房丸が当地に来住し、その嫡子が上名久井氏と称し、のち東氏と改称して当地に居住していたとされ(奥南旧指録)、北条氏に連なる工藤一族の勢力下にあったものと考えられる。建武新政後には根城南部氏が北条旧勢力を一掃し、戦国期に至って三戸南部氏二四代晴政が台頭すると、その腹臣の東政勝が当地の上名久井館に居館し、当地を支配していた。東氏は三戸城の東に屋敷があったところから東殿と称されたという(同書)。同氏は馬淵川の右岸地域を領した櫛引氏と連携し、同河川の右岸地域では一大勢力を形成していた。当地は「郷村古実見聞記」に「四戸 今八戸御領分に相成候処の名久井を四戸と古来唱也」とあり、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報