名久井通
なくいどおり
八戸藩の地方行政組織五通の一つ。東は八戸廻、北は長苗代通、南は軽米通(現岩手県北東部)に接し、西は盛岡藩領五戸通・三戸通となる。現在の名川町の全域、福地村のごく一部を除く大部分、南郷村の西半分の地域にあたる。設置年代は不詳であるが、「八戸藩史料」は寛文一一年(一六七一)六月「名久井通代官管下三千石」が定められたとする。しかし八戸藩日記の同九年六月一七日条には名久井代官所へ足軽を派遣したことが記されており、八戸藩創立当初から設置されていたものとみられる。また雑書の正保四年(一六四七)一一月五日条にすでに名久井代官がみえており、盛岡藩の代官所が八戸藩に引継がれたとも考えられる。代官所は当初名久井村(現名川町)に開設されていたがその後廃止され、八戸城中で執務するようになった模様である。代官の定員は二名で、宝暦九年(一七五九)頃から長苗代通と兼職とされ、名久井長苗代通代官として任命された。
八戸藩日記の延宝元年(一六七三)六月一八日条に「給所新田検分衆苫米地通相済」、翌二年四月二日条に「名久井通御検地あらまし相済」とあり、この頃検地が実施されている。貞享元年(一六八四)の陸奥国南部領郷村高辻帳(八戸市立図書館蔵)でみると管内の村は名久井・森腰・虎渡・剣吉・斗賀(現名川町)、苫米地・小泉・福田・法師岡・杉野沢(現福地村)、中野(現南郷村)の三戸郡中一一ヵ村で、高は三三六八・四五一石である。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳でも村数は変わらないが、名久井通村のうちとして上名久井・下名久井・高瀬・平・鳥舌内・鳥谷・法光寺(現名川町)、泉清水(現南郷村)の八ヵ村、中野通村のうちとして中野・大森・市ノ沢・泥障作(現南郷村)の四ヵ村、苫米地村のうちとして苫米地・片岸・高橋・麦沢(現福地村)の四ヵ村、杉沢村のうちとして杉沢・埖渡(現福地村)の二ヵ村がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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