上野花園町(読み)うえのはなぞのちよう

日本歴史地名大系 「上野花園町」の解説

上野花園町
うえのはなぞのちよう

[現在地名]台東区池之端いけのはた三丁目・上野公園うえのこうえん

明治五年(一八七二)起立。起立時には不忍しのばず池北岸の旧上野家来屋敷と旧東叡山内北方、徳川家墓地の北側にあった旧谷中やなか村飛地、徳川家廟所火除地、浄名じようみよう院墓地などを町域としたが、同一〇年大部分が上野桜木うえのさくらぎ町の域内になり、不忍池の北岸部分だけが町域になった。江戸時代には上野御花畑、また池ノ端御花畑とよばれていた所で、花園町の名はこの寛永寺諸堂に献花するための花畑があったことに由来する。同所辺りは寛永二年(一六二五)寛永寺境内に編入された当初は墓所として使われており、初代の輪王寺宮守澄法親王(第三世の東叡山主、後水尾天皇第三皇子)が延宝八年(一六八〇)に死去した時にもここに埋葬された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

苦肉の策

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android