第108代の天皇(在位1611~29)。名を政仁(ことひと)、幼称を三宮といい、法名を円浄という。母は太政(だいじょう)大臣近衛前久(このえさきひさ)の娘、中和門院藤原前子(さきこ)で、後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇子として生まれる。1600年(慶長5)親王宣下、1610年元服、翌年16歳で即位した。1620年(元和6)2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の娘和子(かずこ)を女御(にょうご)とし、1624年(寛永1)皇后宣下して中宮(ちゅうぐう)に冊立。武家出身の中宮は、平清盛(きよもり)の娘徳子(建礼門院)以来の異例のできごとであった。こうした幕権を背景とした徳川氏の朝廷抑圧は、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」(禁中并公家中諸法度)の制定や、紫衣(しえ)事件などを通してしだいに激しくなっていった。これを不満として、1629年わずか7歳の興子(おきこ)内親王(明正(めいしょう)天皇)に位を譲り、自らは院政を敷いた。その期間は明正、後光明(ごこうみょう)、後西(ごさい)、霊元(れいげん)の4代51年に及んでいる。また、天皇は学問・芸術にも関心深く、さまざまな文化活動を行った。俳名を玉露といい、詩歌・連歌をよくした。御集に『鴎巣(おうそう)集』がある。このほか、天皇の造営にかかる洛北(らくほく)の修学院(しゅがくいん)離宮は日本屈指の名園。延宝(えんぽう)8年8月19日、85歳で没。陵は京都市東山区今熊野泉山町の月輪陵。
[佐々悦久]
『熊倉功夫著『後水尾院』(1982・朝日新聞社)』
第108代に数えられる天皇。在位1611-29年。諱(いみな)は政仁(ことひと)。後陽成天皇の第3皇子。母は中和門院近衛前子。1611年(慶長16)後陽成天皇のあとをうけて即位。20年(元和6)将軍徳川秀忠の女和子(まさこ)を女御とし,24年(寛永1)中宮とした。のちの東福門院がこれで,外戚となった徳川氏は皇居を造営し,1623年には新たに1万石の御料を進める(〈新御料〉)など尊崇の意を表しながらも,禁中並公家諸法度(1615制定)や所司代,付武家などを通して種々の干渉を加えた。ことに27年の紫衣(しえ)事件は朝廷の面目を完全につぶすものであったのみならず,29年には将軍家光の乳母福(春日局)が無位無官の身で拝謁するという前例のないことが敢行され,積年の幕府に対する天皇の不満を爆発させる契機となり,同年11月8日,突如,和子所生の興子内親王(明正天皇)に譲位。在位18年,明正・後光明・後西・霊元の4天皇,51年にわたり院政をしいた。51年(慶安4)剃髪。法名は円浄。学問を好み,智仁親王,烏丸光広,中院通村らに《伊勢物語》《源氏物語》《古今和歌集》《詠歌大概》などを進講させ,ときにみずからも廷臣に講義し,《伊勢物語御抄》などを著作。1621年には勅して《皇宗(こうそう)事宝類苑》を刊行させ廷臣や学者らに与えた。和歌,連歌を好み,古今伝授を智仁親王より受け,歌集を《鷗巣(おうそう)集》といい,俳名を玉露と称する。修学院離宮の造営でも知られる。
執筆者:橋本 政宣
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(母利美和)
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1596.6.4~1680.8.19
在位1611.3.27~29.11.8
後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇子。名は政仁(ことひと)。母は近衛前久(さきひさ)の女中和門院前子。幼称三宮。1600年(慶長5)12月親王宣下。20年(元和6)6月将軍徳川秀忠の女和子(東福門院)を女御(にょうご)とした。その後紫衣(しえ)事件など幕府の朝廷干渉への反発もあり,29年(寛永6)11月にわかに譲位。51年(慶安4)5月落飾して法名を円浄と称した。禅宗に傾倒し,一糸文守(いっしもんじゅ)ら禅僧に深く帰依した。和歌や書などの学芸にもすぐれ,古今伝授の継承や,修学院離宮の造営など,宮廷文化繁栄の中心的役割をはたした。
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…初期の立花が花瓶も小型で1mに足らぬものであったものが,江戸初期には2mに近い大きさのものとなる。立花(りつか)を大成させたのは2世専好で,ことに寛永期(1624‐44)には後水尾天皇の庇護を受け,立花を特に愛し,その心得もあった天皇によって,しばしば立花の会が催された。享保期(1716‐36)の近衛予楽院(家熙)の《槐記(かいき)》によれば,〈凡そ立花の中興は専好に止まりたり 専好を名人とす〉とあり,また後水尾天皇の立花の会については,〈紫宸殿より庭上南門まで,双方に仮屋を打ちて出家町人にかぎらず,其事に秀たる者は皆立花させて双(なら)べられたり〉とあって,その壮観がしのばれる。…
…江戸前期の臨済の名僧。〈いっしぶんしゅ〉とも読む。文守は公家の出身で,はじめ堺の南宗寺の沢庵宗彭に師事し,ついで妙心寺の愚堂東寔(ぐどうとうしよく)の法をついだ。彼は,生涯を一貫して,幕府の権勢におもねる禅宗界の趨勢を嫌い,栄利を求めず,孤高にして気韻ある隠者の禅をめざした。この彼の禅の高潔さは,かえって後水尾上皇の知遇をえる契機となり,東福門院,皇女梅宮,近衛信尋,烏丸光広など上皇側近の宮廷貴族があいついで彼に帰依した。…
…京都市左京区にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は大悲山。後水尾上皇は修学院離宮を造営する以前に,洛北に幡枝(はたえだ)御茶屋と呼ばれた山荘を営んだ。当寺は,この山荘の御殿を,霊元天皇の乳母であった円光院文英尼が1678年(延宝6)禅寺に改めたものである。叡山借景で有名な枯山水の庭は,この山荘の庭を利用したもので,四十数個の石を組み,その石組に刈り込んだ低い丸ツツジを配し,庭全体をもとは白砂,現在はスギゴケで覆っている。…
※「後水尾天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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