コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

後水尾天皇 ごみずのおてんのう

8件 の用語解説(後水尾天皇の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

後水尾天皇
ごみずのおてんのう

[生]慶長1(1596).6.4. 京都
[没]延宝8(1680).8.19. 京都
第 108代の天皇 (在位 1611~29) 。名は政仁 (ことひと) ,幼称は三宮,法名は円浄という。後陽成天皇の第3皇子。母は中和門院藤原前子 (太政大臣近衛前久の娘) 。慶長 16 (11) 年受禅,即位した。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ごみずのお‐てんのう〔ゴみづのをテンワウ〕【後水尾天皇】

[1596~1680]第108代天皇。在位、1611~1629。後陽成天皇の第3皇子。名は政仁(ことひと)。禁中並公家諸法度の制定などによる幕府の圧迫に対する不満から明正天皇に譲位、その後4代にわたって院政を執った。学問・詩歌を好み、洛北に修学院離宮を造営。歌集「鴎巣集」がある。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

後水尾天皇【ごみずのおてんのう】

江戸初期の天皇。後陽成天皇の第3皇子。中宮は徳川秀忠の女(むすめ)和子(まさこ)(のちの東福門院)。1611年即位。以後,禁中並公家諸法度の制定(1615年),所司代などを通じての干渉に加え,幕府の法が天皇の勅許に優越することを見せつけた紫衣事件,前例を無視した春日局無位無官の身での拝謁強行などによって幕府への不満が爆発,1629年突如譲位。
→関連項目勅版徳川家康

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

後水尾天皇 ごみずのおてんのう

1596-1680 江戸時代前期,第108代天皇。在位1611-29。
文禄(ぶんろく)5年6月4日生まれ。後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇子。母は藤原前子(さきこ)(中和門院)。16歳で即位。徳川幕府の体制確立期で,徳川秀忠の娘和子が入内(じゅだい)。朝廷の権限は禁中並公家諸法度で規制された。紫衣(しえ)事件などを機に譲位し,以後明正(めいしょう)・後光明(ごこうみょう)・後西(ごさい)・霊元(れいげん)天皇の4代にわたって院政をとる。和歌,漢詩,書道,茶道などに長じた。修学院離宮を造営。延宝8年8月19日死去。85歳。墓所は月輪陵(つきのわのみささぎ)(京都市東山区)。諱(いみな)は政仁(ことひと)。法名は円浄。歌集に「鴎巣(おうそう)集」,著作に「当時年中行事」など。
【格言など】いかにしてこの身一つをたださまし国を治むる道はなくとも(「後水尾院御集」)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

後水尾天皇

没年:延宝8.8.19(1680.9.12)
生年:慶長1.6.4(1596.6.29)
江戸前期の天皇。後陽成天皇第3皇子,三宮。母は関白近衛前久の娘前子(中和門院)。諱は政仁。慶長5(1600)年12月21日親王宣下,16年3月27日践祚,同年4月12日即位。元和6(1620)年6月18日,将軍徳川秀忠の娘和子を女御として迎え,同9年11月の女一宮誕生をはじめ寛永6(1629)年までに3皇女,2皇子をもうけた。同年11月8日突然に女一宮興子内親王(明正天皇)へ譲位。女帝への譲位は一代でその血統が絶えるため,女御所生の皇子への譲位をもくろむ徳川幕府には手痛い打撃であった。譲位の原因は,天皇の腫物灸治,朝廷への武家介入や紫衣事件(1627~29),春日局参内に対する憤懣のほか,徳川氏の孫が即位するまで女御所生の子以外がおし殺されていたことも原因とする見方もある。天皇の在位期は幕府体制確立の過渡期にあり,朝廷を包摂した新たな朝幕関係確立を目指す幕府は,元和1年「禁中並公家諸法度」を制定,摂家,武家伝奏を通じた朝廷支配を強化した時期である。譲位により,上皇の立場から新たな朝廷秩序を目指したとも考えられる。譲位後,院にあること52年。宮廷を中心とした文芸復興の機運のなか,近臣公家,禅僧による学問講や和歌,漢和聯句,立花の会を主催した。歌学においては智仁親王,三条西実条,烏丸光広,中院通村に師事し,寛永2年智仁親王から古今伝授を受けた。のちに宮廷歌壇の最高指導者として稽古会,古典講釈を催し,後継の親王,公卿に古今伝授を行い御所伝授による宮廷歌壇を確立。歌集『鴎巣集』がある。宮廷文化,朝儀復興に強い意欲を示し『当時年中行事』の著書がある。また仏道にも帰依,特に禅宗の一糸文守に傾倒し,慶安4(1651)年落飾。法名円浄。京都泉涌寺内の月輪陵に葬られる。修学院離宮は後水尾の造営。<参考文献>熊倉功夫『後水尾院』,同『寛永文化の研究』,辻達也他編『日本の近世2 天皇と将軍』

(母利美和)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ごみずのおてんのう【後水尾天皇】

1596‐1680(慶長1‐延宝8)
第108代に数えられる天皇。在位1611‐29年。諱(いみな)は政仁(ことひと)。後陽成天皇の第3皇子。母は中和門院近衛前子。1611年(慶長16)後陽成天皇のあとをうけて即位。20年(元和6)将軍徳川秀忠の女和子(まさこ)を女御とし,24年(寛永1)中宮とした。のちの東福門院がこれで,外戚となった徳川氏は皇居を造営し,1623年には新たに1万石の御料を進める(〈新御料〉)など尊崇の意を表しながらも,禁中並公家諸法度(1615制定)や所司代,付武家などを通して種々の干渉を加えた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ごみずのおてんのう【後水尾天皇】

1596~1680) 第一〇八代天皇(在位1611~1629)。名は政仁ことひと。後陽成天皇の第三皇子。「禁中並公家諸法度」などで皇室に圧力を加える幕府に抵抗。明正天皇に譲位後、四代51年間院政を行う。学問・芸術を好み、修学院離宮を造営。歌集「鷗巣集」

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

後水尾天皇
ごみずのおてんのう
(1596―1680)

第108代の天皇(在位1611~29)。名を政仁(ことひと)、幼称を三宮といい、法名を円浄という。母は太政(だいじょう)大臣近衛前久(このえさきひさ)の娘、中和門院藤原前子(さきこ)で、後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇子として生まれる。1600年(慶長5)親王宣下、1610年元服、翌年16歳で即位した。1620年(元和6)2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の娘和子(かずこ)を女御(にょうご)とし、1624年(寛永1)皇后宣下して中宮(ちゅうぐう)に冊立。武家出身の中宮は、平清盛(きよもり)の娘徳子(建礼門院)以来の異例のできごとであった。こうした幕権を背景とした徳川氏の朝廷抑圧は、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」(禁中并公家中諸法度)の制定や、紫衣(しえ)事件などを通してしだいに激しくなっていった。これを不満として、1629年わずか7歳の興子(おきこ)内親王(明正(めいしょう)天皇)に位を譲り、自らは院政を敷いた。その期間は明正、後光明(ごこうみょう)、後西(ごさい)、霊元(れいげん)の4代51年に及んでいる。また、天皇は学問・芸術にも関心深く、さまざまな文化活動を行った。俳名を玉露といい、詩歌・連歌をよくした。御集に『鴎巣(おうそう)集』がある。このほか、天皇の造営にかかる洛北(らくほく)の修学院(しゅがくいん)離宮は日本屈指の名園。延宝(えんぽう)8年8月19日、85歳で没。陵は京都市東山区今熊野泉山町の月輪陵。[佐々悦久]
『熊倉功夫著『後水尾院』(1982・朝日新聞社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の後水尾天皇の言及

【いけばな】より

…初期の立花が花瓶も小型で1mに足らぬものであったものが,江戸初期には2mに近い大きさのものとなる。立花(りつか)を大成させたのは2世専好で,ことに寛永期(1624‐44)には後水尾天皇の庇護を受け,立花を特に愛し,その心得もあった天皇によって,しばしば立花の会が催された。享保期(1716‐36)の近衛予楽院(家熙)の《槐記(かいき)》によれば,〈凡そ立花の中興は専好に止まりたり 専好を名人とす〉とあり,また後水尾天皇の立花の会については,〈紫宸殿より庭上南門まで,双方に仮屋を打ちて出家町人にかぎらず,其事に秀たる者は皆立花させて双(なら)べられたり〉とあって,その壮観がしのばれる。…

【一糸文守】より

…江戸前期の臨済の名僧。〈いっしぶんしゅ〉とも読む。文守は公家の出身で,はじめ堺の南宗寺の沢庵宗彭に師事し,ついで妙心寺の愚堂東寔(ぐどうとうしよく)の法をついだ。彼は,生涯を一貫して,幕府の権勢におもねる禅宗界の趨勢を嫌い,栄利を求めず,孤高にして気韻ある隠者の禅をめざした。この彼の禅の高潔さは,かえって後水尾上皇の知遇をえる契機となり,東福門院,皇女梅宮,近衛信尋,烏丸光広など上皇側近の宮廷貴族があいついで彼に帰依した。…

【円通寺】より

…京都市左京区にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は大悲山。後水尾上皇は修学院離宮を造営する以前に,洛北に幡枝(はたえだ)御茶屋と呼ばれた山荘を営んだ。当寺は,この山荘の御殿を,霊元天皇の乳母であった円光院文英尼が1678年(延宝6)禅寺に改めたものである。叡山借景で有名な枯山水の庭は,この山荘の庭を利用したもので,四十数個の石を組み,その石組に刈り込んだ低い丸ツツジを配し,庭全体をもとは白砂,現在はスギゴケで覆っている。…

※「後水尾天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

後水尾天皇の関連キーワード昭高院道周法親王高松宮好仁親王曼殊院良恕法親王然法親王高松宮勅版新上東門院辻近弘葉室宣子好仁親王

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone

後水尾天皇の関連情報