下八釣村(読み)しもやとりむら

日本歴史地名大系 「下八釣村」の解説

下八釣村
しもやとりむら

[現在地名]橿原市下八釣しもやつり

高殿たかどの村東方、藤原京跡内の村名。ヤトリは漢織あやはとり(飛鳥衣縫部)の転訛語か。ここより南に十市郡もと村・南浦みなみうら(現橿原市)、高市郡奥山おくやま(現明日香村)を経てもう一つの八釣村(現明日香村)がある。近世初期は大野治長領。大坂夏の陣後、幕府領(代官角南重勝)となる。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、延宝七年(一六七九)以降再び幕府領となった。

慶長郷帳には「下矢取」、寛永郷帳には「下八鳥」とみえる。当時の村高は二一一・五九石であったが、郡山藩の二割半無地高増政策で村高二六四・四八八石となる。延享元年(一七四四)の村明細帳(区有文書)では家数二一、人口一一八(男五五、女六三)、牛四とみえ、表作は旱損地が多いので四分半(四五パーセント)を綿作にあてている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報