橿原市(読み)カシハラシ

デジタル大辞泉 「橿原市」の意味・読み・例文・類語

かしはら‐し【橿原市】

橿原

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日本歴史地名大系 「橿原市」の解説

橿原市
かしはらし

面積:四〇・四三平方キロ

奈良盆地の南部に位置し、近世の高市郡の北半、十市郡中央部を占める。南辺に竜門りゆうもん山塊から派生した越智岡おちおか丘陵があるほかはほとんどが平地で、平野部に畝傍うねび(一九九・二メートル)耳成みみなし(一三九・七メートル)天香久あめのかぐ(一五二メートル)の大和三山が鼎立、曾我川・高取川・飛鳥川・よね川・寺川が流れ、多くの池が築かれている。中央に位置する八木やぎ町はなか街道(下ツ道)初瀬はせ街道(伊勢街道、横大路)の交点にあたり、古来、交通の要所である。東は桜井市、西は御所ごせ市・大和高田市・北葛城郡広陵町、南は高市郡、北は磯城しき郡。

カシハラの地名は「古事記」神武天皇段に「畝火の白檮原かしはら宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とみえ、「日本書紀」神武即位前紀己未年三月七日条には「畝傍山畝傍山、此をば宇禰縻夜摩と云ふ。の東南の橿原の地は、蓋し国のもなかのくしら区か。みやこつく るべし」とあり、市名はこれによったもの。

〔原始〕

旧石器時代の遺跡は確認されていないが、縄文時代の遺跡は畝傍山東方の橿原遺跡で代表され、光陽こうよう町やかず町から晩期の土器片が出土。弥生時代になると河川流域の肥沃地やわずかの微高地に集落が営まれ、曾我川流域では南より一町・曲川まわりかわ中曾司なかぞしの集落が連なり、飛鳥川流域では四分しぶ遺跡やおお遺跡が、寺川流域では坪井つぼい遺跡がある。忌部山いんべやま遺跡に連なる新沢千塚しんざわせんづか古墳群の下層から弥生時代後期の土器片が出土し、天満てんま山では壺棺なども発見されている。

古墳時代になると越智岡丘陵の西北端の新沢千塚五〇〇号墳や畝傍山の西麓のスイセンづか古墳など前期の古墳が存在する。中期古墳も新沢千塚内に多数営まれ、桝山ますやま古墳や身狭桃花鳥坂上むさのつきさかのへ(宣化陵)などの大古墳の築造や新沢千塚一二六号墳のように、中国大陸・朝鮮半島の色彩の強い遺物が出土している。後期古墳は越智岡丘陵の南西斜面の新沢千塚内に木棺直葬を中心とした古墳が営まれ、東斜面には横穴式石室を主体とする古墳が存在し、同地域内には県下最大の前方後円墳見瀬丸山みせまるやま古墳や終末期の小谷こたに古墳・菖蒲池しようぶいけ古墳などがある。

弥生時代以来開発された低地部にも、弁天塚べんてんづか古墳や墓山はかやま古墳、また不整方形をした円筒埴輪列をめぐらした下明寺げみようじ古墳などが存在し、集落と古墳との関係を示唆する。

〔古代〕

記紀によれば、畝傍山付近に神武天皇の橿原宮が営まれ、天皇がここで即位したほか、懿徳・孝元・応神・舒明・安閑の諸天皇の宮が市域に比定され、とくに持統天皇から元明天皇に至る藤原京は初めて都城制を布いた都である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「橿原市」の意味・わかりやすい解説

橿原〔市〕
かしはら

奈良県北西部,奈良盆地南部にある市。 1956年2月畝傍,今井,八木の3町と真菅,鴨公,耳成の3村が合体して市制,同年7月金橋,新沢の2村を編入。飛鳥川,曾我川,寺川が南北に貫流,沿岸一帯は条里制の地割を残す。大和三山に囲まれ,橿原神宮,神武天皇陵をはじめ,特別史跡の藤原宮跡,本薬師寺跡,史跡の丸山古墳菖蒲池古墳新沢千塚古墳群,藤原京朱雀大路跡など歴史的・考古学的遺構が多く残る。中心市街地の八木は商業,交通の要地。それに続く今井は戦国時代に一向宗門徒の開いた寺内町が起源で,江戸時代の町並みが保存され,今西家住宅をはじめ,8棟の民家が重要文化財に指定されている。農村部では野菜,花卉の促成栽培が行われるが宅地開発が著しい。中央部を JR桜井線,近畿日本鉄道大阪線・橿原線,国道 24号線などが通じる。面積 39.56km2。人口 12万922(2020)。

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