興福寺【こうふくじ】
長崎市にある黄檗(おうばく)宗の寺。本尊釈迦如来。南京(なんきん)寺・あか寺とも。1620年渡来した中国僧劉覚真円(りゅうかくしんえん)が開基,1632年黙子如定(もくしにょじょう)が入寺し,船主・乗組員らの喜捨で堂宇を整えた。1883年工匠・資材など全てを中国から調達して完成させた純中国建築の本堂(大雄宝殿)は重要文化財。
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興福寺
こうふくじ
奈良市登大路町にある法相宗の本山。和銅3 (710) 年遷都に伴い藤原不比等が創建。養老4 (720) 年に興福寺仏殿司が設けられ,七堂伽藍や仏像の造立が相次ぎ,寺観が整備された。藤原氏一門の氏寺として寺領は増大し,平安・鎌倉時代を通じ春日社の実権も掌握して,南都七大寺の1つとなる。数回火災にあい,その都度再建されたが,中金堂の一郭は享保2 (1717) 年の火災後再建されていない。北円堂,五重塔,東金堂,南円堂,三重塔,湯屋などの建造物が現存。このうち北円堂,五重塔,東金堂,三重塔が国宝。湯屋が重要文化財。天平時代の『十大弟子立像』『八部衆立像』,白鳳時代の旧山田寺蔵の『仏頭』,板彫『十二神将立像』,北円堂の『四天王立像』,運慶作の『無着・世親像』,康慶作の『法相六祖坐像』,康弁作の『天燈鬼・竜燈鬼像』など,多数の国宝仏像彫刻を有する。
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こうふく‐じ【興福寺】
(古くは「こうぶくじ」) 奈良市登大路町にある法相
(ほっそう)宗の大本山。南都七大寺の一つ。天智天皇八年(
六六九)藤原鎌足の夫人鏡女王
(かがみのおおきみ)が、
山城国山階(京都市山科区)に
山階寺(やましなでら)を創建したのにはじまる。天武天皇元年(
六七二)大和国高市郡厩坂
(うまやさか)(=奈良県橿原市)の地に移して
厩坂寺と呼ばれた。和銅三年(
七一〇)平城京遷都に伴い、鎌足の子不比等が現在地に移し、現名に改めた。以後藤原氏の氏寺として栄え、
衆徒は延暦寺の
山法師に対して
奈良法師といわれ、
北嶺・南都と並称されて恐れられた。現存する建物は鎌倉時代以後の再建で東金堂、北円堂、三重塔、五重塔が国宝。また、国宝館には重要文化財、国宝を多数所蔵する。南円堂は西国三十三所の第九番札所。
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興福寺
こうふくじ
奈良市登大路町にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つで,藤原氏の氏寺
藤原鎌足の妻鏡女王 (かがみのおおきみ) が夫の遺志を継ぎ京都山科 (やましな) に創建した山階寺に始まる。平城遷都とともに奈良に移り,興福寺と改称。藤原氏の隆盛とともに栄え,平安時代以後多くの荘園を持った。平安末期にこの寺の僧兵は寺法師といわれ,春日神社の神木を奉じてしばしば朝廷に強訴 (ごうそ) し,延暦寺とともに南都北嶺と称された。中世には大和の守護を兼ね,大和一国を支配して,多くの座をもっていたが,戦国時代以後しだいに衰微した。また彫刻に『仏頭』(白鳳時代),『阿修羅像』『八部衆像』(天平時代),『無著・世親像』『天灯鬼・竜灯鬼』(鎌倉時代)などのすぐれた作品が残されている。
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興福寺
奈良県奈良市にある寺院。法相宗大本山。藤原鎌足の遺志により、山城国につくられた山階(やましな)寺が起源と伝わる。8世紀初頭に藤原不比等が現在地に移転し、寺号を改めた。国宝の五重塔、三重塔、阿修羅像など、数多くの文化財を保有。「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。南都七大寺のひとつ。南円堂は西国三十三所第9番札所。
興福寺
長崎県長崎市にある黄檗宗の寺院。山号は東明山、本尊は釈迦如来。福済寺・崇福寺と並ぶ唐三ヵ寺のひとつ。「南京寺」「あか寺」とも呼ばれる。大雄宝殿は国の重要文化財に指定。
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こうふくじ【興福寺】
奈良市にあり,法相宗。南都七大寺の一つ。710年(和銅3)平城遷都の直後に藤原不比等が建立した。寺伝では本尊の釈迦三尊像は不比等の父の藤原鎌足の念持仏であり,近江大津京では山階(山科)(やましな)寺,大和藤原京では厩坂(うまやさか)寺に本尊としてまつられたといい,興福寺が藤原氏の氏寺たるいわれや,山階寺と呼ばれるゆえんがわかる。興福寺の寺地は平城京の左京三条七坊(外京)を占め,官営工事も加わって天平盛代には七堂伽藍をそなえた。
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世界大百科事典内の興福寺の言及
【運慶】より
…名匠定朝の系統である慶派に属し,父は康朝の弟子とされる康慶である。12世紀後半期は京都に根拠を置く院派・円派が貴族の信任を得て勢力を誇り,定朝の孫の頼助以来興福寺に所属して奈良に中心を置く慶派はふるわなかった。しかし,康朝の子成朝が鎌倉に下るなど,しだいに慶派は関東武士の間に活躍の場を求め,運慶の代に入り,東大寺復興の造仏に至ってその勢力関係は逆転する。…
【春日大社】より
…そのつど,神宝や芸能および神領が奉納寄進された。この春日社の繁栄を見た興福寺は,神仏習合思想を利用して,春日社の同寺鎮守化や社頭読経法会の執行を念願,とくに春日四所大明神の本地を釈迦・薬師・地蔵・観音と説いて興福寺の春日社祭祀の道理を主張,さらに春日社武力の春日神人(じにん)を手なずけて無理を強行するに至った。同寺衆徒は1135年(保延1)に春日若宮神社を創建,氏長者に強請して翌年9月から御旅所を春日野の興福寺境内に仮設して若宮祭(若宮御祭(おんまつり))を一国の祭りとして執行した。…
【春日版】より
…平安時代後半から鎌倉時代全期にわたって,藤原氏の氏寺(うじでら)である興福寺を中心に奈良の諸大寺で開版(板)された経巻類をさす。〈春日版〉の名は明治以後に唱えられたもので,鎌倉時代初期に藤原氏の氏神である春日神社に奉献されたところから,この名が出たともいわれる。…
【鎌倉時代美術】より
…絵画における宅磨派はのちに仏師としてもこの地方を中心に活躍する。
[南都復興と鎌倉彫刻]
1180年(治承4)平氏による南都の焼打ちはどちらかといえば偶発的なものであるが,東大寺と興福寺の二つの強大な古代寺院の壊滅は文化史上の大事件であり,その復興造営は鎌倉美術の歩みを急激に早めた感がある。まず東大寺でみれば,入宋三度を自称する勧進聖人重源の努力によって85年(文治1)大仏が復興されたが,その鋳造には宋人の仏工陳和卿(ちんなけい)の技術的参与がある。…
【慶派】より
…覚助は父定朝に劣らぬ技能を備えていたらしいが,若年で没しており,その後をうけたのは定朝の弟子長勢,覚助の弟子院助であり,彼らは京都を中心に活躍する。覚助の子頼助は技術の上では院助より劣っていたらしく,中央では容れられず,早くから南都奈良に下って,祖父定朝以来関係の深かった興福寺の仏師となった。当時奈良では大規模な造営もなく,主として修理に携わっていたが,天平以来の古仏を親しく学びとることができたのは,のちに彼らが飛躍する糧となったと思われる。…
【狛氏】より
…旧三方楽人の一つで奈良南都方の主流。興福寺に属した宿禰(すくね)姓の雅楽家。祖先は高句麗からの渡来人。…
【大乗院】より
…奈良興福寺の門跡寺院。奈良公園荒池の南方,鬼園山の南にあった。…
【薪能】より
…奈良興福寺の修二会(しゆにえ)に付した神事猿楽で,薪猿楽,薪の神事とも称され,東・西両金堂,南大門で数日間にわたって行われた。《尋尊御記》には〈興福寺並びに春日社法会神事〉,《円満井(えんまい)座壁書》には〈御神事法会〉,世阿弥の《金島書(きんとうしよ)》には〈薪の神事〉などと記されている。…
【道理】より
…泰時にかぎらず,中世の裁判で自己の主張もしくは判決の正当性を理由づけるために用いられた道理は,法的なもの,慣習的なもの,道徳的なもの,さらにより高次な正義・衡平観念であって,場合によっては法規範や道徳規範と矛盾する道理もありえたし,その時点,その場面にしか通用しえない心理的・感性的な道理も存在した。したがって道理は著しく客観性を欠き,その極端な例は興福寺(山階(やましな)寺)が力によって無理非道を押し通すことをさした〈やましなどうり(山階道理)〉なる表現であろう。一般に裁判に勝つことは道理が認められたことを意味したため,道理は勝訴の同義語としても用いられた。…
【奈良[市]】より
…市域は奈良盆地北部と周辺の丘陵地帯からなり,旧市街地と奈良公園地区は春日断層崖下の台地とその下部の緩斜面上に位置する。都市としては8世紀初めに建設された平城京に起源をもつが,その後東大寺,興福寺,春日大社などの社寺が皇室,貴族の保護をうけて繁栄し,門前町が発展して室町時代末ごろまでに旧市街地の原形が整えられた。近世には大和もうでの風習が一般化して参拝を兼ねた観光客が増加し,筆,墨,奈良漬,奈良人形などをつくる産業も発展した。…
【奈良時代美術】より
… このほかこの時期のものとして,東京深大寺の釈迦如来倚像は,丸い顔,なだらかな起伏のある体軀に,リズミカルな衣文がゆるやかに波打つ,抒情性豊かな像であり,兵庫鶴林寺の銅造観世音菩薩立像はまろやかな顔に個性的な表情がうかがえ,腰のひねりや手の指先に軽快な動きの伝わる隋様の像である。興福寺に伝存する仏頭は旧山田寺の薬師三尊像の中尊で,天武朝後半期679‐686年の造立になる。切れ長の眉,直線的な下瞼と円曲する上瞼に区切られた眼に,遠くを見やる憧憬的な明るさが漂う反面,広い額に弾力のある顔,引きしまった唇に充実感のある迫力を感ずるところに隋から初唐への動きがうかがえる。…
【南都方】より
…雅楽演奏専門家(楽人,伶人,楽師などと称す)の出身系統を示す名称。奈良方ともいい,奈良興福寺所属の楽人を指す。狛(こま)姓を名乗る,上(うえ),西(にし),辻(つじ),芝(しば),奥(おく),東(ひがし),窪(くぼ),久保(くぼ)の8家で構成される(15世紀以前はすべて狛姓を名乗った)。…
【南都七大寺】より
…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…
【南都北嶺】より
…南都とは奈良を指すが,とくに興福寺を中心とする南都仏教教団をいい,北嶺は比叡山延暦寺をいう。藤原氏の氏寺である興福寺は,摂関政治以降寺勢が拡大し,東大寺を除く大寺の別当は興福寺僧によって占められ,公卿の子弟で入寺するものも漸次増加した。…
【藤原鎌足】より
…翌669年10月,近江の大津京の邸で病が重くなり,その15日には大織冠(後の正一位相当)・内大臣,そして藤原という氏を賜ったが,翌16日に没した。平生から仏教に心を寄せていたので,嫡妻の鏡女王(かがみのおおきみ)は大津京の南西の山科(やましな)にあった別邸を寺とし,翌670年閏9月の本葬もこの山階寺(やましなでら)(興福寺の前身)で行われた。また,2人の息子のうちで長男の貞慧(じようえ)(定恵とも。…
【放氏】より
…とくに藤原氏における放氏が歴史上有名である。藤原氏の放氏は平安末期以降,一時熾烈を極めた氏寺興福寺の衆徒の強訴の一環として発生した。衆徒はおのれの主張を通すため,氏社春日大社の神木を奉じて入洛強訴し,その間,氏寺・氏社に不利益をもたらす言動があったとみなされる氏人があれば,衆徒が罪状を詮議し,結果を春日明神に告げて氏より勘当し,興福寺別当から氏長者に報告される。…
【北条泰時】より
…当時畿内の大寺院は強大な勢力を誇り,朝廷も対策に苦しんでいたが,泰時は僧徒の武装禁止を求め,寺院側の不当な要求に対しては抑圧の態度で臨んだ。35‐36年(嘉禎1‐2)の石清水(いわしみず)八幡宮と興福寺との紛争では,朝廷に代わって収拾に乗り出し,前例を破って大和に守護を置き,興福寺僧の荘園に地頭を置くなどの強圧策によって,興福寺に収拾案を認めさせた。同じ時期の延暦寺と近江守護佐々木氏との紛争でも毅然たる態度で臨んだ。…
【大和国】より
…後者の説では,大和の国分寺は下ッ道と横大路が交差する西南隅(現在,橿原市八木町2丁目に国分寺が所在している)に,大和の国分尼寺は橿原市法花寺町に想定している。 平安時代に入って藤原氏の勢力が増大するにつれ,興福寺と春日社は藤原氏の氏寺・氏社として尊信を受けるに至った。神仏習合思想の高揚とともに興福寺は春日社(春日大社)との一体化をはかり,1136年(保延2)ころには春日社を支配下に置くようになる。…
【維摩会】より
…興福寺において毎年10月10日より7日間,《維摩経》を講説する大会。南都三会の一つ。…
※「興福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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