奈良市の法相宗大本山で、藤原氏の氏寺。藤原鎌足の妻が建てた
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奈良市街のほぼ中央、奈良公園の入口に位置する。法相宗。本尊は金堂に安置する釈迦如来。藤原氏の氏寺として大和一国を支配する大寺となり隆盛を極めた。南都七大寺および「延喜式」玄蕃寮にみえる十五大寺の一。平安時代以降、たびたび兵火や火災にかかり、今はほとんど昔の面影をとどめないが、
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
草創は天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の造立した釈迦三尊像を安置する
伽藍の中心となる中金堂の建立年代さえも不明であるが、前掲宝字記に興福寺は本願(藤原不比等)によって造営されたと記していることから、中金堂は不比等の没年すなわち養老四年までの完成か、少なくとも着工と思われる。同五年八月、不比等の周忌に長屋王が北円堂を建立。北円堂は八角円堂で回廊をめぐらし、本尊弥勒と脇侍、羅漢二体、四天王像を安置していた。また同時に橘夫人が金堂に弥勒浄土を造っている(同書)。続いて同七年には
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奈良市登大路(のぼりおおじ)町にある法相(ほっそう)宗の大本山。
[勝又俊教]
669年(天智天皇8)藤原鎌足(かまたり)が山城(やましろ)国(京都府)宇治山科(やましな)の私宅に一寺を建立しようとして果たさず、没後創建されて山階寺(やましなでら)と号したのに始まる。672年(天武天皇1)これを大和(やまと)国(奈良県)高市(たけち)郡厩坂(うまさか)に移して厩坂寺と号し、ついで710年(和銅3)奈良遷都に伴って、藤原不比等(ふひと)が現在地に移建して興福寺と改めた。以来藤原氏の氏寺として栄え、天平(てんぴょう)年間(729~749)に五重塔、東金堂、西金堂などが建立され、光明(こうみょう)皇后は当寺に施薬院(せやくいん)、悲田院(ひでんいん)を設立した。また興福寺は法相宗の中心道場とされ、中国唐代に成立した唯識(ゆいしき)思想研究の法相宗を日本に伝えた二つの系統のうち、元興寺(がんごうじ)の系統を「南寺伝(なんじのでん)」というのに対して、興福寺の系統を「北寺伝(ほくじのでん)」という。興福寺における法相宗の学問的伝統は、平安時代から江戸時代に至る間に多くの学者が輩出し、多くの著作をなし、諸宗の学者が多くここに留学し、日本における仏教研究の水準を高め、学山として興福寺の名声があがった。この間、とくに平安時代から鎌倉時代にわたっては、「春日版(かすがばん)」といわれる多くの唯識思想関係の仏典を開板するなど、優れた文化財を残している。さらに平安時代には、藤原氏の氏神である春日神社を管轄し、藤原氏が栄えるにしたがって社会的、経済的にも隆盛となり、多くの荘園(しょうえん)を所有して、10世紀には大和一国を寺領とするに至り、南都の四大寺、七大寺、十大寺のなかでも、もっとも有力な寺院とされた。平安末期には僧兵を置いて闘争を事とし、彼らが春日の神木を奉じて京都へ強訴(ごうそ)に出向いた暴挙は、延暦寺(えんりゃくじ)の「山法師」と並んで、「奈良の法師」といわれて恐れられた。
堂塔は平安時代以来幾たびも火災にあって焼失し、そのつど復興をみたが、1180年(治承4)平重衡(しげひら)による焼き打ちの難はとくに甚だしく、ほとんど全伽藍(がらん)を焼失し、その復興はなかなか進展しなかった。鎌倉時代以後、藤原氏の衰退で寺領は減少したが、しかし江戸時代になってもなお2万1000石を有し、塔頭(たっちゅう)は112院を数えた。1717年(享保2)の火災で大半の堂塔を焼失し、その後は復旧しなかった。なお、中金堂(ちゅうこんどう)は2018年(平成30)に再建された。また明治維新に際しては春日神社と分離し、寺領は上地(あげち)を命ぜられ、大乗(だいじょう)院、一乗(いちじょう)院、喜多(きた)院、宝蔵(ほうぞう)院、勧学(かんがく)院などの子院は廃寺となって衰微した。もと20余万坪もあった寺域も現在は、奈良公園となっている。
[勝又俊教]
現存する堂塔のうち、北円堂(国宝)は鎌倉時代の純和様の八角円堂で、内陣須弥壇(しゅみだん)上の弥勒菩薩坐像(みろくぼさつざぞう)(運慶(うんけい)作)のほか、無著(むじゃく)、世親(せしん)、四天王など国宝の諸像がある。三重塔(国宝)も鎌倉時代のもので、内部には極彩色が施されている。東金堂(国宝)は室町時代に六度目の復興をみたもので、天平(てんぴょう)の古様式を伝える和様建築であるが、堂内には平安初期の四天王像と鎌倉時代の十二神将像、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)像、維摩(ゆいま)居士像の国宝の諸像を蔵する。猿沢(さるさわ)池に影を落とす有名な五重塔(国宝)も室町時代の再建で、約50メートルの高さは京都の東寺(教王護国寺)の塔に次ぎ、日本の現存の仏塔中第二の高さを誇っている。南円堂は江戸中期に再建された八角円堂であるが、鎌倉時代の不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)(康慶作・国宝)を本尊とし、西国(さいごく)三十三所第9番札所となっており、法相六祖像(国宝)を安置した。301年ぶりに再建された中金堂は江戸時代の木造釈迦如来坐像(もくぞうしゃかにょらいざぞう)を本尊とし、ともに鎌倉時代の木造薬王(もくぞうやくおう)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)立像を脇侍(わきじ)とする。本尊の背面には北向きに南北朝時代の厨子入り木造吉祥天倚像(ずしいりもくぞうきっしょうてんいぞう)を安置。須弥壇の四方には鎌倉時代の作で国宝の木造四天王立像(もくぞうしてんのうりゅうぞう)があり、ほかに東金堂に安置されてきた木造大黒天立像(もくぞうだいこくてんりゅうぞう)も安置されている。1959年(昭和34)食堂(じきどう)跡に開館した国宝館には天竜八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)像(とくに阿修羅(あしゅら)像が有名)、釈迦十大弟子像などもと西金堂に安置されていた乾漆(かんしつ)像や、梵鐘(ぼんしょう)、鎮壇具(ちんだんぐ)、板彫十二神将立像、金銅燈籠(とうろう)、天燈鬼(てんとうき)・竜燈鬼(りゅうとうき)像など、『日本霊異記(りょういき)』などの古写本(以上国宝)、また『僧綱(そうごう)補任』6巻、『興福寺別当次第』6巻などの文書を収蔵しており、同寺の国宝、国の重要文化財はおびただしい数にのぼる。興福寺は1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は東大寺など8社寺等が一括登録されている)。
[勝又俊教]
おもな行事としては、節分の夜、厄除(やくよ)け招福(しょうふく)を願い、松明(たいまつ)をかざして暴れまわる6匹の鬼を五重塔より年男の豆まきで退治する鬼追式(おにおいしき)をはじめ、薪能(たきぎのう)(5月11、12日)、薬師寺と合同で行われる慈恩会(じおんえ)(11月13日)、文殊菩薩の供養(くよう)をし稚児(ちご)行列を行う文殊会などがある。とりわけ南大門(なんだいもん)跡で催される薪能は名高く、平安時代に西金堂の修二会(しゅにえ)で行われた古儀を伝える。11日夕刻より篝火(かがりび)を焚(た)き、野外舞台は能楽四座が技芸の粋(すい)を競う。
[勝又俊教]
当初の財源には藤原不比等(ふひと)ら施入の本願施入田があったが、奈良時代には官寺に準ずる扱いを受け、食封(じきふ)1000戸、墾田200町などを施入され、また100町までの墾田を認められた。封戸(ふこ)制の衰退に伴い、中世には種々の形態の荘園(しょうえん)群が当寺の経営基盤となった。寺領荘園の大部分は畿内(きない)近国にあり、ことに大和(やまと)国では数・量ともに東大寺など他の寺院・権門を圧倒した。また、大和国司兼守護たる当寺は同国内のすべての荘園・公領に土打(つちうち)役などの一国平均役を懸けることができた。さらに、多数の末寺も荘園同様の財源であり、関所・商工業座からの収益も少なくなかった。
広義の興福寺領には、別当の管掌する寺門領のほか、一乗院・大乗院の両門跡(もんぜき)領および諸院家領が含まれる。寺門領は維摩会(ゆいまえ)など重要な法会(ほうえ)の用途を出す十二大会料所を中核とし、当寺の宗教活動の基盤となった。これに対し、門跡領以下は、数は多いものの、概して院家の家産経済を維持することに主眼があったといえる。所定の年貢・公事(くじ)のほか、寺門領には寺門段銭(たんせん)、門跡領以下には寺門・門跡段銭が随時賦課されたが、文明(ぶんめい)(1469~1487)ごろからは有力衆徒(しゅと)・国民(大和武士)が私段銭を課すようになり、興福寺の寺領支配も徐々に後退した。1580年(天正8)織田信長は大和一国に指出(さしだし)を命じ、この結果、寺門領1万9000石、一乗院領1300石、大乗院領950石が安堵(あんど)された。ついで1595年(文禄4)の太閤(たいこう)検地では寺門領1万5033石余、一乗院領1499石余、大乗院領951石余となり、近世にもほぼこの石高が踏襲された。
[田村憲美]
『永島福太郎著『奈良文化の伝流』(1944・中央公論社)』▽『朝倉弘著『奈良県史 10 荘園』(1984・名著出版)』▽『太田博太郎他監修『興福寺』(『名宝日本の美術5』1981・小学館)』▽『奈良六大寺大観刊行会編『奈良六大寺大観 第7、8巻』(1969、1970・岩波書店)』▽『『原色日本の美術3 奈良の寺院と天平彫刻』(1966・小学館)』▽『『古寺巡礼 奈良11 興福寺』(1979・淡交社)』
長崎市寺町にある黄檗(おうばく)宗の寺。東明山と号する。長崎の崇福寺(そうふくじ)、福済寺(ふくさいじ)とともに唐三か寺に数えられ、南京寺(ナンキンでら)、唐寺(とうでら)ともいわれる。当初、この地は中国明(みん)人欧陽(おうよう)氏の別荘であったが、1620年(元和6)明僧真円が来朝して住したのを機に、長崎在住の明人が寺に改めて菩提寺(ぼだいじ)とし、真円を開基に迎えたと伝える。のち、如定(にょじょう)、長崎漢画の祖とされる逸然性融(いつねんしょうゆう)が継承し、1654年(承応3)黄檗山の隠元(いんげん)が入寺するや寺運は隆盛を極め、山内には東廬(とうろ)、桃林、永興、永福、資福の5末庵(あん)を数える大寺となった。寺域5000余坪(約165アール)には本堂、旧唐人屋敷門(いずれも国の重要文化財)、媽姐(まそ)堂などが建つ。本堂は大雄宝殿とよばれ、純唐風の堂として貴重で、隠元禅師の扁額(へんがく)を掛ける。
[里道徳雄]
奈良市にあり,法相宗。南都七大寺の一つ。710年(和銅3)平城遷都の直後に藤原不比等が建立した。寺伝では本尊の釈迦三尊像は不比等の父の藤原鎌足の念持仏であり,近江大津京では山階(山科)(やましな)寺,大和藤原京では厩坂(うまやさか)寺に本尊としてまつられたといい,興福寺が藤原氏の氏寺たるいわれや,山階寺と呼ばれるゆえんがわかる。興福寺の寺地は平城京の左京三条七坊(外京)を占め,官営工事も加わって天平盛代には七堂伽藍をそなえた。なお四条七坊の一画の猿沢池が園池として,また東松原27町(春日野)が寺地に付加されたため,南方は元興寺,北東方で東大寺と寺地を接するに至った。
平城廃都の打撃はほとんど受けず,813年(弘仁4)に藤原冬嗣が南円堂(本尊不空羂索観音)を建立して盛運を授かったと伝えられるなど,藤原氏一門の崇信をあつめた。しかも,興福寺は勅使を迎えて大法会の維摩会を毎年執行,これの講問は高級僧侶の登竜門とされたため寺威があがった。おりから,摂関家(藤原氏氏長者)が春日社の祭祀を振興,これの神威をかりて大和国の領有をはかったことなどに刺激され,興福寺は春日大明神を法相宗擁護(仏法護持)の神といい,春日社の鎮守神化や支配をねらった。氏長者に強請して1018年(寛仁2)から法華八講会を社頭で修法,神仏習合思想をかりて春日四所明神の本地仏を教説した。また衆徒らは春日神人を手なずけて春日神木をふりかざす嗷訴(ごうそ)をはじめた。1135年(保延1)に春日若宮社を創建,翌年9月には寺領の春日野に御旅所を設け,若宮祭を大和一国の大祭として催行した。これに興福寺の春日社祭祀や春日社との一体化が示され,その春日社支配を達成した。春日野には春日東西両塔がそびえ,神仏習合の春日信仰を具現している。かくて興福寺は大和国を春日大明神の神国と称して,七大寺や国中の社寺,これに連なる在地領主を屈従せしめ,大荘園領主となり,また堂衆・衆徒や春日神人(国民)を僧兵団に編成して,12,13世紀の全盛時代を迎える。
1180年(治承4)平氏の南都焼討ちに遭い,東大寺とともに全焼したが,復興も速く,復興気運に乗って鎌倉文化が興隆,奈良の街地が発達するが,興福寺はこれに君臨,なお鎌倉将軍家から大和国守護職として国中支配を許された。おりから貴族の子弟がぞくぞく入寺し,その住坊は院家(いんげ)といい,とくに摂関家子弟の住持した一乗院(近衛流),大乗院(九条流)の両院家が門跡(もんぜき)を称し,興福寺を両分する大勢力となった。この両門跡がやがて対立,14世紀以降,その武力として用いた衆徒・国民らが自立成長を競い,大小名化をはかったこともあったが,南北朝動乱や戦国乱世も乗り越えた。衆徒・国民らが春日若宮祭を主催,田楽・猿楽などを発達させ,猿楽を薪能(たきぎのう)として洗練させ,また能楽を興隆せしめたのが知られる。
近世には春日社兼興福寺領2万1000石を交付されたが,全国社寺に冠絶する優遇だといえる。しかし1717年(享保2)に出火,東金堂,同五重塔,北円堂などを残して大焼亡した後,時運に恵まれず復興は遅れた。そのうえ明治新政の神仏分離によって社寺一体化組織の解体が強行され,興福寺僧徒のすべてが還俗離寺して無住寺院となり,境内地は官没され,堂舎は官庁に転用され,これに道路が通ずるなどの惨状を呈した。1881年,興福寺復興が許可され,堂塔も返還されたが,境内地は奈良公園地となったため,堂塔が公道で離隔されるというふつごうも生じた。しかし,柳緑の猿沢池面に五重塔影を映し出す美景は奈良名勝の随一に推されるし,境内の国宝館は天平彫刻をはじめ藤原・鎌倉時代の国宝や重要文化財を多数展観している。
→春日大社
執筆者:永島 福太郎
興福寺ほど多くの罹災をこうむり,その度に再建が繰り返された寺院は他に例をみない。その復興事業はつねに創建の規模を踏襲し,復古形式を採用して行われた。応永年間(1394-1428)再建の伽藍は,めずらしく300年間にわたって罹災することはなかったが,1717年(享保2)の大火に焼失し,現存する建築は鎌倉時代再建の三重塔,北円堂(1210),応永年間再建の東金堂(1415),五重塔(1426)などを残すのみである。いずれも天平以来の伝統を踏まえた純和様式の代表的建築であり,中金堂や南大門,回廊跡等の礎石群とともに創建伽藍をほうふつとさせるものがある。
彫刻は天平時代のものとして旧西金堂の十大弟子立像(6像現存)と八部衆像(ともに734)があり,天平彫刻の典型,乾漆造の傑作として名高い。平安時代の作は北円堂,東金堂の四天王像,薬師如来座像(1013)のほか,十二神将立像は数少ない木造板彫り像中屈指の名品である。なお金銅の仏頭は,治承兵火後の再建東金堂本尊として飛鳥の山田寺の本尊(685開眼)を強奪,安置したものの頭部で,その優れた表現は白鳳時代の特徴をもっとも良く伝えている。寺内では鎌倉時代再興造立の諸尊がもっとも多く,鎌倉彫刻の始祖康慶による南円堂の本尊不空羂索観音菩薩座像,四天王立像(1189),法相六祖座像(1189),その子運慶統宰になる北円堂の本尊弥勒仏座像,無著・世親菩薩立像(1208),東金堂には定慶作の維摩居士像(1196)のほか文殊菩薩像,十二神将像(1207),旧西金堂のものに本尊木造釈迦仏頭,脇侍薬上・薬王菩薩像(1202),定慶作梵天像(1202),康弁作竜灯鬼像・天灯鬼像(ともに1215),伝定慶作金剛力士立像,旧食堂本尊の千手観音菩薩立像(1229ころ)などがある。中金堂,講堂などの諸作は失われたが,とくに南円堂,北円堂の尊像は南都慶派の代表作として貴重である。
絵画は少なく,おもなものは持国・増長の二天王像2幅(鎌倉初期),厨子扉絵の護法善神像(鎌倉後期),慈恩会の本尊慈恩大師像2幅(平安末期~鎌倉)である。工芸品では天平時代の基準的作例の梵鐘(727),西金堂に安置され金鼓と呼ばれた天平時代梵音具の華原磬(かげんけい),中金堂基壇中発見の千数百点に及ぶ鎮壇具(一部寺蔵),伝空海作,橘逸勢筆の銘文で著名な円型の灯籠(816)がある。書籍は,《日本霊異記》の最古の写本(904)をはじめ,《聖徳太子伝暦》(1307),《僧綱補任》6巻(平安末期),《左府抄》3巻,《興福寺別当次第》16巻など多数の史料を蔵する。
執筆者:宮本 長二郎
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奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では,669年(天智8)藤原鎌足(かまたり)の死去に際し,その妻鏡女王(かがみのおおきみ)が山背国の山科に建立した山階(やましな)寺を起源とし,天武朝に飛鳥に移して厩坂(うまやさか)寺と称し,さらに平城遷都にともなって左京3条7坊の地に移し,興福寺と称したとする。藤原氏の氏寺であるが,720年(養老4)に官寺に列した。藤原氏の勢力拡大にともない,時々の有力者によって豪壮な伽藍が整備され,広大な寺領を保有し繁栄した。教学面ではとくに法相宗が栄え,元興(がんごう)寺の南寺伝に対して北寺伝と称された。757年(天平宝字元)藤原仲麻呂が恒例とした当寺の維摩会(ゆいまえ)は,平安時代に薬師寺最勝会(さいしょうえ)・宮中御斎会(ごさいえ)とともに南都三大会(さんだいえ)(南京三会(なんきょうのさんえ))と称された。平安時代には春日大社をも配下におき,摂関家との関係を強め,摂関家の子弟(貴種)が当寺の別当につくようになった。院政期には当寺の衆徒(しゅと)が春日大社の神木を奉じて入京,強訴(ごうそ)を行い,延暦寺衆徒とともに「南都北嶺(なんとほくれい)」として恐れられた。1180年(治承4)平重衡(しげひら)の焼打をうけたが復興され,鎌倉時代には大和国守護職として一国の支配権をもち,一乗院・大乗院の両門跡が寺務を統轄した。のち両門跡の対立や衆徒の自立などでしだいに衰退したが,江戸時代には寺領2万石余を所有した。明治初年の神仏分離で春日大社とわかれ,廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で打撃をうけた。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…もと奈良市にあった興福寺の門跡寺院。法相宗。…
…名匠定朝の系統である慶派に属し,父は康朝の弟子とされる康慶である。12世紀後半期は京都に根拠を置く院派・円派が貴族の信任を得て勢力を誇り,定朝の孫の頼助以来興福寺に所属して奈良に中心を置く慶派はふるわなかった。しかし,康朝の子成朝が鎌倉に下るなど,しだいに慶派は関東武士の間に活躍の場を求め,運慶の代に入り,東大寺復興の造仏に至ってその勢力関係は逆転する。…
…そのつど,神宝や芸能および神領が奉納寄進された。この春日社の繁栄を見た興福寺は,神仏習合思想を利用して,春日社の同寺鎮守化や社頭読経法会の執行を念願,とくに春日四所大明神の本地を釈迦・薬師・地蔵・観音と説いて興福寺の春日社祭祀の道理を主張,さらに春日社武力の春日神人(じにん)を手なずけて無理を強行するに至った。同寺衆徒は1135年(保延1)に春日若宮神社を創建,氏長者に強請して翌年9月から御旅所を春日野の興福寺境内に仮設して若宮祭(若宮御祭(おんまつり))を一国の祭りとして執行した。…
…平安時代後半から鎌倉時代全期にわたって,藤原氏の氏寺(うじでら)である興福寺を中心に奈良の諸大寺で開版(板)された経巻類をさす。〈春日版〉の名は明治以後に唱えられたもので,鎌倉時代初期に藤原氏の氏神である春日神社に奉献されたところから,この名が出たともいわれる。…
…絵画における宅磨派はのちに仏師としてもこの地方を中心に活躍する。
[南都復興と鎌倉彫刻]
1180年(治承4)平氏による南都の焼打ちはどちらかといえば偶発的なものであるが,東大寺と興福寺の二つの強大な古代寺院の壊滅は文化史上の大事件であり,その復興造営は鎌倉美術の歩みを急激に早めた感がある。まず東大寺でみれば,入宋三度を自称する勧進聖人重源の努力によって85年(文治1)大仏が復興されたが,その鋳造には宋人の仏工陳和卿(ちんなけい)の技術的参与がある。…
…覚助は父定朝に劣らぬ技能を備えていたらしいが,若年で没しており,その後をうけたのは定朝の弟子長勢,覚助の弟子院助であり,彼らは京都を中心に活躍する。覚助の子頼助は技術の上では院助より劣っていたらしく,中央では容れられず,早くから南都奈良に下って,祖父定朝以来関係の深かった興福寺の仏師となった。当時奈良では大規模な造営もなく,主として修理に携わっていたが,天平以来の古仏を親しく学びとることができたのは,のちに彼らが飛躍する糧となったと思われる。…
…旧三方楽人の一つで奈良南都方の主流。興福寺に属した宿禰(すくね)姓の雅楽家。祖先は高句麗からの渡来人。…
…奈良興福寺の門跡寺院。奈良公園荒池の南方,鬼園山の南にあった。…
…奈良興福寺の修二会(しゆにえ)に付した神事猿楽で,薪猿楽,薪の神事とも称され,東・西両金堂,南大門で数日間にわたって行われた。《尋尊御記》には〈興福寺並びに春日社法会神事〉,《円満井(えんまい)座壁書》には〈御神事法会〉,世阿弥の《金島書(きんとうしよ)》には〈薪の神事〉などと記されている。…
…泰時にかぎらず,中世の裁判で自己の主張もしくは判決の正当性を理由づけるために用いられた道理は,法的なもの,慣習的なもの,道徳的なもの,さらにより高次な正義・衡平観念であって,場合によっては法規範や道徳規範と矛盾する道理もありえたし,その時点,その場面にしか通用しえない心理的・感性的な道理も存在した。したがって道理は著しく客観性を欠き,その極端な例は興福寺(山階(やましな)寺)が力によって無理非道を押し通すことをさした〈やましなどうり(山階道理)〉なる表現であろう。一般に裁判に勝つことは道理が認められたことを意味したため,道理は勝訴の同義語としても用いられた。…
…市域は奈良盆地北部と周辺の丘陵地帯からなり,旧市街地と奈良公園地区は春日断層崖下の台地とその下部の緩斜面上に位置する。都市としては8世紀初めに建設された平城京に起源をもつが,その後東大寺,興福寺,春日大社などの社寺が皇室,貴族の保護をうけて繁栄し,門前町が発展して室町時代末ごろまでに旧市街地の原形が整えられた。近世には大和もうでの風習が一般化して参拝を兼ねた観光客が増加し,筆,墨,奈良漬,奈良人形などをつくる産業も発展した。…
… このほかこの時期のものとして,東京深大寺の釈迦如来倚像は,丸い顔,なだらかな起伏のある体軀に,リズミカルな衣文がゆるやかに波打つ,抒情性豊かな像であり,兵庫鶴林寺の銅造観世音菩薩立像はまろやかな顔に個性的な表情がうかがえ,腰のひねりや手の指先に軽快な動きの伝わる隋様の像である。興福寺に伝存する仏頭は旧山田寺の薬師三尊像の中尊で,天武朝後半期679‐686年の造立になる。切れ長の眉,直線的な下瞼と円曲する上瞼に区切られた眼に,遠くを見やる憧憬的な明るさが漂う反面,広い額に弾力のある顔,引きしまった唇に充実感のある迫力を感ずるところに隋から初唐への動きがうかがえる。…
…雅楽演奏専門家(楽人,伶人,楽師などと称す)の出身系統を示す名称。奈良方ともいい,奈良興福寺所属の楽人を指す。狛(こま)姓を名乗る,上(うえ),西(にし),辻(つじ),芝(しば),奥(おく),東(ひがし),窪(くぼ),久保(くぼ)の8家で構成される(15世紀以前はすべて狛姓を名乗った)。…
…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…
…南都とは奈良を指すが,とくに興福寺を中心とする南都仏教教団をいい,北嶺は比叡山延暦寺をいう。藤原氏の氏寺である興福寺は,摂関政治以降寺勢が拡大し,東大寺を除く大寺の別当は興福寺僧によって占められ,公卿の子弟で入寺するものも漸次増加した。…
…翌669年10月,近江の大津京の邸で病が重くなり,その15日には大織冠(後の正一位相当)・内大臣,そして藤原という氏を賜ったが,翌16日に没した。平生から仏教に心を寄せていたので,嫡妻の鏡女王(かがみのおおきみ)は大津京の南西の山科(やましな)にあった別邸を寺とし,翌670年閏9月の本葬もこの山階寺(やましなでら)(興福寺の前身)で行われた。また,2人の息子のうちで長男の貞慧(じようえ)(定恵とも。…
…とくに藤原氏における放氏が歴史上有名である。藤原氏の放氏は平安末期以降,一時熾烈を極めた氏寺興福寺の衆徒の強訴の一環として発生した。衆徒はおのれの主張を通すため,氏社春日大社の神木を奉じて入洛強訴し,その間,氏寺・氏社に不利益をもたらす言動があったとみなされる氏人があれば,衆徒が罪状を詮議し,結果を春日明神に告げて氏より勘当し,興福寺別当から氏長者に報告される。…
…当時畿内の大寺院は強大な勢力を誇り,朝廷も対策に苦しんでいたが,泰時は僧徒の武装禁止を求め,寺院側の不当な要求に対しては抑圧の態度で臨んだ。35‐36年(嘉禎1‐2)の石清水(いわしみず)八幡宮と興福寺との紛争では,朝廷に代わって収拾に乗り出し,前例を破って大和に守護を置き,興福寺僧の荘園に地頭を置くなどの強圧策によって,興福寺に収拾案を認めさせた。同じ時期の延暦寺と近江守護佐々木氏との紛争でも毅然たる態度で臨んだ。…
…後者の説では,大和の国分寺は下ッ道と横大路が交差する西南隅(現在,橿原市八木町2丁目に国分寺が所在している)に,大和の国分尼寺は橿原市法花寺町に想定している。 平安時代に入って藤原氏の勢力が増大するにつれ,興福寺と春日社は藤原氏の氏寺・氏社として尊信を受けるに至った。神仏習合思想の高揚とともに興福寺は春日社(春日大社)との一体化をはかり,1136年(保延2)ころには春日社を支配下に置くようになる。…
…興福寺において毎年10月10日より7日間,《維摩経》を講説する大会。南都三会の一つ。…
※「興福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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