精選版 日本国語大辞典 「物部守屋」の意味・読み・例文・類語
もののべ‐の‐もりや【物部守屋】
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敏達(びだつ)・用明(ようめい)朝の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子。母姓により弓削(ゆげ)守屋ともいった。敏達天皇元年(572)欽明(きんめい)朝に引き続いて大連となり、大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがのうまこ)と対立した。同14年仏法の廃棄を奏請して許され、馬子の建てた寺と仏像を焼き、焼け残りの仏像を難波(なにわ)の堀江に投棄した。同年、天皇の崩後、殯宮(もがりのみや)に誄(しのびごと)したとき、馬子と互いに相手の姿を嘲笑(ちょうしょう)し、これより二人の間に怨恨(えんこん)を生じたというが、本末を顛倒(てんとう)した話であろう。用明即位後も大連となったが、やがて天皇の異母弟穴穂部(あなほべ)皇子と結び、その擁立を図った。その2年(587)用明が没すると穴穂部の即位を図ったが、まもなく皇子は馬子に殺されてしまった。ここにおいて守屋は馬子と雌雄を決することとなったが、皇族・豪族の大半を味方にした馬子に河内渋河(かわちしぶかわ)(大阪府八尾(やお)市)の本拠を攻められ、ついに射殺された。乱後、彼の奴のなかばと宅地とを分けて四天王寺に施入した。馬子の妻は守屋の妹で、時人は、馬子が妄(みだ)りに妻の計により守屋を殺したと評した。
[黛 弘道]
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(遠山美都男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
?~587.7.-
6世紀の廷臣。敏達(びだつ)・用明朝の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子。「日本書紀」によると,敏達元年4月「大連とすること故(もと)のごとし」とあるが,欽明紀には名がみえない。同14年3月,疫病流行の原因は蘇我馬子(うまこ)の崇仏にあると奏し,詔により塔・仏像・仏殿を焼いた。同年8月,敏達天皇の殯宮(もがりのみや)で誄(しのびごと)を奏した際,守屋と馬子は互いにそしりあい,怨恨を残したという。用明元年5月には穴穂部(あなほべ)皇子が守屋と結んで皇位をうかがい,敏達天皇の寵臣だった三輪逆(みわのさかう)を殺害。翌年4月用明天皇が没すると,5月守屋らの穴穂部皇子擁立計画が漏洩。6月には皇子が殺され,7月,馬子の勧めにより結成された諸皇子・群臣らの軍と対戦し,射殺された。
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…河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。…
…古代の有力氏族。姓(かばね)は連(むらじ)で,軍事・警察のことをつかさどる物部の伴造(とものみやつこ)。造(みやつこ),首(おびと)などの姓をもつ配下を従え〈物部八十氏〉とも称された。祖神を饒速日(にぎはやひ)命と伝え,布都御魂(ふつのみたま)をまつる石上(いそのかみ)神宮を氏神社とする。物部氏が軍事・警察の任務についていたことを示す伝承には,(1)雄略天皇13年3月,物部目大連が采女(うねめ)を奸した歯田根命の罪を責める任務を命じられたこと,(2)雄略天皇18年8月,物部菟代(うしろ)宿禰と物部目連が伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を征討したこと,(3)継体天皇9年2月,物部至至(ちち)連が百済に遣わされ水軍500を率いて帯沙江(たさのえ)に至ったこと,(4)継体天皇22年11月,大将軍の物部大連麁鹿火(あらかび)が筑紫国造磐井と交戦して平定したこと,などがある。…
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