物部守屋(読み)モノノベノモリヤ

デジタル大辞泉 「物部守屋」の意味・読み・例文・類語

もののべ‐の‐もりや【物部守屋】

[?~587]敏達用明朝の大連おおむらじ尾輿の子。排仏を主張して蘇我馬子と対立。用明天皇の死後、穴穂部皇子あなほべのみこを推したが、馬子らに攻められて敗死。

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精選版 日本国語大辞典 「物部守屋」の意味・読み・例文・類語

もののべ‐の‐もりや【物部守屋】

  1. 古代の豪族。敏達・用明朝の大連(おおむらじ)。尾輿の子。父とともに排仏を主張して蘇我氏と対立し、用明天皇死後、穴穂部皇子を推したが、蘇我馬子らに攻められ敗死した。五八七年没。

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改訂新版 世界大百科事典 「物部守屋」の意味・わかりやすい解説

物部守屋 (もののべのもりや)
生没年:?-587(用明2)

飛鳥時代の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子,雄君の父。母が弓削氏のため物部弓削守屋ともいう。敏達・用明朝を通じ大連であった守屋は,大臣(おおおみ)蘇我馬子とことごとく対立した。仏教受容については父尾輿の場合と同様,中臣勝海(なかとみのかつみ)とともに,疫病流行は蘇我稲目の仏教尊信によるものとして,その大野丘北の寺の塔,仏殿,仏像を焼き,残りの仏像も難波の堀江に捨てたという話を伝える。また,敏達天皇の死後の殯宮(もがりのみや)では,馬子の姿を矢で射られた雀のようだとあざけり,馬子からはふるえる手脚に鈴をかけよとあざけられた,との話も伝えられている。守屋は,用明天皇(母は蘇我堅塩媛(きたしひめ))の異母弟の穴穂部(あなほべ)皇子(母は蘇我小姉君(おあねのきみ))と親しく,皇子が皇位をねらうのを阻もうとした三輪逆(みわのさかう)を殺した。しかし587年,守屋は群臣から孤立したのを察し,河内の阿都(あと)の別荘に退いて戦いの準備をすすめた。中臣勝海も呼応して兵を集め,太子彦人皇子と竹田皇子の像を作って呪詛した。そして用明天皇が死ぬと,同年5月,守屋は穴穂部皇子を天皇に擁立しようとした。これに対し,蘇我馬子は穴穂部皇子を殺し,7月に泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻天皇),竹田皇子,厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)らと紀,巨勢(こせ),膳(かしわで),葛城,大伴,阿倍,平群(へぐり),坂本,春日ら諸氏の勢力を糾合。この軍勢の前に守屋は渋河の家で敗死した。以後,物部氏衰勢に向かったが,守屋の奴と宅の半分は新たに造営されはじめた四天王寺荒陵(あらはか)寺)の寺奴と田荘とされた。
執筆者:

物部守屋はその後の仏教流通の世情のなかで,もっぱら〈仏法のあた〉とみなされた。《日本霊異記》《今昔物語集》《古今著聞集》などには,仏法興隆者たる聖徳太子の対立者としての守屋が説話化されている。親鸞《三帖和讃(さんじようわさん)》もそれらと同じ立場をとりつつ,なお〈ほとけ〉という和語が守屋の命名によるとの巷説をとり入れている。すなわち,〈ほとけ〉は〈ほとおりけ〉(熱病,疫病の意)の約で,守屋は仏教受容が疫病流行をもたらしたとしてこの名を広めたというものである。さらに《太平記》では〈朝敵〉の烙印がおされ,守屋=逆賊の像がしだいに定着していった。しかし,明治初期には〈廃仏毀釈(はいぶつきしやく)〉運動の影響によるものか,守屋を《皇朝名臣伝》(1880)でとりあげるということもみられた。

 また,近世読本繁野話(しげしげやわ)》(1766)には,守屋が逃げのびて100歳の寿を保ったという話が記され,《信濃奇勝録》(1834)には,守屋の子孫が信濃に忍び,48代に達したとの落人伝説を載せている。なお,大阪市四天王寺には守屋および中臣勝海らをまつる守屋堂が現存している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「物部守屋」の意味・わかりやすい解説

物部守屋
もののべのもりや
(?―587)

敏達(びだつ)・用明(ようめい)朝の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子。母姓により弓削(ゆげ)守屋ともいった。敏達天皇元年(572)欽明(きんめい)朝に引き続いて大連となり、大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがのうまこ)と対立した。同14年仏法の廃棄を奏請して許され、馬子の建てた寺と仏像を焼き、焼け残りの仏像を難波(なにわ)の堀江に投棄した。同年、天皇の崩後、殯宮(もがりのみや)に誄(しのびごと)したとき、馬子と互いに相手の姿を嘲笑(ちょうしょう)し、これより二人の間に怨恨(えんこん)を生じたというが、本末を顛倒(てんとう)した話であろう。用明即位後も大連となったが、やがて天皇の異母弟穴穂部(あなほべ)皇子と結び、その擁立を図った。その2年(587)用明が没すると穴穂部の即位を図ったが、まもなく皇子は馬子に殺されてしまった。ここにおいて守屋は馬子と雌雄を決することとなったが、皇族・豪族の大半を味方にした馬子に河内渋河(かわちしぶかわ)(大阪府八尾(やお)市)の本拠を攻められ、ついに射殺された。乱後、彼の奴のなかばと宅地とを分けて四天王寺に施入した。馬子の妻は守屋の妹で、時人は、馬子が妄(みだ)りに妻の計により守屋を殺したと評した。

[黛 弘道]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「物部守屋」の意味・わかりやすい解説

物部守屋
もののべのもりや

[生]?
[没]用明2(587).7. 河内
古代の豪族。物部尾輿の子。敏達1 (572) 年大連 (おおむらじ) となり,排仏派として,崇仏派の大臣蘇我馬子と対立していた。同 14年諸国に疫病が流行すると,守屋は,この疫病の流行を馬子が仏像を礼拝し寺塔を建立したためであるとして,寺塔を焼き,仏像を難波堀江に捨てた。用明天皇が危篤に陥り,群臣に崇仏の可否を問うと,守屋は排仏を説いたが,天皇が馬子の崇仏の説を採用したため,両者の対立はますます激しくなった。用明天皇が没すると,守屋は穴穂部皇子を即位させようとしたが,皇子は馬子らのために殺され,さらに守屋も泊瀬部皇子 (のちの崇峻天皇) や聖徳太子らを味方に引入れた馬子に滅ぼされた。以後,物部氏は衰退に向い,守屋の所有にかかる奴婢や邸宅は,四天王寺などに施入されて,その奴婢,田荘となった。

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百科事典マイペディア 「物部守屋」の意味・わかりやすい解説

物部守屋【もののべのもりや】

古代の豪族。尾輿(おこし)の子。大連(おおむらじ)となり敏達(びだつ)天皇のころ,仏教が盛んになると蘇我馬子(うまこ)ら崇仏派と対立。用明天皇の没後,守屋は穴穂部(あなほべ)皇子を即位させようとしたが失敗し,馬子のため攻め殺された。以後物部氏は衰退。
→関連項目穴穂部皇子物部氏物部尾輿用明天皇

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朝日日本歴史人物事典 「物部守屋」の解説

物部守屋

没年:用明2.7(587)
生年:生年不詳
6世紀後半の有力豪族。物部尾輿と弓削氏の阿佐姫の子。物部弓削守屋とも名乗ったのは,母を通じて弓削氏の財産と勢力を彼が継承していたからであろう。敏達天皇の時代,大連の職位にあったが,当時蔓延した疫病の原因が大臣蘇我馬子の仏教崇拝にあるとして,みずから塔,仏殿,仏像などを破壊,焼却し,馬子との確執を強めた。敏達が没し,用明天皇が立つと,大王位をねらう穴穂部皇子の命により,皇子の即位をはばんだ三輪逆 を殺した。このとき,皇子と共に磐余池辺宮(桜井市か)を包囲,用明を殺害したとする説もある。用明の死後,敏達大后額田部皇女(のちの推古天皇)を奉じた馬子や諸王族,諸豪族のなかで孤立,河内の渋川(八尾市)の私邸に退転を余儀なくされた。馬子らの攻撃を3度にわたり撃退したが,迹見赤檮の矢に当たり絶命。その膨大な所領と私有民は,馬子らの手で処分され,その一部が四天王寺(大阪市天王寺区)造営に当てられたという。

(遠山美都男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「物部守屋」の解説

物部守屋
もののべのもりや

?~587.7.-

6世紀の廷臣。敏達(びだつ)・用明朝の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子。「日本書紀」によると,敏達元年4月「大連とすること故(もと)のごとし」とあるが,欽明紀には名がみえない。同14年3月,疫病流行の原因は蘇我馬子(うまこ)の崇仏にあると奏し,詔により塔・仏像・仏殿を焼いた。同年8月,敏達天皇の殯宮(もがりのみや)で誄(しのびごと)を奏した際,守屋と馬子は互いにそしりあい,怨恨を残したという。用明元年5月には穴穂部(あなほべ)皇子が守屋と結んで皇位をうかがい,敏達天皇の寵臣だった三輪逆(みわのさかう)を殺害。翌年4月用明天皇が没すると,5月守屋らの穴穂部皇子擁立計画が漏洩。6月には皇子が殺され,7月,馬子の勧めにより結成された諸皇子・群臣らの軍と対戦し,射殺された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「物部守屋」の解説

物部守屋 もののべの-もりや

?-587 6世紀後半の豪族。
物部尾輿(おこし)の子。母が弓削(ゆげ)氏の出身のため,物部弓削守屋とも名のる。敏達(びだつ),用明朝の大連(おおむらじ)。仏教を排撃し,蘇我馬子(そがの-うまこ)と対立。用明天皇2年穴穂部(あなほべの)皇子の即位をはかったが,皇子が馬子に殺されたため孤立。同年7月諸皇子,豪族の軍に攻撃され,河内(かわち)(大阪府)渋川の本拠で射殺された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「物部守屋」の解説

物部守屋
もののべのもりや

?〜587
6世紀後期の中央豪族
尾輿 (おこし) の子。572年敏達 (びだつ) 天皇の大連 (おおむらじ) として国政に参与。仏教受容問題をめぐり崇仏派の蘇我馬子 (うまこ) と対立。587年用明天皇没後,穴穂部皇子 (あなほべのおうじ) を擁立しようとしたが失敗,馬子に滅ぼされた。以後物部氏はまったく衰退した。

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世界大百科事典(旧版)内の物部守屋の言及

【道鏡】より

…河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。…

【物部氏】より

…古代の有力氏族。姓(かばね)は連(むらじ)で,軍事・警察のことをつかさどる物部伴造(とものみやつこ)。造(みやつこ),首(おびと)などの姓をもつ配下を従え〈物部八十氏〉とも称された。祖神を饒速日(にぎはやひ)命と伝え,布都御魂(ふつのみたま)をまつる石上(いそのかみ)神宮を氏神社とする。物部氏が軍事・警察の任務についていたことを示す伝承には,(1)雄略天皇13年3月,物部目大連が采女(うねめ)を奸した歯田根命の罪を責める任務を命じられたこと,(2)雄略天皇18年8月,物部菟代(うしろ)宿禰と物部目連が伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を征討したこと,(3)継体天皇9年2月,物部至至(ちち)連が百済に遣わされ水軍500を率いて帯沙江(たさのえ)に至ったこと,(4)継体天皇22年11月,大将軍の物部大連麁鹿火(あらかび)が筑紫国造磐井と交戦して平定したこと,などがある。…

※「物部守屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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