飛鳥時代の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子,雄君の父。母が弓削氏のため物部弓削守屋ともいう。敏達・用明朝を通じ大連であった守屋は,大臣(おおおみ)蘇我馬子とことごとく対立した。仏教受容については父尾輿の場合と同様,中臣勝海(なかとみのかつみ)とともに,疫病流行は蘇我稲目の仏教尊信によるものとして,その大野丘北の寺の塔,仏殿,仏像を焼き,残りの仏像も難波の堀江に捨てたという話を伝える。また,敏達天皇の死後の殯宮(もがりのみや)では,馬子の姿を矢で射られた雀のようだとあざけり,馬子からはふるえる手脚に鈴をかけよとあざけられた,との話も伝えられている。守屋は,用明天皇(母は蘇我堅塩媛(きたしひめ))の異母弟の穴穂部(あなほべ)皇子(母は蘇我小姉君(おあねのきみ))と親しく,皇子が皇位をねらうのを阻もうとした三輪逆(みわのさかう)を殺した。しかし587年,守屋は群臣から孤立したのを察し,河内の阿都(あと)の別荘に退いて戦いの準備をすすめた。中臣勝海も呼応して兵を集め,太子彦人皇子と竹田皇子の像を作って呪詛した。そして用明天皇が死ぬと,同年5月,守屋は穴穂部皇子を天皇に擁立しようとした。これに対し,蘇我馬子は穴穂部皇子を殺し,7月に泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻天皇),竹田皇子,厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)らと紀,巨勢(こせ),膳(かしわで),葛城,大伴,阿倍,平群(へぐり),坂本,春日ら諸氏の勢力を糾合。この軍勢の前に守屋は渋河の家で敗死した。以後,物部氏は衰勢に向かったが,守屋の奴と宅の半分は新たに造営されはじめた四天王寺(荒陵(あらはか)寺)の寺奴と田荘とされた。
執筆者:門脇 禎二
物部守屋はその後の仏教流通の世情のなかで,もっぱら〈仏法のあた〉とみなされた。《日本霊異記》《今昔物語集》《古今著聞集》などには,仏法興隆者たる聖徳太子の対立者としての守屋が説話化されている。親鸞《三帖和讃(さんじようわさん)》もそれらと同じ立場をとりつつ,なお〈ほとけ〉という和語が守屋の命名によるとの巷説をとり入れている。すなわち,〈ほとけ〉は〈ほとおりけ〉(熱病,疫病の意)の約で,守屋は仏教受容が疫病流行をもたらしたとしてこの名を広めたというものである。さらに《太平記》では〈朝敵〉の烙印がおされ,守屋=逆賊の像がしだいに定着していった。しかし,明治初期には〈廃仏毀釈(はいぶつきしやく)〉運動の影響によるものか,守屋を《皇朝名臣伝》(1880)でとりあげるということもみられた。
また,近世の読本《繁野話(しげしげやわ)》(1766)には,守屋が逃げのびて100歳の寿を保ったという話が記され,《信濃奇勝録》(1834)には,守屋の子孫が信濃に忍び,48代に達したとの落人伝説を載せている。なお,大阪市四天王寺には守屋および中臣勝海らをまつる守屋堂が現存している。
執筆者:阪下 圭八
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
敏達(びだつ)・用明(ようめい)朝の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子。母姓により弓削(ゆげ)守屋ともいった。敏達天皇元年(572)欽明(きんめい)朝に引き続いて大連となり、大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがのうまこ)と対立した。同14年仏法の廃棄を奏請して許され、馬子の建てた寺と仏像を焼き、焼け残りの仏像を難波(なにわ)の堀江に投棄した。同年、天皇の崩後、殯宮(もがりのみや)に誄(しのびごと)したとき、馬子と互いに相手の姿を嘲笑(ちょうしょう)し、これより二人の間に怨恨(えんこん)を生じたというが、本末を顛倒(てんとう)した話であろう。用明即位後も大連となったが、やがて天皇の異母弟穴穂部(あなほべ)皇子と結び、その擁立を図った。その2年(587)用明が没すると穴穂部の即位を図ったが、まもなく皇子は馬子に殺されてしまった。ここにおいて守屋は馬子と雌雄を決することとなったが、皇族・豪族の大半を味方にした馬子に河内渋河(かわちしぶかわ)(大阪府八尾(やお)市)の本拠を攻められ、ついに射殺された。乱後、彼の奴のなかばと宅地とを分けて四天王寺に施入した。馬子の妻は守屋の妹で、時人は、馬子が妄(みだ)りに妻の計により守屋を殺したと評した。
[黛 弘道]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(遠山美都男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
?~587.7.-
6世紀の廷臣。敏達(びだつ)・用明朝の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子。「日本書紀」によると,敏達元年4月「大連とすること故(もと)のごとし」とあるが,欽明紀には名がみえない。同14年3月,疫病流行の原因は蘇我馬子(うまこ)の崇仏にあると奏し,詔により塔・仏像・仏殿を焼いた。同年8月,敏達天皇の殯宮(もがりのみや)で誄(しのびごと)を奏した際,守屋と馬子は互いにそしりあい,怨恨を残したという。用明元年5月には穴穂部(あなほべ)皇子が守屋と結んで皇位をうかがい,敏達天皇の寵臣だった三輪逆(みわのさかう)を殺害。翌年4月用明天皇が没すると,5月守屋らの穴穂部皇子擁立計画が漏洩。6月には皇子が殺され,7月,馬子の勧めにより結成された諸皇子・群臣らの軍と対戦し,射殺された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。…
…古代の有力氏族。姓(かばね)は連(むらじ)で,軍事・警察のことをつかさどる物部の伴造(とものみやつこ)。造(みやつこ),首(おびと)などの姓をもつ配下を従え〈物部八十氏〉とも称された。祖神を饒速日(にぎはやひ)命と伝え,布都御魂(ふつのみたま)をまつる石上(いそのかみ)神宮を氏神社とする。物部氏が軍事・警察の任務についていたことを示す伝承には,(1)雄略天皇13年3月,物部目大連が采女(うねめ)を奸した歯田根命の罪を責める任務を命じられたこと,(2)雄略天皇18年8月,物部菟代(うしろ)宿禰と物部目連が伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を征討したこと,(3)継体天皇9年2月,物部至至(ちち)連が百済に遣わされ水軍500を率いて帯沙江(たさのえ)に至ったこと,(4)継体天皇22年11月,大将軍の物部大連麁鹿火(あらかび)が筑紫国造磐井と交戦して平定したこと,などがある。…
※「物部守屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新