日本大百科全書(ニッポニカ) 「郡山藩」の意味・わかりやすい解説
郡山藩
こおりやまはん
大和(やまと)国添下(そうのしも)郡郡山(奈良県大和郡山市)周辺を領した藩。この地は奈良時代の郡家(ぐんけ)の地であり、中世には郡山荘(しょう)、薬園(やくおん)荘が置かれた所である。郡山城は室町末期に小田切春次(おだぎりはるつぐ)が砦(とりで)を築いたのが初めといわれ、1578年(天正6)以降、筒井順慶(つついじゅんけい)がここに拠(よ)って本格的な築城を始めた。その後、豊臣(とよとみ)氏、増田(ました)氏時代を通じて大規模な増改築が行われ完成した。85年筒井氏にかわり、豊臣秀吉の実弟羽柴秀長(はしばひでなが)が但馬(たじま)国出石(いずし)より、大和、紀伊、和泉(いずみ)3か国100万石の大守として入部。その養子秀俊(ひでとし)(秀保(ひでやす))夭折(ようせつ)後、1595年(文禄4)には豊臣政権の五奉行の一人増田長盛(ながもり)が20万石で封ぜられ、城下は繁栄を遂げた。しかしながら、関ヶ原の戦いが終わると大和国の勢力配分は一変し、郡山城は藤堂高虎(とうどうたかとら)の預りとなり、また1608年(慶長13)以降は筒井主殿(とのも)が代官として管理することになり、一時衰微をきたした。その後、大坂の陣ののちふたたび大名配置が実施され、1615年(元和1)水野勝成(かつなり)6万石、20年(元和6)松平(奥平)忠明(ただあきら)12万石、39年(寛永16)本多政勝19万石(うち嗣子(しし)勝行分4万石)、79年(延宝7)松平(藤井)信之(のぶゆき)8万石、85年(貞享2)本多忠平12万石と領主の交代が相次いだ。本多氏は、忠常、忠直、忠村と続いたが本系が絶え、弟忠烈(ただつら)が家を継いだが、夭逝(ようせい)絶家した。かくてその翌1724年(享保9)柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の子吉里(よしさと)が甲府より15万石で移封となり定着する。以後、信鴻(のぶとき)、保光、保泰(やすひろ)、保興(やすおき)と続き、6代目保申(やすのぶ)のとき1871年(明治4)廃藩置県となった。
このように郡山に有力譜代(ふだい)大名が配置され頻繁な交代が実施されたのは、この地が京・大坂に近く軍事的、政治的に重要視されていたためである。この間、藩内の主要な事件としては1671年(寛文11)本多政勝没後、跡目相続をめぐって起きた「九六(くろく)騒動」と称する御家騒動が著名である(幕府裁定で養子政長に9万石、実子政利に6万石を分割)。また、柳沢吉保が甲府在城時代から儒者細井平洲(へいしゅう)の議をいれ、大和を中心に山陵調査を行ったことや、入部早々吉里によって藩校総稽古所(そうけいこじょ)の設立が行われたこともよく知られる。なお、1871年(明治4)郡山県設置後は、奈良県、堺(さかい)県、大阪府を経て、87年再置の奈良県に編入された。
[平井良朋]
『『大和郡山市史』(1966・大和郡山市)』