松平忠明(読み)まつだいら・ただあきら

朝日日本歴史人物事典 「松平忠明」の解説

松平忠明

没年:正保1.3.23(1644.4.29)
生年:天正11(1583)
江戸前期の伊勢亀山,摂津大坂,大和郡山,播磨姫路藩主。徳川氏の部将奥平信昌の4男として三河設楽郡新城(愛知県新城市)に生まれる。母は家康の長女亀姫。外祖父家康の養子となり松平姓を名乗る。慶長5(1600)年関ケ原出陣,7年三河作手1万7000石,15年亀山5万石。大坂冬夏両陣で活躍。元和1(1615)年夏陣直後に大坂に入封10万石,大坂に新たに築城して大坂の町を復興,整備し,のちの「天下の台所」の基盤をつくる。5年郡山に移封12万石,寛永9(1632)年大御所秀忠が死去し,家光が幕政の実権を掌握する過程で,彦根藩主井伊直孝と共に譜代大名を統括する一方,譜代大名を代表して老中と同様に幕政にも参画,家光政権の確立を助けた。鎖国の完成で対外関係が緊張した寛永16年姫路18万石に移され,外国の敵襲があれば西国の諸大名の総指揮に当たるよう命じられ,長崎に家臣を派遣。領内の開発にも尽くした。武勇に優れ武備の充実を図り,近世前期の譜代大名の重鎮として幕政の確立を助けた。<参考文献>『大阪府史』3巻,山本博文『幕藩制の成立と近世の国制

(根岸茂夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「松平忠明」の意味・わかりやすい解説

松平忠明 (まつだいらただあき)
生没年:1583-1644(天正11-正保1)

江戸初期の大名。大坂藩主。下総守,従四位下,侍従に任じた。奥平信昌の四男で,母は徳川家康の娘亀姫。初名清匡,通称は鶴松丸。家康の養子になり松平氏を称し,のち徳川秀忠から忠明の諱(いみな)を与えられた。1615年(元和1)大坂夏の陣後,伊勢亀山5万石から摂津・河内10万石に移され,大坂藩を立藩。大坂城を守り大坂市街の復興,整備に努めた。19年大和郡山12万石へ移封された。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松平忠明」の解説

松平忠明 まつだいら-ただあきら

1583-1644 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
天正(てんしょう)11年生まれ。奥平信昌(のぶまさ)の4男。母は徳川家康の長女亀姫。天正16年家康の養子となる。慶長7年三河作手(つくで)城主,15年伊勢(いせ)亀山城主。大坂冬の陣後,大坂城総堀埋めを指揮。夏の陣後は大坂城をまかされ同地の復旧にあたる。のち大和郡山(こおりやま)藩をへて,寛永16年播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩主松平(奥平)家初代。18万石。茶を小堀遠州にまなぶ。寛永21年3月25日死去。62歳。初名は清匡(きよただ)。

松平忠明 まつだいら-ただあき

1765-1805 江戸時代後期の武士。
明和2年生まれ。豊後(ぶんご)岡藩主中川久貞(ひささだ)の次男。旗本松平忠常(ただつね)の養子となり,本丸書院番頭。寛政11年蝦夷地(えぞち)取締御用掛筆頭として,幕府直轄地となった東蝦夷地にむかい,アイヌの保護,道路の開削,樺太(からふと)(サハリン)東西海岸の探査などを指揮した。享和2年駿府城代。文化2年3月8日(2月14日,3月4日,5月19日とも)駿府で自害。41歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の松平忠明の言及

【大阪[市]】より

…秀吉の死後も大坂は一定の経済的地位をもっていたが,1615年(元和1)豊臣氏滅亡により転機がおとずれる。 徳川幕府は松平忠明を城主として復興に当たらせるが,19年彼を郡山に移し,幕府直轄地として再建にのりだす。大坂城は西日本諸大名に命じ,20年から38年(寛永15)まで大工事をおこなった。…

【河内国】より

…関ヶ原の戦(1600)によって豊臣秀頼は一大名に転落し,領地も摂津・河内・和泉3国内で65万石余と縮小されたが,1598年の3国の石高合計は73万9000石余で,秀頼の領地はほぼ9割近くに及んでいた。1615年(元和1)の大坂夏の陣で豊臣家が滅びると,大坂には松平忠明が配置され,忠明の領地の半分5万石は河内の榎並庄,若江郡,八上郡の中に与えられた。河内の残り全域は小堀政一(遠州),北見五郎左衛門などの幕府国奉行が管轄した。…

【島之内】より

…その後15年(元和1)に道頓堀川,25年(寛永2)に長堀川が開削されて,四周を運河によって囲まれ,あたかも島のようになったため,島之内の地名が生じたとされている。もっとも,大坂夏の陣が終わった当時は戦災によって荒廃し,《大坂三郷町中御取立承伝記》によれば,〈今の島之内は荒野にて,八幡も小宮,三津寺も小庵の由〉という状態であったが,1615年大坂城主となった松平忠明は,戦災の復興と市街地の整理に着手し,津村,三津寺,上難波などに散在していた墓地を千日に統合。19年南組惣年寄安井九兵衛は,島之内一円450間四方の市街地化を図り,4年後さらに川八町(宗右衛門町,御前町,布袋町,九郎右衛門町,久右衛門町,吉左衛門町,立慶町,湊町)を開発し,遊所および芝居興行を許可された。…

【摂津国】より

… 大坂冬・夏の陣(1614,15)で家康は豊臣氏を滅ぼし,摂津の所領配置の上でも豊臣氏にとって代わった。大坂落城の直後,外孫松平忠明を大坂城に入れ(10万石),大坂の戦災復興,新しい町づくりにとりかからせた。ついで内藤信正を高槻に入れ(4万石),翌16年(元和2)には忠明の婿稲葉紀通を中島に封じた(4万5700石)。…

【当代記】より

…10巻。徳川家康の外孫で姫路城主松平忠明の著といわれるが不詳。成立年代は不明。…

※「松平忠明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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