改訂新版 世界大百科事典 「松平忠明」の意味・わかりやすい解説
松平忠明 (まつだいらただあき)
生没年:1583-1644(天正11-正保1)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…秀吉の死後も大坂は一定の経済的地位をもっていたが,1615年(元和1)豊臣氏滅亡により転機がおとずれる。 徳川幕府は松平忠明を城主として復興に当たらせるが,19年彼を郡山に移し,幕府直轄地として再建にのりだす。大坂城は西日本諸大名に命じ,20年から38年(寛永15)まで大工事をおこなった。…
…関ヶ原の戦(1600)によって豊臣秀頼は一大名に転落し,領地も摂津・河内・和泉3国内で65万石余と縮小されたが,1598年の3国の石高合計は73万9000石余で,秀頼の領地はほぼ9割近くに及んでいた。1615年(元和1)の大坂夏の陣で豊臣家が滅びると,大坂には松平忠明が配置され,忠明の領地の半分5万石は河内の榎並庄,若江郡,八上郡の中に与えられた。河内の残り全域は小堀政一(遠州),北見五郎左衛門などの幕府国奉行が管轄した。…
…その後15年(元和1)に道頓堀川,25年(寛永2)に長堀川が開削されて,四周を運河によって囲まれ,あたかも島のようになったため,島之内の地名が生じたとされている。もっとも,大坂夏の陣が終わった当時は戦災によって荒廃し,《大坂三郷町中御取立承伝記》によれば,〈今の島之内は荒野にて,八幡も小宮,三津寺も小庵の由〉という状態であったが,1615年大坂城主となった松平忠明は,戦災の復興と市街地の整理に着手し,津村,三津寺,上難波などに散在していた墓地を千日に統合。19年南組惣年寄安井九兵衛は,島之内一円450間四方の市街地化を図り,4年後さらに川八町(宗右衛門町,御前町,布袋町,九郎右衛門町,久右衛門町,吉左衛門町,立慶町,湊町)を開発し,遊所および芝居興行を許可された。…
… 大坂冬・夏の陣(1614,15)で家康は豊臣氏を滅ぼし,摂津の所領配置の上でも豊臣氏にとって代わった。大坂落城の直後,外孫松平忠明を大坂城に入れ(10万石),大坂の戦災復興,新しい町づくりにとりかからせた。ついで内藤信正を高槻に入れ(4万石),翌16年(元和2)には忠明の婿稲葉紀通を中島に封じた(4万5700石)。…
…10巻。徳川家康の外孫で姫路城主松平忠明の著といわれるが不詳。成立年代は不明。…
※「松平忠明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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