日本歴史地名大系 「下長飯村」の解説 下長飯村しもながえむら 宮崎県:都城市下長飯村[現在地名]都城市下長飯町・早鈴町(はやすずちよう)・姫城町(ひめぎちよう)・八幡町(はちまんちよう)・甲斐元町(かいもとちよう)・西町(にしまち)・蔵原町(くらはらちよう)・東町(ひがしまち)・上町(かんまち)宮丸(みやまる)村の南側にあり、都城島津氏の領主館を包み込むようにして東側に広がる。姫城川と萩原(はぎわら)川が合流して大淀川に流れ込む地域の北側を占める。東は上長飯村、南は木之前(きのまえ)村。東に三俣梶山(みまたかじやま)(現三股町)に通じる道と三俣寺柱(てらばしら)(現同上)に通じる道が通る。下長飯の長飯は「長江」で水が長く集まっている所をさし、現在の姫城川のことだと考えられている(都城市史)。応永三二年(一四二五)の中郷西方本田市王丸内検馬上取帳(鬼束文書)には「永江後藤次」の名がみえる。江戸時代には五口六外城のうちの来住(らいじゆう)口に属した。慶長二〇年(一六一五)の知行目録(都城島津家文書)に下長江村とみえ高一千二二九石余。元和六年(一六二〇)の知行目録(同文書)では下長飯村とあり高一千一三石余、明暦元年(一六五五)の知行目録(同文書)では上長飯村と一括されて長飯村とあり、高二千一四石余、うち三六石余が承応三年(一六五四)竿入新仕明并畠田ニ成増高籠分。一方、「三州御治世要覧」の下長飯村の項には「三俣院内 古ハ井蔵村」の注記がある。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳には井蔵田(いくらた)村がみえており、これが当村にあたる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by