日本歴史地名大系 「下飯坂村」の解説 下飯坂村しもいいざかむら 福島県:福島市松川北岸地区下飯坂村[現在地名]福島市下飯坂宮代(みやしろ)村の東、摺上(すりかみ)川右岸の低位沖積段丘上に立地。西は上飯坂村、南は高梨(たかなし)村・沖中野(おきなかの)村。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫北(しのぶきた)郷のうちとして「下いゝさか」とあり、段銭は一四貫九五〇文。なお応永二三年(一四一六)の上杉禅秀の乱で、飯坂重房の次男豊房が伊達持宗に属して戦功があり、信夫郡余目(あまるめ)庄下飯坂・佐葉野(さばの)・宮代などを与えられ(「下飯坂家譜」福島市史)、当地に住して下飯坂氏を名乗ったという。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三七九石余。近世初期の邑鑑によると免三ツ、家数一六(役家二、肝煎・小走二、寺・山伏・脇家一二)、人数二七、役木として桑・楮がある。慶長六年(一六〇一)米沢藩の石栗勘解由長広は信夫代官となり、当村に居住した。「信達一統志」に旧館として「慶長年中上杉家の臣石栗勘解由と云ふ人居住す」と述べる。勘解由は寛永二年(一六二五)に没し、その墓は当地の曹洞宗金源(きんげん)寺に現存する。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by