米沢藩(読み)よねざわはん

改訂新版 世界大百科事典 「米沢藩」の意味・わかりやすい解説

米沢藩 (よねざわはん)

出羽国置賜(おきたま)郡米沢(現,山形県米沢市)に藩庁を置いた外様中藩。1601年(慶長6)上杉景勝関ヶ原の戦の処分により会津120万石から米沢30万石に減封され,以後上杉氏は1871年(明治4)まで米沢に定着した。その領地ははじめ置賜,伊達,信夫郡にわたったが,1664年(寛文4)4代綱憲の急死によって領地は15万石となり,置賜郡のうち上長井,下長井,北条郷のみとなる。しかし藩の実高ははじめ51万石余,半減後は28万石余といわれた。それは1638年(寛永15)の総検地によるもので,近世初頭における用水堰の開削や米沢盆地の中央部および西部山麓の開発によるものである。米沢藩は領地のわりに家臣団の数が多く,約5000人にのぼる。米沢城下の郭外に原屋敷が置かれたほか,大身武士の陪臣集落が農村部に散在し,周辺の開発が行われた。藩境の警備のため領内の四方に支城を設け,小国,中山,荒砥,鮎貝,高畠(のち糠ノ目)の5ヵ所には城代(のち役屋将)が派遣され,足軽30~40人が居住した。米沢藩のおもな産物は米のほか青苧(あおそ),漆蠟であった。藩はこれら特産物の栽培を奨励し,一定の値段で買い上げる初期専売制を実施して,藩財政の重要な収入源としている。93年(元禄6)製蠟のために藩営の製筒を米沢城下の長町,小出村,小国村に設けた。米沢藩の人口は93年に武家約3万1000人,町人約1万2000人,農民約8万7000人,合計約13万5000人であったが,18世紀後半になると人口減少が著しく,とくに宝暦および天明の飢饉のあとは10万人を割る年がでている。これは飢饉のみでなく,農村の荒廃の反映でもあったから,藩政はこの荒廃と財政の窮乏によって危機状態に陥った。

 1755年(宝暦5),下級藩士の扇動による城下打ちこわし事件があり,60年に北条郷の青苧騒動が起こっている。このころ,側役から郡代頭取となって権力をにぎった森平右衛門が新政を実施したが,譜代層の非難をあび,63年江戸家老の竹俣当綱(たけのまたまさつな)によって誅殺された。67年(明和4)上杉治憲(鷹山)が上杉家第10代を家督し,藩政改革を実施した。改革は明和・安永の改革,天明年間(1781-89)の中断期および寛政の改革に分けられるが,長期にわたる。前期の改革は家老竹俣当綱を中心に,大倹約令の実施,漆・桑・コウゾ各100万本樹立策,縮織の導入を行う一方,旧来の御用商人との癒着を絶ち,人材育成のため藩校興譲館が創設された。当綱失脚ののち,後期の改革では中老莅戸善政(のぞぎよしまさ)が中心となり,代官制度の改革や農村支配機構の改革と国産物の多様化策や藩士次・三男の土着奨励などが積極的に進められた。勘定頭黒井忠寄の穴堰・黒井堰の開削も知られるが,産業面では農村の養蚕・生糸業,米沢城下の家中工業としての絹織物がとくに発達し,領内第一の産物として発展したことにより,改革は財政の再建など一定の成果を収めた。1868年の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍と戦ったが同年8月降伏。71年に廃藩により米沢県,のち置賜県となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「米沢藩」の意味・わかりやすい解説

米沢藩
よねざわはん

出羽(でわ)国置賜(おきたま)地方を領有した藩。関ヶ原の戦い(1600)の処分により会津120万石から30万石に減封された上杉景勝(かげかつ)を初代藩主とする。以来藩主は、定勝(さだかつ)、綱勝(つなかつ)、綱憲(つなのり)、吉憲(よしのり)、宗憲(むねのり)、宗房(むねふさ)、重定(しげさだ)、治憲(はるのり)、治広(はるひろ)、斉定(なりさだ)、斉憲(なりのり)、茂憲(しげのり)と13代続き、明治維新に至った。領地30万石時代は、置賜郡(山形県)と陸奥(むつ)の信夫(しのぶ)・伊達(だて)両郡(福島県)にわたっていたが、1664年(寛文4)綱勝の急死により半知削封となり、置賜地方(高畠(たかはた)領を除く)15万石に封ぜられた。約6000人の家臣団は米沢城下のほか、下級家臣は城下の郊外に居住して原方(はらかた)衆とよばれ、このほか大身の家臣は農村部に陪臣(ばいしん)集落を設けていた。また米沢藩は領地境に支城7か所(のち5か所)を置き、元禄(げんろく)(1688~1704)以後はこれを役屋(やくや)と称し、足軽30人余を配置する体制を幕末まで続けた。1638年(寛永15)に総検地を行い、実高51万石余を打ち出し、これが半知後は28万石となっている。しかし、大量の家臣団と生産力の低い地域的条件などにより、早くから藩財政は窮乏した。

 18世紀末、9代藩主治憲(鷹山(ようざん))が実施した明和(めいわ)・安永(あんえい)の改革および寛政(かんせい)の改革は有名である。おもな政策は、農村の復興策、漆(うるし)・桑(くわ)・楮(こうぞ)および織物などの国産物の奨励、代官制度の改革および藩校興譲(こうじょう)館の設置と教学の振興などであった。改革の主要人物として、竹俣当綱(たけのまたまさつな)・莅戸義政(のぞきよしまさ)(太華(たいか))・黒井忠寄(ただより)、また儒者には藁科松伯(わらしなしょうはく)・神保綱忠(じんぼつなただ)などが輩出した。改革の一定の成功の背景には、初期以来の特産物、青苧(あおそ)・漆蝋(うるしろう)の生産と流通の掌握をはじめ、新たな国産物、養蚕業・織物の発展と統制の成果を見逃すことができない。1868年(慶応4)の戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟の盟主として新政府軍と戦ったが、北越戦争に敗れて降伏。1871年(明治4)廃藩、米沢県、置賜県を経て山形県に編入された。

[横山昭男]


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藩名・旧国名がわかる事典 「米沢藩」の解説

よねざわはん【米沢藩】

江戸時代出羽(でわ)国置賜(おきたま)郡米沢(現、山形県米沢市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は興譲(こうじょう)館。関ヶ原の戦い後の処分により、会津120万石から30万石に減封(げんぽう)された上杉景勝(かげかつ)が、家老直江兼続(なおえかねつぐ)から譲り受けた米沢城に移り、米沢藩が成立した。以後明治維新まで上杉氏13代が続いた。1664年(寛文(かんぶん)4年)に3代綱勝(つなかつ)が嗣子(しし)を定めないまま急死、改易(かいえき)は免れたものの、石高は15万石に半減された。相次ぐ減封で藩は財政難に苦しみ、農民も困窮した。1767年(明和(めいわ)4)に9代藩主となった治憲(はるのり)(鷹山(ようざん))が長期にわたり藩政改革を実施、大倹約令を発するとともに、漆(うるし)クワコウゾなどの国産品の奨励、また越後(えちご)(新潟県)から縮(ちぢ)み織りを導入、財政の再建を図った。幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心だったが、1868年(明治1)の北越戦争で新政府軍に敗れた。71年の廃藩置県で米沢県となり、置賜県を経て76年山形県に編入された。

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百科事典マイペディア 「米沢藩」の意味・わかりやすい解説

米沢藩【よねざわはん】

出羽(でわ)国米沢に藩庁をおいた外様(とざま)藩。1601年初代藩主上杉景勝(かげかつ)が会津若松(あいづわかまつ)から領知高30万石で転じて立藩。1664年からの領知高は,出羽国置賜(おきたま)郡で約15万石。1767年上杉治憲(はるのり)(鷹山(ようざん))が藩政改革の一つとして殖産興業に取り組み,米沢織物を発達させた。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心として新政府軍と戦ったが降伏。
→関連項目興譲館出羽国

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「米沢藩」の解説

米沢藩
よねざわはん

出羽国米沢(現,山形県米沢市)を城地とする外様大藩。1601年(慶長6)上杉景勝が関ケ原の戦後の処分によって,会津若松120万石から領地の一部だった米沢30万石に入封して成立。以後13代にわたる。64年(寛文4)3代綱勝が嗣子を定めずに没したため15万石に減封。藩領は,30万石時代は出羽国置賜(おきたま)郡と陸奥国伊達・信夫(しのぶ)両郡。減封後は置賜郡のみ。家臣団数は会津時代の規模を維持したため,下級武士は原方と称して城下町の外に居住し,半農半士の生活を営んだ。青苧(あおそ)・漆・紅花・蝋などの特産物を産する。9代治憲(鷹山(ようざん))によって徹底的な藩政改革が行われ,財政の再建や絹織物の専売制などの殖産興業政策が実施された。戊辰(ぼしん)戦争後の処分で4万石減封。1869年(明治2)支藩米沢新田藩を併合。詰席は大広間。藩校興譲館。廃藩後は米沢県となる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「米沢藩」の意味・わかりやすい解説

米沢藩
よねざわはん

江戸時代,出羽国米沢地方 (山形県) を領有した藩。慶長6 (1601) 年に上杉景勝が陸奥会津 (福島県) から 30万石で入封したのに始る。寛文4 (64) 年に3代綱勝が急死したため吉良義央 (きらよしなか) の長子綱憲が襲封したが,のち 15万石に減封された。享保4 (1719) 年第5代吉憲 (よしのり) は弟勝周 (かつちか) に新墾田1万石を分与して米沢新田藩を創設。 12代斉憲の代の慶応2 (1866) 年に3万石を加増された。次の茂憲 (もちのり) の代に戊辰戦争が起り,米沢藩は奥羽越列藩同盟軍に参加したため 14万 7000石に減封されて廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。

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旺文社日本史事典 三訂版 「米沢藩」の解説

米沢藩
よねざわはん

江戸時代,出羽国米沢地方(山形県南部)を領した外様藩
中世,大江広元の子孫長井氏が居住。のち伊達氏が長井氏を追って当地を接収。1590年伊達政宗の移封後,会津蒲生氏郷 (がもううじさと) の領となった。関ケ原の戦い後1601年上杉景勝が入部し,以後30万石の城下町として繁栄。'64年養子を認める代償として15万石に減封され,幕末維新まで続いた。9代治憲 (はるのり) のとき藩政改革を実施,特産米沢織を始め,藩の財政を再建し,藩校興譲館を創建した。幕末には奥羽越列藩同盟の中心として新政府に抵抗した。

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デジタル大辞泉プラス 「米沢藩」の解説

米沢藩

出羽国、米沢(現:山形県米沢市)を本拠地とした外様藩。関ヶ原の戦いに敗れ、会津120万石から30万石に減封されて入封した上杉景勝が初代藩主となり、以後上杉氏が領有。9代藩主治憲(鷹山)による藩政改革が知られ、養蚕・織物業などが発達。幕末には奥羽越列藩同盟の中心だったが北越戦争に敗れ降伏した。

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世界大百科事典(旧版)内の米沢藩の言及

【上杉治憲】より

…第10代米沢藩主。江戸時代の名君の一人。…

【勧農】より

… 中期以降になると,領主財政の立て直しを意図した藩政改革の一環として,流通過程での施策に対応した勧農が説かれる。米沢藩では財政整理の必要から諸士の次三男に土着を督励し,1801年(享和1)に酒田の本間信四郎などからの借用金を勧農金と名づけて新百姓の夫食(ぶじき)・家作・資材の資金に給付し,士分の土着を促進して開墾の実をあげた。他方,蚕桑役局を設けて養蚕の指導を行い,家中工業をおこして織物の特産化に力を注いだ。…

【出羽国】より

…17世紀初頭に各藩とも総検地を実施して,実際の村高を把握したが,藩の実高は幕府の朱印高に対して大幅の増加をみている。例えば表高30万石の米沢藩の実高は51万石余,秋田藩(20万石)は実高30万石余を打ちだした。1647年(正保4)の出羽国絵図によれば,置賜,村山,最上,田川,櫛引,遊佐,油利,雄勝,平刈(平鹿),山本,豊嶋,秋田,檜山の13郡があり,石高の合計は95万石余で,その領域は佐竹(秋田),上杉(米沢),松平(山形),酒井(鶴岡)などのほか幕府代官領(11万石余),寺社領(1万7000石余)など14に色分けしているが,その石高合計は幕府への届高と同じである。…

【直江兼続】より

…小田原参陣など豊臣政権下の軍役奉仕のため,検地の実施,石高制の採用による知行制と軍役の調整・整備,上方駐在・朝鮮出陣などにともなう通商関係の掌握,灌漑・排水工事や新田開発,さらに当時領国経済にとって最大の収益をもたらした鉱山開発など行財政,軍事・外交,殖産興業とあらゆる面に及んだ。米沢期は,関ヶ原敗戦後の処理,とりわけ減封による家中の整理が課題となったが,譜代の家臣を減ずることなく,米沢藩の基礎を固めることに成功した。自身学芸を好み,宋版の《史記》《漢書》《後漢書》(重要文化財)は兼続の蔵書だったものだし,《文選》30冊の刊行を行うなど文化的な業績にもみるべきものが多い。…

【藩政改革】より

…だから,大名を補佐する執政に恵まれるとき,藩政の再構築を目ざす藩政改革がみられることになる。この典型としては,肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代細川重賢(しげかた)と家老堀勝名の関係,陸奥会津藩28万石の第5代松平容頌(かたのぶ)と家老田中玄宰との関係,そして,出羽米沢藩15万石の第10代上杉治憲(はるのり)(鷹山)と改革派を代表する竹俣当綱(たけのまたまさつな)との関係をあげることができよう。 上杉治憲が名君の典型であったことはよく知られているが,彼は日向国高鍋藩主秋月氏の次男として生まれ,部屋住上がりの辛酸をなめていた。…

【三谷三九郎】より

…とくに米沢,秋田,会津など東北諸藩への大名貸を行い,大坂の鴻池と並び称された。米沢藩では三谷に禄高700石の待遇を与え,金融面だけでなく上杉鷹山(ようざん)の殖産興業政策に深くかかわり,蠟,青苧(あおそ),絹織物の一手販売まで行わせていた。会津藩でも天明・寛政(1781‐1801)の改革は三谷だけの資金調達で実施されており,1800年(寛政12)には藩の三谷からの借金は10万8000両に及んだという。…

※「米沢藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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