日本歴史地名大系 「中池守村」の解説 中池守村なかいけもりむら 埼玉県:行田市中池守村[現在地名]行田市下池守(しもいけもり)北は星(ほし)川を隔てて馬見塚(まみづか)・中江袋(なかえぶくろ)の両村(現南河原村)、西は上池守村に接する。田園簿では池守村に含まれる。忍藩領。「寛文朱印留」で上・中・下の三村に分れて記され、元禄郷帳によると高二九五石余。江戸後期の反別は、田方一九町七反余・畑方三町九反余(忍藩領町村名鑑)。三村に分れたといっても中・下の二村は小村であり、名主が兼務した期間が長かったためか、中下池守村として一村に扱われることが多かった。村鑑にも田畑屋敷高・社寺・用水・道路橋梁など両村に分けて書上げながら、家数・人数は両村まとめてあげている状況で、百姓本人は中池守・下池守二村を合せて享保一二年(一七二七)四九(忍領石高社寺人別帳)、同じく文化七年(一八一〇)四一、天保一一年(一八四〇)三九、僧俗合せて文化七年二二三、天保一一年一八九で、寛政(一七八九―一八〇一)以後人口の減少を訴える文書が頻出する(棚沢家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報