中津井村(読み)なかついむら

日本歴史地名大系 「中津井村」の解説

中津井村
なかついむら

[現在地名]北房町上中津井かみなかつい下中津井しもなかつい

現町域南部を占め、北流する中津井川流域に広がる。落合おちあい往来多和山たわやま峠を越えて当村に入り、北に向かう。古代英賀あが中井なかつい(和名抄)の遺称地とされる。近世中期以降は伊勢亀山藩の陣屋が設置され、中心部は町場化して市も立って賑った。

正和二年(一三一三)九月一日の六条有忠・有房と推定される連署売券(大徳寺文書)で、吉田兼好へ売却された山城国山科小野やましなおの庄田地の抵当地に「中津井庄田地」がある。その後中津井は山科家領となり、文明一二年(一四八〇)一一月一五日に伝奏に訴えた「近代不知行所々」にみえ(山科家礼記)、また年未詳の室町幕府諸国料所方支証目録(内閣文庫蔵)にも載る。室町期には紀伊熊野那智山の旦那場で、応永二三年(一四一六)三月三日の旦那願文をはじめ、米良文書には中津井庄が散見する。応永元年仮託の吉備津宮惣解文写では甲冑腹巻一〇料を中津井郷として資家が奉献、流鏑馬料足納帳(ともに吉備津神社文書)の康正元年(一四五五)分に「五貫文直納 中津井」とある。元亀三年(一五七二)三月九日、中津井村の内津野新左衛門跡職が杉右衛門尉に宛行われた(「三村元親宛行状」美作古簡集)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報