東本願寺(読み)ひがしほんがんじ

精選版 日本国語大辞典 「東本願寺」の意味・読み・例文・類語

ひがし‐ほんがんじ ‥ホングヮンジ【東本願寺】

京都市下京区烏丸通七条上ルにある真宗大谷派本山の本願寺の通称。同区堀川通花屋町下ルにある浄土真宗本願寺派本山の本願寺を西本願寺と呼ぶのに対する。

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デジタル大辞泉 「東本願寺」の意味・読み・例文・類語

ひがし‐ほんがんじ〔‐ホングワンジ〕【東本願寺】

真宗大谷派の本山である本願寺の通称。→本願寺

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日本歴史地名大系 「東本願寺」の解説

東本願寺
ひがしほんがんじ

[現在地名]下京区常葉町

東は烏丸からすま通、北は花屋町はなやちよう通、西は新町しんまち通東、南は七条通北にわたる寺域をもつ。真宗大谷派本山。本尊阿弥陀如来。慶長七年(一六〇二)二月、教如が徳川家康より東六条に寺地四町四方の寄進を受け、本願寺を別立したことに始まる。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔東本願寺の成立〕

天正一九年(一五九一)本願寺は豊臣秀吉から京都六条堀川ほりかわの地を寄進され、大坂天満てんま(現大阪市北区)より移転した。文禄元年(一五九二)一一世顕如が没し、嫡子教如が継職。これについて肥前名護屋なごや(現佐賀県鎮西町)に出陣していた秀吉は教如宛に次のような朱印状を下した(東本願寺所蔵文書)

<資料は省略されています>

教如が跡を継ぎ、弟の理光院(准如)や母の如春尼と相和すよう述べている。しかし翌年如春尼は准如とともに秀吉を訪ね、顕如の譲状を呈して善処を依頼。秀吉の右筆駒井重勝の「駒井日記」によると「十年家をもち、十年めに理門相渡事」、つまり教如は一〇年間、宗主の地位につき、その後弟の准如に譲渡するようにという内容であったが、これに対する教如近習の不審の念と抗弁に激怒した秀吉は、一〇年を待たず即刻に准如に譲るよう命じた。「本願寺影堂留守職之事、親鸞聖人以来代々証文、殊先師光佐(顕如)譲状明鏡之次第、則殿下経叡慮、雖三男、任寺法之旨、光昭仰付儀尤候」という(本願寺文書)。教如は宗主就職後一年を経ずして顕如三男の弟准如(光昭)へ譲り、自らは本堂の北に退隠し、「裏方」とよばれた。なお顕如の譲状は偽文書といわれる。

この教如排斥の原因は、教如の内室教寿院に対する如春尼の感情からという説などがあるが、天正八年の摂津石山本願寺(大坂御坊)退去に際し、顕如・教如父子の意見対立が顕在化し、家臣間にも対立軋轢が生じており、家臣や末寺の去就が根本的な問題であったとされている。それは逆に教如の本願寺別立の事情ともなっている。退隠した教如を支持する家臣・末寺門徒も多く、裏方には御堂・玄関・台所ができ、教如自身も絵像の裏書を下付、慶長四年に「正信偈」「三帖和讃」を開版した。また諸国門徒の教化にも努力し、多くの支持者が現出。大坂難波なんば別院(現大阪市中央区)の鐘名に「大谷本願寺 文禄五丙申暦鐘下旬第四日」とあるのは、隠居でありながら宗主としての自覚と、すでに一寺建立の意図をもっていたことをうかがわせる。そのほか教如が退隠の間に下付した絵像が末寺に多く現存し、教如自身の立場やそれを支持した門徒団の存在を物語っていよう。

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百科事典マイペディア 「東本願寺」の意味・わかりやすい解説

東本願寺【ひがしほんがんじ】

京都市下京区烏丸(からすま)通り六条にある,真宗大谷派の本山。西本願寺に対し,〈お東〉と通称。1602年徳川家康が11世顕如の長子教如に寺地を与え創立させたもので,現存の建築は明治期のもの。東0.5kmにある同寺所属の渉成園(名勝)は枳殻邸(きこくてい)の名でも知られる。
→関連項目暁烏敏大谷大学教誨師京都[市]下京[区]浄土真宗吉崎蓮如仮名法語

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東本願寺」の解説

東本願寺
ひがしほんがんじ

京都市下京区にある真宗大谷派本山。本願寺派本願寺と区別するため東をつける。本願寺11世顕如(けんにょ)の没後,長男教如と三男准如(じゅんにょ)の後継争いがおこり,豊臣秀吉が准如を継職と任命(西本願寺派・本願寺)し,1602年(慶長7)徳川家康が教如に烏丸6条の地を寄進したのを機に本願寺は東西に分立。12世教如以後も,宣如のときに徳川家光から土地を与えられ,琢如・常如の代に御影(ごえい)堂改築や学寮創建を行い整備。その後1788年(天明8)・1823年(文政6)・58年(安政5)・64年(元治元)と火災にあった。69年(明治2)北海道開拓の許可を得る。以後,積極的に海外布教を展開。「教行信証」(国宝),「一念多念文意」「本願寺聖人伝絵」(重文)などが伝わる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東本願寺」の意味・わかりやすい解説

東本願寺
ひがしほんがんじ

京都市下京区烏丸通にある真宗大谷派の本山。通称は「お東」。文禄1 (1592) 年に浄土真宗第 11世顕如が没し,いったんは長男教如が跡を継いだが,顕如の夫人如春尼が3男准如に対する父顕如の門跡譲状を証拠として豊臣秀吉に訴え,その裁断によって准如が第 12世の伝灯を称した。そこで教如は慶長7 (1602) 年に徳川家康の支持を得て,烏丸七条に別に本願寺を建立した。これが現在の東本願寺である。このとき以後,准如の本願寺を西本願寺と称し,末寺もそれぞれ分立した。親鸞の『教行信証』 (国宝) を所蔵する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東本願寺」の意味・わかりやすい解説

東本願寺
ひがしほんがんじ

京都市下京(しもぎょう)区烏丸(からすま)通七条上ルにある真宗大谷(おおたに)派の本山。正称は本願寺であるが、浄土真宗本願寺派の本山を通称西本願寺というのに対する呼称である。

[編集部]

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旺文社日本史事典 三訂版 「東本願寺」の解説

東本願寺
ひがしほんがんじ

京都市下京区にある浄土真宗大谷派の本山
正しくは本願寺。通称「お東」。11世顕如 (けんによ) の死後,長男教如 (きようによ) がいったん隠退し,3男准如 (じゆんによ) が12世となったが,1602年徳川家康が教如に寺地を寄付して寺を建てさせ,教如を東本願寺12世としたことから本願寺が東西に二分し,現在に至った。

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デジタル大辞泉プラス 「東本願寺」の解説

東本願寺

京都府京都市下京区にある真宗大谷派の寺院、本願寺の通称。真宗本廟。同じく京都にある浄土真宗の寺、龍谷山本願寺の通称「西本願寺」と対になる呼び名で、地元では「お東」などともする。1602年、徳川家康の寄進を受けて教如が創建。親鸞筆の「教行信証」(国宝)などの寺宝を有する。

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改訂新版 世界大百科事典 「東本願寺」の意味・わかりやすい解説

東本願寺 (ひがしほんがんじ)

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事典・日本の観光資源 「東本願寺」の解説

東本願寺

(京都府京都市下京区)
東西両本願寺」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の東本願寺の言及

【浄土真宗】より

…72年政府はようやく一向宗を真宗と称することを許可したが,浄土宗の立場を考えてか,浄土真宗の名を許さなかった。81年6月,東本願寺派を真宗大谷派,西本願寺派を真宗本願寺派と改めた。第2次大戦後,西本願寺は宗名に浄土を付け浄土真宗本願寺派と称するようになった。…

【本願寺】より

…京都市下京区にある浄土真宗の本山。七条堀川の西本願寺と七条烏丸の東本願寺の両寺がある。1262年(弘長2)親鸞が没すると東山大谷に簡素な墓所が設けられた。…

※「東本願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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