天正一九年(一五九一)本願寺は豊臣秀吉から京都六条
教如が跡を継ぎ、弟の理光院(准如)や母の如春尼と相和すよう述べている。しかし翌年如春尼は准如とともに秀吉を訪ね、顕如の譲状を呈して善処を依頼。秀吉の右筆駒井重勝の「駒井日記」によると「十年家をもち、十年めに理門江可被相渡事」、つまり教如は一〇年間、宗主の地位につき、その後弟の准如に譲渡するようにという内容であったが、これに対する教如近習の不審の念と抗弁に激怒した秀吉は、一〇年を待たず即刻に准如に譲るよう命じた。「本願寺影堂留守職之事、親鸞聖人以来代々証文、殊先師
この教如排斥の原因は、教如の内室教寿院に対する如春尼の感情からという説などがあるが、天正八年の摂津石山本願寺(大坂御坊)退去に際し、顕如・教如父子の意見対立が顕在化し、家臣間にも対立軋轢が生じており、家臣や末寺の去就が根本的な問題であったとされている。それは逆に教如の本願寺別立の事情ともなっている。退隠した教如を支持する家臣・末寺門徒も多く、裏方には御堂・玄関・台所ができ、教如自身も絵像の裏書を下付、慶長四年に「正信偈」「三帖和讃」を開版した。また諸国門徒の教化にも努力し、多くの支持者が現出。大坂
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京都市下京区にある真宗大谷派本山。本願寺派本願寺と区別するため東をつける。本願寺11世顕如(けんにょ)の没後,長男教如と三男准如(じゅんにょ)の後継争いがおこり,豊臣秀吉が准如を継職と任命(西本願寺派・本願寺)し,1602年(慶長7)徳川家康が教如に烏丸6条の地を寄進したのを機に本願寺は東西に分立。12世教如以後も,宣如のときに徳川家光から土地を与えられ,琢如・常如の代に御影(ごえい)堂改築や学寮創建を行い整備。その後1788年(天明8)・1823年(文政6)・58年(安政5)・64年(元治元)と火災にあった。69年(明治2)北海道開拓の許可を得る。以後,積極的に海外布教を展開。「教行信証」(国宝),「一念多念文意」「本願寺聖人伝絵」(重文)などが伝わる。
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京都市下京(しもぎょう)区烏丸(からすま)通七条上ルにある真宗大谷(おおたに)派の本山。正称は本願寺であるが、浄土真宗本願寺派の本山を通称西本願寺というのに対する呼称である。
[編集部]
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…72年政府はようやく一向宗を真宗と称することを許可したが,浄土宗の立場を考えてか,浄土真宗の名を許さなかった。81年6月,東本願寺派を真宗大谷派,西本願寺派を真宗本願寺派と改めた。第2次大戦後,西本願寺は宗名に浄土を付け浄土真宗本願寺派と称するようになった。…
…京都市下京区にある浄土真宗の本山。七条堀川の西本願寺と七条烏丸の東本願寺の両寺がある。1262年(弘長2)親鸞が没すると東山大谷に簡素な墓所が設けられた。…
※「東本願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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