日本歴史地名大系 「丹生俣村」の解説 丹生俣村にゆうのまたむら 三重県:一志郡美杉村丹生俣村[現在地名]美杉村丹生俣八手俣(はてまた)川の最も上流域の谷あいにあり、北は上多気(かみたげ)村と接する。東を奥唐戸(おくからと)山(六九七・二メートル)、南を庄司(しようじ)山、西を杉(すぎ)峠の連山で囲まれる。村内を南北に、多気から川俣(かばた)谷(現飯南郡飯高町)へ至る庄司越の街道が通ずる。近世初頭の「勢陽雑記」には、「丹生俣村 津より坤、行程九里半。此所に播州赤松彦次郎教康が廟所あり」とあり、嘉吉の乱で将軍足利義教を討った赤松満祐の子教康が、伊勢国司北畠家を頼って落ちて来たのを受入れられず、ついにこの地で自害したと記しているが、「建内記」嘉吉元年(一四四一)閏九月一日条には「赤松彦次郎教康落播州木山城、相馮伊勢国司(北畠侍従)罷向彼館在伊勢国云々、叔父左馬助事、相尋之処、不知行方云々、国司誅教康」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報