丹生神社
たんじようじんじや
[現在地名]塩田町大字馬場下字宮元
県道塩田―嬉野線の北側の山麓にある。南部には塩田川が流れている。旧県社。祭神は丹生大神(月読命)・罔象女命。
丹生神社はこの一帯に、川上丹生神社(現嬉野町大字不動山字丹生川)・平野丹生神社(現嬉野町大字不動山字平野)・湯野田丹生神社(現嬉野町大字下宿字湯野田)・井手川内丹生神社(現嬉野町大字下野字井手川内)・大草野丹生神社(現塩田町大字大草野)・宮の元丹生神社(現塩田町大字馬場下字宮元)・五の宮神社(現鹿島市大字森)などがある。
丹生神社
にうじんじや
上丹生谷(地元ではカミニウと呼慣らわす)の西端山麓、籠池の東側に鎮座し、祭神は丹生明神・高野明神・気比明神・厳島明神。旧村社。本山大神宮とも麓四社明神ともいい、上丹生谷・下丹生谷(現粉河町)の産土神であった。天野社(現和歌山県かつらぎ町の丹生都比売神社)の祝詞に「遷
幸名手ノ村丹生屋乃所
夜殿太坐」とあるのはこの地をさし、丹生明神が天野に鎮座する以前に止宿した所と伝える。「紀伊国名所図会」は「当社は丹生津比売大神、赤穂山の布気といふ所より、此地に遷幸しける時、里人等社を建て、御寝殿とせしより、大神天野に鎮坐したまへる後も、其神霊を崇めて産土神とす。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]美里町長谷宮
西流する貴志川と、長谷宮の平地を南に見渡す尾根先端に鎮座する。祭神は丹生都比売大神・高野御子大神。古くは丹生高野両大明神社とも、長谷大明神社ともよばれ、伊都・那賀両郡にまたがる長谷郷五ヵ村の鎮守とされた。旧村社。鎮座地は丹生都比売神社(現和歌山県かつらぎ町)の古い祝詞に「長谷ノ原爾忌杖刺給比」とある所といわれる。永享二年(一四三〇)一一月一日の弘秀下地寄進状(中家文書)に「長谷大明神奉寄進下地事(中略)右件下地田者、弘秀相伝之私領也、当社丹生大明神、限永代寄進申処也」とある。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]余呉町下丹生
下丹生集落の北部に鎮座する。旧村社。祭神は高
神・丹生津姫命。境内社は蛭子神社・稲荷神社。もとは丹保高山の麓、高時川西岸の神楽野(歌楽野)に鎮座していた。創立は天平宝字八年(七六四)で、貞観一二年(八七〇)北方の現在地に遷座したと伝え、旧社地を奥院とし小祠を建て、神楽野明神と称し当社の御旅所としたという。
丹生神社
たんじようじんじや
[現在地名]貴志川町北
高尾山北麓に鎮座。祭神は丹生・高野両明神。旧村社。「続風土記」によれば、国主村(現貴志川町)の国主明神(現大国主神社)とともに貴志荘の産土神であったという。承平五年(九三五)一二月、当地の郷士藤原宗重が神託を受け、伊都郡天野(現和歌山県かつらぎ町)の丹生都姫神を当地に勧請して小祠に祀ったといい、その後正嘉元年(一二五七)から文応元年(一二六〇)にわたって高野山僧新仏入道によって本殿および別当寺霊岸山丹生寺が建立されたという(貴志川町史)。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]榛原町大字雨師小字朝原
雨師集落北西に鎮座。祭神は高
神。旧村社。「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年九月五日条に天皇が「丹生の川上に陟りて、用て天神地祇を祭りたまふ。則ち彼の菟田川の朝原にして、譬へば水沫の如くして、呪り著くる所有り」とみえ、「菟田川の朝原」は当社境内とされる(大和志・日本書紀通証)。「延喜式」神名帳宇陀郡「丹生神社鍬靫」に比定されるが、吉野郡の式内社「丹生川上神社」がしばしば「丹生川上雨師神」と記載されるため、雨師に鎮座する当社と混同されることが多い。ちなみに、雨師荘の得分に関連して両社はなんらかのつながりをもっていたことが考えられる。なお、現奈良県菟田野町にも丹生神社が鎮座する。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]龍神村東 丹生平
丹生ノ川が日高川に合流する地の右岸、丹生平に鎮座。祭神は丹生都姫命・丹生都彦命。旧村社。かつての上福井・柳瀬・安井・東・西・宮代・広井原・湯ノ又・三又(現龍神村)の諸村の産土神。創建については不詳だが、南北朝時代以降、当地を領した玉置氏が勧請したとの伝えもある。天正一三年(一五八五)羽柴秀吉の紀州攻めの時、戦火で焼失し、承応二年(一六五三)再建された(続風土記)。その後、明治二二年(一八八九)八月の洪水で社殿を流失、同二五年再建、同四二年一月二六日本殿を焼失、同年二月一五日仮殿を建立して神霊を遷祀するなど、度々災害にあっている(日高郡誌)。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]余呉町上丹生
上丹生集落に鎮座する。祭神は丹生津比売命・弥津波能売命。境内社は伊波佐伎神社・平地岩神社・稲荷神社、境外末社は八幡神社・蛭子神社。「延喜式」神名帳の伊香郡「丹生神社二座」に比定する説がある。社伝によれば天武天皇の代に丹生真人がこの地を領し、丹保野山に神籬を設け、天平宝字年間(七五七―七六五)に現在地に奉遷したという。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]川辺町江川
西流する江川川の北岸に鎮座。祭神は八幡大神・天照大日
命・里大神・丹生都姫命・天児屋根命・光土大明神。旧村社。古くは正八幡宮と称した。「続風土記」に「伝へいふ昔玉置氏和佐に在城せし時小釜本村の八幡宮を城地に勧請し、其後ここに遷すといふ、応永・天文年間当社の放生会席順の人名を記せる文書村民江川氏に蔵む、神主宮本氏なり」と記す。享保一〇年(一七二五)の江川組社方書上(日高郡誌)に、玉置氏は和佐城(現川辺町)在城の節、八月一四日の夕刻江川村に来て一五日の祭礼を務めたと記され、玉置氏との縁故の深さを知ることができる。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]美里町真国宮
旧村社。古くは丹生高野明神社と称し、真国荘の総鎮守とされ、祭神丹生都比売命。「続風土記」によると境内東西二町・南北三町、「宮作り壮麗にて殿舎も備れり」とある。当社神主高岡家文書に正応元年(一二八八)一一月日の真国宮神主補任状および永享元年(一四二九)一一月二一日の真国荘丹生大明神への沙弥□見下地寄進状がある。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]和歌山市栗栖
栗栖丹生神社・紀氏栗栖神社ともよばれる。旧村社。現在は日本武尊・宇摩志摩治命・丹生津比
命・天道根命を祭神とする。「続風土記」は紀氏栗栖神社と記し、保延年間(一一三五―四一)に丹生明神を紀氏栗栖神社の相殿に祀って二座とし、以後二神ともに栗栖一村の産土神として信仰を集めたと記す。「紀伊国神名帳」には「正一位紀氏栗栖大神」がみえる。延享三年(一七四六)の南紀神社録(和歌山県立図書館蔵)は、祭神は紀氏祖天道根命と栗栖姓の祖宇摩志摩治命であるが、後世土地の者が紀氏・栗栖二姓の祖廟であることを知らずに丹生明神と称していると記す。
丹生神社
たんじようじんじや
[現在地名]貴志川町西山
鳩羽山南麓部の山中に鎮座。祭神は丹生都姫命・高野御子神。旧村社。「続風土記」は産土神社と記し、「村の丑の方二町許山の半腹にあり、一村の鎮守なり」とし、「紀伊国名所図会」は「丹生神社」として再営棟札に「元亀三年卯月二十三日二品親王任助」とあるとし、「こは仁和寺と号し、厳島御室といへり」と記す。古くは愛宕の峯に鎮座、慶安二年(一六四九)現在地に遷宮、その後社殿は衰微したが、大正一一年(一九二二)に再建されたという(貴志川町史)。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]菟田野町大字入谷
入谷川上流に鎮座。祭神は闇
神あるいは水波能売神といわれる。旧村社。伴信友「神名帳考証」は「延喜式」神名帳宇陀郡の「丹生神社鍬靫」にあてるが、多くは現奈良県榛原町の丹生神社を式内社に比定する。水神を祀ったものと思われ、天文三年(一五三四)の水田売券(沢氏古文書)に「丹生の嶽」で雨乞をしたことがみえる。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]奈良市丹生町
丹生集落南西端にある。祭神罔象女命・埴山姫命。旧村社。旧蔵の大般若経六〇〇巻は永享三年(一四三一)の木版本であったと伝え、本殿は一間社春日造・檜皮葺で、嘉吉二年(一四四二)の棟木銘があり、国指定重要文化財。天正三年(一五七五)・文禄三年(一五九四)・慶長一一年(一六〇六)の題目立曲詞残欠(県指定有形民俗文化財)があり、「丹生飯道大明神」と記す。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]美浜町丹生
丹生集落の南東、丹生川河口より二〇〇メートルほどさかのぼった所に鎮座する。祭神は別雷命。「延喜式」神名帳に記す敦賀郡「丹生神社」を当社に比定する説がある(三方郡誌)。境内社として十善社・天満社など二一社を祀る。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]小浜市太良庄
丹生谷のほぼ中央に位置し、祭神彦火火出見尊。「延喜式」神名帳の遠敷郡「丹生神社」に比定される。「若州管内社寺由緒記」に「一ノ宮、上下宮勧請時代不
知、併太良庄最初の宮たるに依而一ノ宮と号す」とあり、若狭彦神社の遠敷明神を勧請したと伝える。
丹生神社
たんじようじんじや
龍華寺の東に鎮座、今高野山の鎮守神として紀州高野山から勧請され、高野明神・丹生明神と称していた。祭神は両明神。社殿は入母屋造・檜皮葺・妻入登勾欄付で二棟が並立し、明治初年の神仏分離令によって丹生神社と改称。当社に伝わる木製獅子頭一対は、黒漆に金や朱の彩色が施されており、うち一面(国指定重要文化財)の下顎裏に「正安三年辛丑無射中旬彫刻 此子師之頭奉納 今八幡之宮随分丹誠神明納受矣 左兵衛尉藤原重幸」の陰刻銘があり、本来当社に奉納されたものでなく、他から移されたことがわかる。
丹生神社
にうじんじや
[現在地名]西吉野村大字大日川
丹生川左岸に鎮座。祭神は水波女命。旧村社。「大和志」には丹生神祠として「在加名生荘大日川村与和田神野北曾木老野共祭典」と記す。木造両部鳥居には明暦二年(一六五六)高野山沙門春深寄進の扁額がかかり、正一位勲八等丹生大神と記すが、これは丹生川上神社下社(現奈良県下市町)のものと伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の丹生神社の言及
【水銀】より
…真言修験の徒も単に精神的な修行に従っていただけでなく,水銀を求めて入山し丹薬を製して服用したり,これを商って暮らしていた者もあったと思われる。 古代の朱砂の産地は,今も丹生系の地名や丹生神社として残っている。丹生神社には水銀の女神であるとされる丹生津姫がたいていまつられているが,水銀が採りつくされてしまうと水銀の神であることが忘れられ,農耕生活にとって重要な水神や雨乞いの神である罔象女(みずはのめ)や龗(おかみ)系統の神へと変貌をとげることもあった。…
【丹生都比売神社】より
…第一殿に丹生都比売大神,第二殿に高野御子(たかのみこ)大神,第三殿に大食津比売(おおげつひめ)大神,第四殿に市杵島比売(いちきしまひめ)大神をまつる。一般に天野(あまの)神社といい,また丹生神社,天野四社,丹生高野明神とも称した。創建年代不詳。…
※「丹生神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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