愛宕神社(読み)アタゴジンジャ

デジタル大辞泉 「愛宕神社」の意味・読み・例文・類語

あたご‐じんじゃ【愛宕神社】

京都市右京区にある神社。祭神は、本宮に稚産日命わくむすびのみことほか四神、若宮に雷神いかずちのかみほか二神。防火の神として信仰される。全国愛宕神社の総本社。愛宕権現。
東京都港区にある神社。慶長8年(1603)に京都の愛宕神社の分霊を勧請かんじょう。芝愛宕山。

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精選版 日本国語大辞典 「愛宕神社」の意味・読み・例文・類語

あたご‐じんじゃ【愛宕神社】

[一] 京都市右京区嵯峨愛宕町、愛宕山上にある神社。旧府社。祭神は埴山姫命(はにやまひめのみこと)、稚産日神(わくむすびのかみ)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、豊受姫命(とようけひめのみこと)、天熊人命(あめくまうしのみこと)ほか。天応元年(七八一和気清麻呂(わけのきよまろ)が光仁天皇の勅命により社殿を造営、平安京の鎮護の神としてまつられたもので、奥社と若宮に火の神をまつり火伏せのお守りを出す。防火の神として全国八百余の愛宕社の根本社。近畿一帯から関東、東北でも信仰される。延喜式内社。愛宕権現。鎮火神社。白雲寺。
[二] 秋田県湯沢市愛宕山にある神社。旧県社。祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)。延暦二〇年(八〇一坂上田村麻呂がまつったと伝える。
[三] 山形県天童市北目城山にある神社。旧県社。祭神は火産霊大神(ほむすびのおおかみ)。天正一二年(一五八四)山形城主の最上出羽守義光が勧請(かんじょう)。愛宕権現社。
[四] 東京都港区愛宕山にある神社。祭神は火産霊神、罔象女命(みずはめのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、大山津見命。慶長八年(一六〇三)幕府の命令で建立。あたごさま。
[五] 宮崎県宮崎郡佐土原町にある神社。旧県社。祭神は火之伽具土神(ほのかぐつちのかみ)、天児屋根命(あまのこやねのみこと)。養老二年(七一八)の創建といわれる。

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日本歴史地名大系 「愛宕神社」の解説

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]右京区嵯峨愛宕町

愛宕山の最高峰朝日あさひ峰の山頂近くに鎮座。近代以前は愛宕山の別称白雲はくうん山にちなみ白雲寺とも愛宕権現ともよばれた神仏習合の社。現在の祭神は本宮(端の御前)稚産日わかむすび命・埴山姫はにやまひめ命・伊弉冉いざなみ命・天熊人あめのくまのうし命・豊受姫とようけひめ命、若宮(奥の御前)いかずち神・迦遇槌かぐつち命・破无はむ神、奥宮に大国主おおくにぬし命ほか十数柱と数多いが、神仏習合時代は本地仏が勝軍地蔵(本朝神社考)、主祭神は火神の軻(迦)遇突智命ともされる(諸社根元記)。全国に分布する愛宕神社の総本社で、白雲寺縁起(山城名勝志)に「当桓武時、改宕成護字、号愛宕護山大権現、以此山鎮護国家道場」とあり、国家鎮護の意味をこめて愛宕護山大権現と記すようにもなった。旧府社。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔開創縁起〕

白雲寺縁起によると、大宝年間(七〇一―七〇四)に役小角が泰澄を伴って愛宕山に登り、禁裏に奏上して山嶺を開き、朝日峰に神廟を造立したという。その後、丹波国桑田くわた国分こくぶ(現京都府亀岡市)から山城国愛宕郡たかみね(現京都市北区)に移されていた阿多古あたご社を、慶俊が天応元年(七八一)愛宕山山中に移し、愛宕権現と称することになったとされる(神祇拾遺・諸社根元記)。ただし「延喜式」神名帳では丹波国桑田郡に「阿多古アタゴノ神社」が載る。神階は「三代実録」貞観六年(八六四)五月一〇日条に「授丹波国正六位上愛当護神従五位下」とあり、それ以前に階位をうけていた。同一四年一一月二九日に「阿当護神従五位上」、元慶三年(八七九)一〇月二四日に「阿当護神従四位下」と加位。また同四年四月二九日には「授丹波国阿当護山无位雷神、破无神、並従五位下」とある(同書)

〔愛宕信仰〕

神仏習合の進展に伴い、愛宕山は修験者の修行場ともされ、祭神も天狗の姿をした愛宕権現太郎坊とも考えられ火神ともされた(前掲縁起など)

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]上野市愛宕町

愛宕町の南部にあり、祭神火産霊大神、祭礼日は七月二三日、旧村社。社殿は東を向き、鳥居も馬場道も東にあり、北にあたる上野城跡に側面を見せている。これは筒井定次入国以前の形を踏襲していると思われる。上野城下町で菅原すがわら天満宮とならび、藩主や庶民の信仰があつかった。「三国地志」に「慶長五年ノ造営、元和元年新ニ勧請ス、寒松廟以来ノ数通ノ公案ヲ蔵ム、寛文九年大通廟十石余ノ神領ヲ寄セ給フ」とあり、当社別当寺大福だいふく寺については「愛宕山教雲院 按、慶長五年小天狗清蔵房創建、養元房俊明開祖、正堂・護摩堂・寝堂・薬師堂アリ」とある。

当社蔵の木箱ならびにその中の木札の墨書銘によると、弘治二年(一五五六)上阿波かみあわ(現阿山郡大山田村)の粟皇神別府宮(現葦神社)の神主稲上神部大夫が、大黒天・摩利支天・弁財天・三宝荒神の四神を勧請したとある。慶長五年(一六〇〇)にはすでに四座を相殿に祀る愛宕社があり、そこを足場に、山出やまで村生れの小天狗清蔵が大福寺を建て、修験活動の根拠にしたのであろう。山出村勝因しよういん寺の鐘銘に「奉鐘鋳 伊賀国愛宕山伏拝処也 本願小天狗大峰三十六度 于時慶長十七年三月吉日」とある。元和二年(一六一六)藩主藤堂高虎が大檀那となり、勝軍地蔵権現をあらたに勧請し、社殿を建立した。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]甲府市愛宕町

愛宕山西麓にある。祭神は火之迦具土神・建御名方神・日本武尊。旧村社。近世末までは勝軍しようぐん地蔵・愛宕山・愛宕山権現・愛宕権現などと通称された。創建は、武田信玄が躑躅が崎つつじがさき館裏側の聖道しようどう小路に屋社を建立して愛宕勝軍地蔵を安置し、これを勝軍地蔵権現之宮としたのに始まるという(慶応四年「愛宕山宝蔵院由緒明細帳」寺記)。当社建立は躑躅が崎館の鬼門守護のためであるとされる(甲州巡見通行記)。安置された勝軍地蔵は武田家重代の御持尊であるとも(前掲明細帳)、武田信玄が相模国に侵攻した際に同国愛宕山から持帰ったものとも伝えるが(兜雑記)、詳細は不詳。天文(一五三二―五五)末年から永禄(一五五八―七〇)初年にかけてと推定される年未詳七月四日付の武田晴信判物(信玄公宝物館所蔵文書)によれば、当社別当愛宕山西之にしの(新義真言宗宝蔵院)から贈られた御札などへの答礼とともに、越後上杉謙信の兵が信濃に乱入したもののほどなく退散したことを報告、愛宕権現の神力であると感謝し、今後の武運長久祈願を依頼している。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]館林市西本町

市街地の西端付近、旧木挽こびき町北方にある。祭神は火産霊命ほか六柱。社伝によると文武天皇四年(七〇〇)役小角が山城国愛宕社の祭神を勧請したという。室町から戦国時代には赤井・長尾氏ら館林一帯の有力領主に崇敬された。天正一八年(一五九〇)館林に入部した榊原康政もまた当社を信心、文禄年間(一五九二―九六)館林の総鎮守と定めて社地五千余坪を安堵し、慶長七年(一六〇二)には社殿を修復、同氏の祈願所としたといわれる。近世には別当興蔵こうぞう(本山派修験)の管下に置かれていた。延宝二年(一六七四)の城下町図によれば、南北に走る木挽町通の西側に興蔵寺と愛宕神社、東側に興蔵寺持の金蔵院・真明院などが並んでいた。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]鳥取市湯所町一丁目

雁金かりがね(別名愛宕山)の西山腹にある。祭神軻遇突智命。創立年代は不詳。藩政期には愛宕社・愛宕将軍地蔵大権現と称し、真言宗愛宕山金剛こんごう将軍しようぐん寺の境内に祀られていたが、神仏分離により明治三年(一八七〇)三月金剛院から分離した。金剛院は同年一〇月宝珠ほうじゆ院に合併した(「因州分寺院籍」県立博物館蔵)。社伝では往古雁金山の山頂にあったが、寛永(一六二四―四四)初年池田光政が鳥取城の鬼門除け・武運長久・火災消除の祈願所として現在地に移転したと伝える。「鳥府志」は、寛永九年防火の守護神である愛宕権現の信仰厚い幕府の御目付手が鳥取に滞在した折に、鹿野雲龍しかのうんりゆう(現鹿野町)にあった愛宕を移転したとの一説を載せている。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]福知山市字前田

前田まえだの西端、愛宕山上にある。祭神加具土神。旧村社。「丹波志」は「愛宕神社 古土師郷前田村 祭神京愛宕ニ同 祭礼七月廿四日」と記し、続けて

<資料は省略されています>

とし、次に寛文七年(一六六七)五月二四日付の松平主殿頭忠房の社領寄進状をあげている。次に載る元禄三年(一六九〇)正月一一日付の朽木稙昌の寄進状の写の宛先は社僧雲前うんぜん寺であり、同書に「雲前寺ハ山ノ麓、華表ヨリ弐町南ニ在、境内弐拾八間四方、別当中川氏代々勤之」とある。

なお「横山硯」は当社の建立のいわれについて次のように記す。

<資料は省略されています>

歴代福知山藩ではこの社が城の鬼門(真東で正しくは鬼門でない)にあたるとし、防火の神として崇敬し、領内五社(当社のほか荒木神社・一宮神社・庵我神社・天照玉命神社)の一として、事あるごとに「五社参り」を勧奨してきた。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]港区愛宕一丁目

愛宕山に鎮座する。祭神は火産霊命・罔象女命・日本武尊。旧村社。本地仏は行基彫刻と伝える勝軍地蔵。天正一〇年(一五八二)本能寺の変に際し、徳川家康がさかい(現大阪府堺市)を出発して大和路から近江紫香楽しがらき(現滋賀県信楽町)に入り、多羅尾四郎右衛門の屋敷に宿泊したときに地蔵を献上されたという。慶長八年(一六〇三)家康に供奉して勝軍の法を修めた僧春音の撰によって桜田さくらだの藤六郎の山に仮殿を建て、同一〇年本社・幣殿・拝殿が建てられた。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]仙台市向山四丁目

虚空蔵堂の東隣、愛宕山(向山)に鎮座する。祭神は軻遇突智命・天照大神・豊受大神ほか九ヵ神。別当は天台宗愛宕山誓願せいがん寺。旧村社。「封内風土記」によれば米沢にいつの頃からか勧請されていたのを、伊達家一五代晴宗が永禄年間(一五五八―七〇)に誓願寺の尊勝に命じて本地仏を安置せしめたため尊勝を中興の開祖としている。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]小矢部市八和町

しろ山の南東麓に鎮座。祭神軻久突智命ほか。もとは愛宕権現・愛宕社と称した。旧郷社。創立年代は不詳だが、山城国愛宕山を勧請したものと伝え、もと城山山頂に鎮座。社地内に元亀年間(一五七〇―七三)能登石動せきどう山の伊須流岐比古いするぎひこ神社が勧請された(神社明細帳)。天正一一年(一五八三)には佐々成政討伐のために越中へ侵攻した羽柴秀吉・前田利勝(利長)が武運長久を祈願したという(同書)。今石動城築城後も山頂にあったが、同城の廃城により中腹の現在地に遷座した。古くから礪波となみの大宮と唱え、江戸時代には今石動町ほか四九ヵ村の惣社として人々の信仰を集め、現在も四月二三日・二四日の春の祭礼には今石動の各町内より花山車や歌舞伎山車が繰出す。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]上越市国府一丁目

居多こた神社の南、愛宕山麓に鎮座。祭神は伊弉諾尊・火産霊神。火産霊神は防火の守護神として崇敬されてきた。もと春日山かすがやま城の山麓愛宕池付近にあったのを、上杉謙信が永禄年中(一五五八―七〇)現在地に遷座したと伝える。創祀時期は不明だが、「中頸城郡誌」によると、天武天皇の時代、文武天皇の時代、延暦元年(七八二)に勧請したという三つの伝えがあり、「北越風土記」には「承平元年日良善界太郎坊を勧請す」とあるという。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]八幡町島谷

吉田よしだ川左岸の愛宕山の尾崎おさきに鎮座。祭神は軻遇槌命。遠藤・金森両軍による慶長五年(一六〇〇)の八幡城攻撃の際、遠藤慶隆が稲葉氏と講和を結び、稲葉土佐の子与市郎を人質に愛宕山に陣を移した。遠藤勢と稲葉勢および援軍勢の連絡の不十分さから、徳川方(東軍)同士の内戦となり、尾張犬山からの稲葉勢援軍に攻撃され、遠藤方は手痛い被害をうけ、慶隆自身小野おの滝山たきやまに陣取る味方の金森勢の陣へ命からがらたどりついたほどであったという(「遠藤慶隆御一世聞書」郡上高校蔵、「秘聞郡上古日記」県立図書館蔵)

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]山形市小白川町

馬見まみさき川の右岸、さかずき山の中腹に鎮座。祭神は火産霊命。古くから「お焚さま」の称で親しまれている。社伝によれば、室町時代に最上氏が山形城の鬼門除けの祈願所を城の北東方に創建し、城内の安全を祈念した。その後、最上義光の山形城改築の際、城下六日むいか町の大蔵おおくら山に移して、城内安全・領内安穏の祈願所とした。最上氏改易後に山形に入部した鳥居忠政は、山形城の改築と馬見ヶ崎川の流路変更工事を行い、寛永二年(一六二五)大蔵山より現在地に移し、社殿を造営し、直願所と定めた。この際京都愛宕大権現の分霊を勧請して奉祀し、社領地一三町歩余を寄進、別当職に愛宕権現より権大僧都行賢を招いたという。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]大石田町大石田 本町

祭神軻遇突智命、旧郷社。大永年間(一五二一―二八)井出いで館主太田左仲の守護神として京都愛宕権現から分祀したと伝え、江戸時代の別当は羽黒山安養あんよう院末来迎らいこう院。寛政一一年(一七九九)村岡六右衛門・岡村半右衛門が発起となって再建したといい、現在の社殿は昭和八年(一九三三)のもの。境内の弁財天は町寄合相談一件(大石田町役場蔵)の宝暦一四年(一七六四)三月七日の条に「弁才天社之義、往古最上川原ニ祠有之候処、先年洪水後、来迎院社地之内へ遷宮致候処、此度御神告も御座候付、古社跡勧(請)致度旨、又左衛門申出候」とあり、最上川の中川原にあった弁才天社を同七年の洪水後、来迎院境内に遷宮したが、古社地へ再び遷宮した。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]高崎市南町

みなみ町北西端の小高い丘にあり、祭神は伊弉諾命・伊弉冊命・軻遇突智命。本殿九尺六寸四方で瓦葺、拝殿間口三間・奥行二間、境内三八八坪。中世末期の状況を描いたと考えられる和田絵図(「更正高崎旧事記」所収)に愛宕宮とみえる。和田義信の建立と伝え、元和三年(一六一七)高崎藩主松平信吉再建といわれる。「閭里歳時記」九月二四日の記事に「南町愛宕祭礼なり、昨日より新田町・南町・新喜町のぼりを立、社地にも彼町より色々の造物を出して壮観とす、近年童相撲あり、昨夜町中提燈を出し参詣群集す、今日湯立あり、別当当山派山伏竜宝寺、同派の輩をあつめて社頭におゐて柴燈護摩を修す」と記される。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]新発田市中央町三丁目

かみ町の東端に位置し、近世には明王みようおう院と称する修験の寺であるとともに、上町の鎮守として天神宮ともよばれた。火産霊神を祀り、旧村社。天文年間(一五三二―五五)の開創といい、新発田重家の時代に僧玉林が一宇を建立、愛宕勝軍地蔵を安置して勝軍しようぐん寺と称し、火伏の神として信仰されたと伝える。慶長三年(一五九八)溝口秀勝入封の際、明王院は弥彦やひこ山まで出迎え、法螺貝を吹鳴らして先達したという。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]雄勝町上院内 上町後

羽州街道に沿い、上院内かみいんない下院内しもいんないの境にある。東に館山たてやまがあり、北に山を控えて林を背にする。祭神は火産霊神。旧郷社。

本社は館山の峰続きにあり、里宮は貞永元年(一二三二)現在地に移ったと伝える。藩政時代藩主の信仰厚く、宝永元年(一七〇四)の「覚」(国典類抄)に「院内愛宕」を含む一二社の修復が行われたとあり、正徳(一七一一―一六)の頃に整備されたとみられる藩内十二社の一に定められている。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]高鍋町上江 黒谷

洪積台地の東斜面、黒谷くろだににある。高鍋城跡の北約二〇〇メートル、旧城下から西約五〇〇メートルの所にあたる。祭神は火産霊大神。旧郷社。秋月氏が高鍋に封ぜられる以前から修験宗地福じふく寺内に鎮座していたと伝え、正保三年(一六四六)現在地の山上に移され愛宕寺社僧が祭祀した(本藩実録)。「続本藩実録」享和二年(一八〇二)一一月一四日条に「愛宕寺風当強ニ付鳥居下北脇へ建替度願出御免」とあり、神仏習合の様子をみることができる。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]江刺市藤里 石名田

幕内まくない集落の南方一キロにそびえる愛宕山上に鎮座。祭神軻遇突智火神。愛宕山と通称する。延暦年中(七八二―八〇六)坂上田村麻呂が達谷たつこく(現西磐井郡平泉町)で悪路王・赤頭らを討ったが、その子人首丸が逃れて愛宕山に拠った。田村麻呂は同山の東麓に陣をとり、夷敵降伏祈願をなしたところ、神託を被り人首丸を誅すことができた。そこで山上に愛宕神社を創祀し、治国鎮護の神とした。のち江刺氏が当社を崇敬し、退廃していた堂社を再興した。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]富山市愛宕町二丁目

旧郷社で、法人名は愛宕社。祭神は火之迦具土神。京都愛宕山に鎮座する火の神を鎮火守護神として婦負郡万見まみ郷に勧請したものといわれる。ただし、もと当社の神体であったとみられる木彫勝軍地蔵菩薩半跏像(社蔵)の胎内納札墨書銘に、長禄元年(一四五七)夏付で「愛宕山大権現□□ 越中国婦負郡万見郷 五十嵐次郎左衛門敬白」とあり、武門の神として祀られたものと推察される。のち洪水のため愛宕村に遷座。富山藩祖前田利次の富山城入城後、万治元年(一六五八)に富山藩の鎮火神として祈願所に定められ、現在も鎮火祭が執行されている。

愛宕神社
あたごじんじや

足羽神社の境内社。もと足羽大権現社とよばれ、足羽山北部にあった。文明一八年(一四八六)朝倉景儀が一乗いちじよう(現福井市)に山城国愛宕山(現京都市右京区)より勝軍地蔵を勧請したのに始まり、天正四年(一五七六)柴田勝家によって足羽山に移された。別当は天台宗遊楽ゆうらく松玄しようげん(権現社東方に跡地あり)

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]会津若松市東山町石山 愛宕山

東山町石山の慶山いしやまのけいざんより愛宕山に至る丘上にある。祭神は軻遇突知神など。草創の年代は不明。天正一九年(一五九一)の大崎一揆の際、蒲生氏郷が町野左近を通して当社の別当金蔵院玄江に軍の勝利を祈らせ、凱旋後三〇間四方の地を寄付したという。慶長一三年(一六〇八)蒲生秀行が修理を加え、加藤明成のとき再び修理をしたという(新編会津風土記)

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]長岡市愛宕一丁目

城北の愛宕町の北にあり、もと愛宕権現と称し、別当愛宕山勝軍しようぐん寺が奉仕した。元和元年(一六一五)祐寛が新田氏の守本尊という勝軍地蔵を上野国養林ようりん(現群馬県勢多郡大胡町)から迎え、同三年堀直寄が長岡築城の際、東方の鎮護として祀り、勝軍寺と称した。牧野家累代の信仰も厚く、登城して祈祷札を献上し、祈祷することを許されていた。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]岩間町泉

愛宕山(二五七メートル。古くは風穴山と称した)頂にあり、祭神は火之迦具土命。旧村社。防火の神として知られる。社伝によると大同元年(八〇六)徳一大師の創建。宍戸ししど城主宍戸氏代々が供田料を献納している。その後寛永二〇年(一六四三)宍戸城主秋田俊季が松杉数万本を寄進し、慶安元年(一六四八)には朱印地三石を給される。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]伊奈村小張 愛宕

谷田部やたべ街道の東に鎮座。祭神軻遇突知命。旧村社。小張城主只越全久の崇敬があつかったと伝える。八月二四日の例祭に行われる松下流綱火は中世末期頃より伝承されている民俗芸能で、正しくは「小張松下流三本綱からくり花火」という。

日の落ちるのを待って境内に張られた大小の綱に掛けた人形を操り、大太鼓・小太鼓・鼓・笛・鉦からなる囃子が演題に効果を添え、仕掛花火も行われる。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]峰山町字菅

旧峯山町の南側に東西に連なる丘陵西の愛宕山頂(小字菅峠)に鎮座する。祭神は火産霊神。

勧請時期は不詳。江戸時代には増長ぞうちよう院の鎮守であった。現存の梵鐘(延宝七年鋳造)に「丹後国丹波郡昌峰山鎮守愛宕権現鐘」の銘がみえる。昌峰山は増長院の山号。この鐘は郡内の名鐘とされ、村々に響きわたることから水火災報知のためにつき鳴らされた。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]湯沢市愛宕山

旧湯沢町の南、愛宕公園内にある。祭神は火産霊大神。旧県社。

神社縁起(湯沢市立図書館蔵)によれば、大同二年(八〇七)の勧請で、永禄年間(一五五八―七〇)の三春氏以来歴代の城主の崇敬を集め、慶長七年(一六〇二)佐竹義種が湯沢城に入った時に再建し、社領五〇石を寄付したとある。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]水戸市愛宕町

上市うわいち台地の端にある愛宕山古墳上に鎮座。古墳が当社の神域となっている。祭神は火之迦具土神。旧村社。「新編常陸国誌」の袴塚はかまつか村の項には「此愛宕権現ハ、今袴塚ノ鎮守トス、伝云、往古大掾家水戸ニ城主タル時、城内ニ勧請シ、江戸家ノ時ニ至リシモ、又城内ニ有リケルヲ、佐竹侯城主タル時、此地ニ移シ給ヘルヨシ、旧記ニアリトイフ」とみえる。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]天童市北目 城山

舞鶴まいづる山山頂東側にあり、広大な社地に老樹が茂る。祭神火産霊大神。旧県社。天正一二年(一五八四)最上義光が尊崇していた勝軍地蔵を本尊として、もとの天童城跡に創建し、社領一千三七〇石を寄進したという。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]守谷町守谷 愛宕

西林さいりん寺南方に鎮座。祭神軻遇突智命。配神奥津彦神・奥津彦姫命神。旧村社。天慶年間(九三八―九四七)平将門が創建したと伝えられる。三代守谷藩主土岐頼行が再建。

愛宕神社
あたごじんじや

[現在地名]土浦市下高津二丁目

水戸街道の西側、坂の中腹にある。祭神は軻遇突知命。旧村社。社伝によれば天慶年間(九三八―九四七)平貞盛の創建という。土浦藩主土屋数直は延宝七年(一六七九)に土浦城の鬼門除けとして奉斎し、家紋を加えた神灯二基を寄進した(土浦市史)

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改訂新版 世界大百科事典 「愛宕神社」の意味・わかりやすい解説

愛宕神社 (あたごじんじゃ)

京都市右京区,愛宕山上に鎮座。旧府社。火防の神といわれ,全国約800社の根本社として尊崇されている。本宮に伊弉冉(いざなみ)尊,埴山姫命,天熊人(あめくまうし)命,稚産霊(わくむすび)神,豊宇気毘売神,若宮に雷神,迦遇槌(かぐつち)命,破无(はむ)神をまつる。社伝によると,大宝年間(701-704)に役行者(えんのぎようじや),雲遍上人が洛北鷹峰に創祀し,781年(天応1)和気清麻呂,僧慶俊が〈愛当護大権現〉として,今の山上に移したものという。《三代実録》によると864年(貞観6)従五位下に昇叙。中世神仏習合の進展にともなって愛宕権現太郎坊と呼ばれ祭神を天狗として畏怖されたが,別に地蔵を本宮にまつり,〈勝軍地蔵〉と称して,武門守護のため武家に崇敬された。このほか威徳大善寺,別当寺,教学院,福寿院,長康坊など多くの寺坊を擁し,中国五台山を模した愛宕五峰がある。《延喜式》所載の〈阿多古神社〉(丹波国桑田郡)は当神社をさすといわれる。当時愛宕山は丹波に属していたためであろう。応仁の乱後細川勝元が社殿を修復し,織田・豊臣2氏は社地を寄進,徳川氏も朱印地を寄せている。明治維新後権現号や別当,供僧を廃した。俚謡に〈伊勢へ七度,熊野へ三度,愛宕さんへは月参り〉などと謡われ,〈千日詣〉の8月1日に参詣すると千日分に相当すると喧伝され,たいへんなにぎわいをみせた。例祭日9月28日。別に4月24日鎮火祭が行われる。
愛宕信仰
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「愛宕神社」の意味・わかりやすい解説

愛宕神社
あたごじんじゃ

京都市右京区嵯峨(さが)愛宕町、愛宕山に鎮座。祭神は、本社に伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天熊人命(あめのくまひとのみこと)、埴山姫命(はにやまひめのみこと)、稚産日命(わくむすびのみこと)、豊受姫命(とようけひめのみこと)の5座、若宮社に雷神(いかずちのかみ)、迦倶槌命(かぐつちのみこと)、破旡神(はむしん)の3座を祀(まつ)る。「あたご」は仇子の意。社伝によると、愛宕山白雲寺は701年(大宝1)に役小角(えんのおづぬ)と泰澄(たいちょう)によって開創されたが、781年(天応1)6月に和気清麻呂(わけのきよまろ)が勅命を受け、愛宕郡鷹峯(たかがみね)から神霊を迎え、堂宇を造営したという。平安京となってからは王城の乾(いぬい)(北西)の守護神となり、愛宕権現(ごんげん)と称して崇敬された。また、火伏せの神として民間に広く信仰され、全国の愛宕神社の根本社とされる。旧府社。例祭9月28日。社宝の革包太刀(たち)は国指定重要文化財。

[菟田俊彦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「愛宕神社」の意味・わかりやすい解説

愛宕神社
あたごじんじゃ

京都市右京区嵯峨愛宕山に鎮座する元府社。愛宕権現,鎮火神社ともいう。祭神はワカムスビノミコトら王城鎮護の5神。若宮にはイカズチノカミら3神を祀り防火神として有名。例祭9月 28日。鎮火祭4月 24日。千日詣8月1日。全国 800社に及ぶ愛宕神社の根本社である。

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事典 日本の地域遺産 「愛宕神社」の解説

愛宕神社

(東京都練馬区田柄2-17)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「愛宕神社」の解説

愛宕神社

(大阪府大阪市東淀川区)
私が選んだ東淀川100選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の愛宕神社の言及

【愛宕信仰】より

…京都愛宕山にまつられている愛宕神社を中心とする信仰。火伏せの信仰が中心である。…

【愛宕山】より

…古生層からなり,周囲の標高500~600mの山地の面の上に突出している。山城国と丹波国との国境に位置し,山頂の愛宕神社は全国的な信仰圏をもっている火難よけの神の総本社。現在,8月1日の千日詣,11月の亥猪祭などがにぎわうが,かつて山上の行事であった柱松明は山下の嵯峨清凉寺で行われている。…

※「愛宕神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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