久我庄(読み)こがのしよう

日本歴史地名大系 「久我庄」の解説

久我庄
こがのしよう

かも川がかつら川に合流する付近の西岸に立地した久我家の名字地荘園。

一二世紀初めには、既に当地に久我家別邸の久我水閣(久我山庄)が営まれており(「中右記」寛治元年二月一〇日条)、久我家と当地との関係をうかがわせるが、「明月記」正治元年(一一九九)一二月三日条に「内府(源通親)甚入興云々、是被奉久我庄之故也」とあり、一二世紀末には源(久我)通親領となったことが知られる。なお、貞応二年(一二二三)五月三日付後高倉院庁下文案(東寺百合文書)には、久我御料庄が後高倉院庁領としてみえており、当庄の本所が後高倉院であったことを示す。領家久我家と当庄との関係は、久我本庄(下庄)新庄(上庄)に分れながらも中世を通じて継続している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報