久我村(読み)こがむら

日本歴史地名大系 「久我村」の解説

久我村
こがむら

[現在地名]伏見区久我〈あずま町・御旅おたび町・西出にしで町・本町ほんまち森の宮もりのみや町〉

かも川・かつら川の合流点付近を北へさかのぼり、久我橋を西へ渡河した辺りに位置する。北は石倉いしくら村、南は鴨川志水しみず村・菱川ひしかわ村と境し、東は桂川を隔てて紀伊郡塔森とうのもり(現南区)、西は東土川ひがしつちかわ(現南区)に接する。

一二世紀初頭までには当地に久我家の別邸久我水閣(久我山庄)が造られるなど(「中右記」寛治元年二月一〇日条)、久我家とのつながりが深められ、やがて久我家領久我上下庄が成立、中世を通じて推移した。しかし久我家の領知は、慶長六年(一六〇一)領主替えによって消滅し、以後近世の久我村は多くの領主によって、小規模な所領に分割領有された。


久我村
くがむら

[現在地名]関町久我

加太かぶと川下流右岸にあり、西は加太村、東は福徳ふくとく村に接する。嘉応二年(一一七〇)のいわゆる殿下乗合事件によって、平資盛が配流された地との伝承があるが不詳。「外宮神領目録」鈴鹿郡の条にみえる「久賀御園五斗」は、当村一帯に比定される。文亀三年(一五〇三)の万松山永明禅寺懺法僧衆帳(瑞光寺蔵)に「定林庵引付 クガ妙円」、永禄五年(一五六二)川上祠堂納(同寺蔵)に「九家」などとみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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