日本大百科全書(ニッポニカ) 「五条内裏」の意味・わかりやすい解説
五条内裏
ごじょうだいり
平安京の五条大路に面した里(さと)内裏(仮の皇居)。院政期の五条東洞院(ひがしのとういん)内裏と鎌倉時代の五条大宮(おおみや)内裏をいう。東洞院内裏は五条南東洞院西(京都市下京(しもぎょう)区)に1町の地を占めた。大納言(だいなごん)藤原邦綱(くにつな)の邸宅で、1180年(治承4)正月高倉(たかくら)天皇の里内裏となり、続く安徳(あんとく)天皇もそのままここを皇居とし、福原遷都が失敗したのち、ふたたびここに戻った。天皇が平家一門とともに都落ちしたのちの1183年(寿永2)に、木曽義仲(きそよしなか)が、後白河(ごしらかわ)法皇を一時ここに幽閉したこともある。
大宮内裏は五条北大宮東に南北2町の地を占めた。もともと後院地(ごいんち)(天皇家に伝わる領地)で、1256年(康元1)後嵯峨(ごさが)上皇の御所がつくられた。一度火災にあい、再建後は後深草(ごふかくさ)天皇、亀山(かめやま)天皇の里内裏となり、1270年(文永7)焼亡した。
[吉田早苗]