皇居(読み)こうきょ

精選版 日本国語大辞典 「皇居」の意味・読み・例文・類語

こう‐きょ クヮウ‥【皇居】

〘名〙 (「こうぎょ」とも) 天皇のすまい。皇宮。御所。宮城。禁裏。明治以降、旧江戸城が皇宮となり、宮城と称せられたが、第二次大戦後、この名称を用いるのが例となった。
※中右記‐天永三年(1112)五月一五日「一条院賀陽院累代之皇居也」
※宮内省告示第六号‐明治二一年(1888)一〇月二七日「皇居御造営落成に付自今宮城と称せらる」 〔孔融‐薦禰衡表〕

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デジタル大辞泉 「皇居」の意味・読み・例文・類語

こう‐きょ〔クワウ‐〕【皇居】

《古くは「こうぎょ」とも》天皇の住まい。御所。宮城。皇宮。
[類語]御所宮城宮中内裏王宮宮殿宮廷離宮禁中禁裏畏き辺り王城大内山雲上雲の上九重ここのえ行宮あんぐう

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改訂新版 世界大百科事典 「皇居」の意味・わかりやすい解説

皇居 (こうきょ)

天皇の住居。古くは宮,宮室,内裏,禁裏,禁中,禁闕,内,御所などのほか,大宮,大内,九重,百敷(ももしき)などの美称もあり,〈皇居〉の語も平安時代には記録に見える。東京遷都に際し,江戸城を東京城と改称,ついで皇城と公称したが,明治宮殿完成後は宮城を公称と定めた。しかし第2次大戦後,宮城の称が廃止されてからは,一般に皇居と称されている。

古事記》《日本書紀》の所伝によると,藤原宮造営以前の歴代皇居で目につくのは,仁徳・孝徳両朝の難波宮,天智朝の近江大津宮など少数の例を除いて,ほぼ後の大和国内に限られ,とくに奈良盆地の中東部,三輪山周辺に集中していること,また歴代必ず1度は新しい宮を造営して移っていることである。この歴代遷宮の理由としては諸説あるが,(1)当時の掘立柱建物の耐用年限によるとする説,(2)先帝の死の穢(けがれ)を避けるという説,(3)当時の父子別居制により,父帝が没すると,皇子は新しく自分の宮で即位したとする説,(4)新帝は即位の適地を新たに選定して即位式を挙げ,宮地を定めたとする説などがそのおもなものである。このうち(1)は伊勢神宮などの式年遷宮の慣行に通じ,(2)は天皇が没した殿舎を撤却する後世の慣習に通ずるところがあり,(3)(4)は(2)との関連も考えられる。しかし持統朝に中国風の本格的な宮室・都城として藤原宮・藤原京が営まれるに至って,歴代遷宮の風習は廃れ,さらに持統・文武2代の藤原宮都から,平城・長岡の宮都を経て,平安宮・平安京が造営されるに及び,〈万代の宮〉と定められた。

古代の宮室のうち,ある程度その構造がわかるのは,推古天皇の小墾田(おはりだ)宮が最初である。《日本書紀》の関係記事を総合すると,この宮は南門=宮門を入ると庁=朝堂のある朝庭があり,さらに北進して閤門=大門を入ると天皇の御在所の大殿がある。この大殿が後世の内裏に相当するが,大殿=内裏と庁=朝堂の位置関係は平城宮の第1次内裏まで変わらなかった。しかしその後両者の分離はしだいに進み,長岡宮に至って内裏は朝堂院の東に完全に分離して一郭をなし,ついで平安宮では,宮城の中央に位置する朝堂院の東北に離れて一郭を占めた。なお平安宮では,朱雀門以下の宮城十二門に囲まれた,内裏と朝堂院および諸官衙等を包括して宮城と称したが,唐の長安城では,官衙や宗廟を配置した皇城が宮城の南に完全に区別して位置した。

平安宮の内裏は,紫宸殿(ししんでん)を正殿とし,その北に接する仁寿殿(じじゆうでん)を平常の居所とし,その北に后妃・皇子女等の居住する後宮諸殿舎を配置したが,紫宸殿における朝儀・公事が多くなるに伴い,9世紀末から10世紀初めの寛平・延喜ころから紫宸殿の北西に位置する清涼殿(せいりようでん)が天皇の常居となるようになった。この平安内裏は,960年(天徳4)村上天皇のとき初めて焼亡し,以後焼失と再建を繰り返して鎌倉中期に及んだが,1227年(安貞1)後堀河天皇のとき焼亡廃絶した。この間,内裏焼亡のたびに後院(ごいん)(離宮の一種)や臣下の殿第が仮皇居とされたが,仮皇居の使用が頻繁となるに伴い,内裏の有無にかかわらず,別に皇居として造作された殿第も出現し,里亭(第)皇居と呼ばれた。これら仮皇居・里亭皇居を大内=平安内裏に対して里内とか里内裏(さとだいり)と称したが,里内裏も平安京域を出ないのを原則とした。こうして大内・里内が併存すると,大内には即位や元服など特別の儀式・行事のため,あるいは方違(かたたがえ)などのため一時的に行幸するにとどまり,里内裏が平常の皇居となり,通常の公事も行われた。この傾向は里内裏の内裏化を促し,ことに鎌倉幕府の資力によって造営された閑院や富小路殿は,紫宸殿・清涼殿以下の表向き殿舎の規模をほぼ取り入れ,平安内裏にとって代わる皇居となった。しかし1336年(延元1・建武3)富小路内裏が戦火により焼亡し,後醍醐天皇が吉野に南遷するや,北朝では持明院統に伝領された土御門(つちみかど)東洞院殿を歴代の皇居とした。

この土御門内裏は戦国時代の荒廃を耐えぬいて,織田信長,豊臣秀吉の修営工事により拡張整備され,さらに江戸時代に入って,将軍徳川秀忠の女和子の入内を機に大規模な増築工事が行われ,中世的な里内裏から近世的な御所へ脱皮した。この御所はその後数度の火災に遭ってそのたびに再建されたが,1790年(寛政2)の造営に当たっては,総奉行松平定信が紫清両殿以下の表向き殿門の古制復興に努めた。しかし一面では,生活様式の変化に対応して,すでに書院造を基調とした常御殿(つねごてん)が平常の御在所となっており,紫宸殿・清涼殿等は表向きの朝儀・公事の場として使用されるにとどまった。この寛政内裏は1854年(安政1)焼亡したが,直ちに焼失前の規模を踏襲して再建され,翌年完成した。これが現在の京都御所である。

ついで明治維新後,新政府は天皇親政を標榜して,1868年(明治1)閏4月二条城の本丸に皇宮を,二丸に太政官を造営する計画を発表したが,7月に至り江戸を東京とする詔を発布し,この計画は消滅した。ついで天皇は同年9月20日京都を発して10月13日東京に到着,江戸城西丸御殿(当時本丸殿舎は焼失)に入り,江戸城を東京城と改称し,12月にはその本丸に宮殿を造営すべき命を下した。しかし天皇は遷都反対論をなだめるためいったん京都に還幸し,翌年3月再び東幸して東京城を皇城と改称し,なしくずしに遷都を既成事実化した。こうして72年3月には,本丸以下の旧江戸城内郭を皇居と定めることを公告したが,翌年5月旧西丸宮殿が罹災全焼したため,天皇・皇后は赤坂離宮に移り,以後15年余にわたってこれを仮皇居とした。一方,皇城の再建は西南戦争その他の事情によって遅延したが,88年10月に至り旧西丸地区に宮殿が完成し,以後宮城と称することが告示され,翌年1月天皇・皇后は赤坂仮皇居より移った。いわゆる明治宮殿である。宮殿は銅瓦葺き入母屋造の和風木造建築36棟より成り,公式行事に使用される表宮殿(正殿,豊明殿,鳳凰の間など)と,天皇・皇后の常居する奥宮殿に分かれ,総坪数1万2600余坪にのぼった。また旧時庭園であった吹上地区には,賢所・皇霊殿・神殿の宮中三殿が新建された。

しかしこの明治宮殿は,1945年5月,米軍機の空襲によって焼失し,天皇・皇后は吹上御苑内に築造されていた,防空地下室をもつ御文庫(おぶんこ)に仮住いすることになった。ついで戦後の48年7月1日を期して宮城の称が廃止され,以後は皇居と通称されるようになった。そして61年に至り,もとの御文庫の跡に天皇・皇后の住居として吹上御所を建造し,さらに68年10月明治宮殿の跡に新宮殿が完成し,翌年4月から使用が開始された。新宮殿は,伝統的な和風宮殿の外観をもつ,鉄骨鉄筋造の地上2階,地下1階,延べ床面積6900余坪の建物である。新年祝賀以下公式の儀式・行事を行う正殿,天皇誕生日の宴会その他の饗宴場となる豊明殿,国民参賀のとき使用する長和殿などから成るが,別に住居として吹上御所を建造したため,奥宮殿を設けなかった点が明治宮殿と異なる。なお新宮殿造営の一環として,本丸および二丸地区を庭園化し,一般に開放している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「皇居」の意味・わかりやすい解説

皇居
こうきょ

天皇の住居をいう。古くは宮の名でよばれた。宮は御屋(みや)の意味で、御舎(みあらか)は御在所(みありか)の意味だという。『古事記』には、出雲大神(いずものおおかみ)が「わが宮を天皇の御舎のようにつくりかえよ」と、垂仁(すいにん)天皇の夢に現れて告げたとか、雄略(ゆうりゃく)天皇が河内(かわち)を展望したとき、堅魚木(かつおぎ)を棟に飾っている家をみつけて、天皇の御舎に似ていると怒り、その家を焼き払うように命じたという記事がある。このことから、天皇の宮殿と神殿とは堅魚木をともに棟にのせたよく似た外観をもったようである。大豪族を葬った古墳から堅魚木をもつ家形埴輪(はにわ)の出土することも多く、高貴の人々の住居は、他と異なった外観であって、容易に識別できたらしい。天皇の住むところが宮で、宮のある場所が都とよばれるのは、本来宮処(みやどころ)を意味したからだという。したがって、古くは宮と都とは混同されがちであった。

[工藤圭章]

古代の宮

宮の建物は掘立て柱の建物であったので、柱の根元が腐りやすく、宮は一代限り、あるいは一代に数度遷(うつ)り変わるのが常であった。代が変わって改められたのは、前の天皇の亡くなった場所を忌み嫌ったこともあったろう。これらの古代の皇居は、草葺(くさぶ)きの建物であったため、642年に建てられた皇極(こうぎょく)天皇の板葺きの宮は珍しさもあって飛鳥板蓋新宮(あすかいたぶきのにいみや)と命名されるほどであった。『日本書紀』には、この板蓋宮の大極殿(だいごくでん)で蘇我入鹿臣(そがのいるかのおみ)が中大兄皇子(なかのおおえおうじ)に誅(ちゅう)されたことが記されているように、宮は天皇の居所であるとともに、大極殿を主殿とする国政の中枢である政庁をも兼ね備えていた。居所と政庁の関係については、すでに603年につくられた推古(すいこ)天皇の小墾田宮(おはりだのみや)で、天皇の居住する大殿を中心とした天皇家の私的な空間があり、その南に大門が開かれ、大門の南には庁が建てられている庭があり、そして庭の南に南門が開かれていた。この庭には外国の使臣が招き入れられ、公的な儀式の行われる場所でもあり、庁があることからしても国政の場所でもあったと想像される。

[工藤圭章]

大内裏

律令(りつりょう)制度が整って、わが国で初めての都市として計画された藤原京では、皇居はその中央北部に京の広さの4分の1にあたる東西約1.1キロメートル、南北約1.6キロメートルの面積を占めて造営されている。すなわち、これが藤原宮である。宮がこのように広い面積を要したのは天皇の居所である内裏(だいり)、国政の中枢である朝堂院(ちょうどういん)をはじめ、中央官衙(かんが)もすべて包括されたためである。宮の周囲には濠(ほり)と大垣が巡らされた。このように大垣に囲まれた広い宮域が宮城であり、また大内裏(だいだいり)という。したがって、広い意味での皇居とは天皇の居所と国政をとる政庁をも含めた大内裏を示し、狭い意味では天皇の居所の内裏を示す。藤原宮に始まる宮城の制度は平城宮、平安宮にも踏襲されるが、宮内の構成、殿舎の配置はそれぞれ宮ごとに差異がある。平城宮では内裏の南に朝堂院があるが、平安宮では内裏の南西に朝堂院(八省院)がつくられている。

[工藤圭章]

里内裏

960年(天徳4)平安内裏は焼失、再建されるまで冷泉院(れいぜんいん)を仮皇居とした。976年(貞元1)にも内裏が罹災(りさい)し、このときは藤原兼通(かねみち)の堀河殿を仮皇居としている。平安時代、内裏の火災はたびたびあり、そのつど京内の臣下の邸宅を仮皇居としている。これを里内裏(さとだいり)という。平安時代末期からは内裏があっても里内裏を皇居とすることが一般化し、とくに1227年(安貞1)大内裏が焼失してから内裏は再建されず、里内裏を転々とした。南北朝になって、光厳(こうごん)天皇が1331年(元弘1)に土御門(つちみかど)東洞院殿で即位してから、この殿が内裏に定められた。これが土御門内裏であり、今日の京都御所の前身になる。土御門内裏もたびたび焼失しており、いまの京都御所は1855年(安政2)に再建されている。

[工藤圭章]

明治宮殿

1868年(慶応4)江戸が東京と改称され、翌年皇居が旧江戸城に定められて宮城と命名され、その西の丸が天皇の居所となった。1873年(明治6)西の丸が炎上、一時、赤坂離宮が仮皇居となったが、1879年西の丸で新宮殿の造営が決定し、いわゆる明治宮殿が1888年に落成した。この明治宮殿は、御車寄・広間から正殿に至る一画と、謁見の場としての鳳凰(ほうおう)の間の一画、そして東西の溜(たま)りと饗宴(きょうえん)のための豊明殿(ほうめいでん)や千種(ちぐさ)の間からなる一画があり、さらにこれに天皇の御住居の奥宮殿が接続していた。この明治宮殿は1945年(昭和20)5月の第二次世界大戦中の空襲により焼失した。

[工藤圭章]

新宮殿

今日の新宮殿は1959年(昭和34)に皇居造営審議会の答申に基づいて、翌1960年から造営が始まる。明治宮殿のように天皇の御住居を新宮殿に接続せず、別々につくることになり、御住居は吹上御苑(ふきあげぎょえん)内に分離して建設された。御住居は鉄筋コンクリート造、2階建てで、延べ面積1358平方メートル、1961年に完成した。儀式や行事のための新宮殿は1964年に着工、1968年に竣工(しゅんこう)した。建物は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階、地上2階建てで、延べ面積は2万2949平方メートルに及ぶ。新宮殿は天皇が政務をとる表御座所、儀式を行う松の間・竹の間・梅の間からなる正殿、饗宴場の豊明殿、夜会やレセプションのための春秋の間や休所(やすみどころ)の松風・石橋の間などのある長和殿の各棟からなる。新宮殿は各棟とも深い軒をもつ入母屋造(いりもやづくり)の緩い勾配(こうばい)の屋根など、伝統様式の和風を考慮した外観になり、各棟は回廊で連結され、広い中庭が設けられている。内部も国産の木材を豊富に用い、明障子(あかりしょうじ)や襖(ふすま)を多用して和風が強調されている。

 皇居内には新宮殿、御住居のほかに、宮内庁庁舎が建つ。旧西の丸の北東の旧本丸には江戸城天守跡の石垣が残り、その東の旧二の丸、旧三の丸とともに庭園として整備され、皇居東御苑と名づけられている。天守跡の東には楽部があり桃華楽堂が建つ。また新宮殿の西、道灌濠(どうかんぼり)を隔てて賢所(かしこどころ)があり、その西には生物学御研究所がある。皇居内には江戸城の遺構として高麗(こうらい)門や渡櫓(わたりやぐら)、伏見(ふしみ)櫓や富士見櫓も残り、また、二重橋濠(ぼり)、桜田濠、半蔵濠、段濠、乾(いぬい)濠、平河濠、大手濠、桔梗(ききょう)濠、蛤(はまぐり)濠が外周を巡り、内部には天神濠、白鳥濠、蓮池(はすいけ)濠、道灌濠もあって、旧江戸城のおもかげをとどめている。これらの一部は江戸城跡として特別史跡に指定されている。

[工藤圭章]

『緑川洋一撮影『皇居――自然と造形』(1981・集英社)』『入江相政著『皇居』(保育社・カラーブックス)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「皇居」の意味・わかりやすい解説

皇居
こうきょ

天皇の居所。現在「みやこ」とは首都,首府の意味で用いられるが,元来は宮處 (みやこ) の意味で天皇の居所のあるところをいった。古代では,天皇1代ごとに皇居が移転したが,やがて,隋,唐の文化が入ってくるようになると都 (みやこ) も大陸の都城の制を取入れ,本格的な都として経営されるようになってきた。これが藤原京であり,持統8 (694) 年から持統,文武,元明の3天皇 16年間,大和三山の間 (現在の橿原市) に中国風の大規模な都が経営された。しかし,元明天皇の和銅3 (710) 年には平城京に遷都し,以後恭仁 (くに) 京紫香楽 (しがらき) 宮長岡京への遷都が一時計画されたが,8代 84年の間「あをによし奈良の都」として栄えた。桓武天皇は延暦 13 (794) 年平安京に遷都し,以後明治維新まで京都が都であった。その間安徳天皇のとき平清盛により摂津福原へ,また南北朝時代に後醍醐天皇の南朝が吉野に移ったこともあった。明治天皇は明治1 (1868) 年江戸を東京と改め,ここに皇居を移して現在にいたった。

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百科事典マイペディア 「皇居」の意味・わかりやすい解説

皇居【こうきょ】

天皇の平常の住居。明治維新まで約1000年間は京都にあったが,1868年旧江戸城を東幸中の皇居と定めた。1869年東京遷都と同時に皇城(こうじょう)と称し,1888年宮城(きゅうじょう),1948年皇居と改称。1945年宮殿の大半は空襲で焼失,仮宮殿が造られたが,1968年新宮殿が完成。→内裏京都御所
→関連項目宮中三殿皇室財産千代田[区]東京[都]二重橋

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普及版 字通 「皇居」の読み・字形・画数・意味

【皇居】こうきよ

御所。

字通「皇」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の皇居の言及

【江戸城】より

…江戸城内はたびたびの火災で頻繁に修築工事が行われたが,江戸時代を通じてほぼ初期の規模構造が維持されて幕末に及んでいる。1868年(明治1)4月江戸城は新政府軍に明け渡され(江戸開城),同年9月明治天皇は東幸して江戸城に入城,10月東京城と改称されて以後皇居となった。【村井 益男】。…

【西丸】より

…江戸城西丸の地は,戦国時代までは城外であったが,徳川家康が入城してのち1592年(文禄1)に城を拡張して一郭とした。西丸建設にともない城下東側の海面(日比谷入江)が埋め立てられ,のちの西丸下(現,皇居前広場)ができた。西丸は初め〈御隠居城〉〈新城〉などと呼ばれた。…

【吹上御苑】より

…現皇居の内苑。旧江戸城の北西部にあり,名称の由来は同地が池沼に臨み,風が下より吹き上げる地勢によるという。…

※「皇居」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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