日本大百科全書(ニッポニカ) 「仏教の公伝」の意味・わかりやすい解説
仏教の公伝
ぶっきょうのこうでん
志癸嶋天皇〔欽明〕御世戊午〔538〕年十月十二日、百斉〔百済〕国主明王始奉レ度二仏像経教僧等一。勅授二蘇我稲目宿禰大臣一令二興隆一也。
(『上宮聖徳法王帝説』)
大倭国仏法、創レ自二斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇〔欽明〕御世一。蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次二戊午〔538〕一十二月度来。百済国聖明王時太子像併灌仏之器一具、及説二仏起一書巻一篋度而言、当聞、仏法既是世間無上之法。其国応二修行一也。(下略)
(『元興寺伽藍縁起併流記資財帳』)
(欽明天皇十三年)冬十月。百済聖明王、〈更名聖王〉遣二西部姫氏達率怒利斯致契等一、獻二釈迦仏 金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻一。別表讃二流通礼拝功徳一云、是法於二諸法中一、最為二殊勝一。難レ解難レ入。周公・孔子尚不レ能レ知。此法能生二無量無辺福徳果報一、乃至成二辨無上菩提一、譬如下人懐二随意宝一、逐レ所二須用一、盡依情。此妙法宝亦復然。祈願依レ情無レ所レ乏。且夫遠自二天竺一、爰洎二三韓一、依レ教奉持、無レ不二尊敬一。由レ是百済王臣明謹遣二陪臣怒利斯致契一、奉レ伝二帝国一、流二通畿内一、果二仏所レ記我法東流一。是日、天皇聞已歓喜踊躍、詔二使者一云、朕従レ昔来未二曽得聞二如レ是微妙之法一。然朕不二自決一。(下略)
(『日本書紀』巻19)
仏教公伝の年は、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起併流記資財帳』では538年、『日本書紀』では552年としているが、現在では前者の538年説が有力である。書紀の記述については、継体・安閑・宣化・欽明朝の4朝の紀年に錯乱があること、またこの条が仏教の起源を説明するための起原説話にすぎないとする説がある。