日本歴史地名大系 「伊沢村」の解説 伊沢村いさわむら 徳島県:阿波郡阿波町伊沢村[現在地名]阿波町 伊沢田(いさわだ)・伊沢市(いさわいち)・本町(ほんまち)・岡地(おかじ)・西原(にしばら)・中原(なかはら)・北原(きたはら)・南柴生(みなみしばう)・東柴生(ひがししばう)・梅(うめ)ノ木原(きはら)・亀底(かめぞこ)・真重(ましげ)・引地(ひきじ)・八丁原(はつちようばら)・大久保(おおくぼ)など西野川(にしのかわ)村・久千田(くちた)村の西に位置する広域の村で、南部は吉野川左岸の一帯も含む。讃岐国境に近い引地などから南流する伊沢谷(いさわだに)川、久千田村境を南流する大久保谷(おおくぼだに)川はいずれも吉野川に注ぐ。村内を撫養(むや)街道が通り、一里松がある。かつて伊那佐和(いなさわ)庄と称していたが、治承三年(一一七九)に伊沢庄に改めたという所伝がある(「伊沢氏系譜」阿波郡誌)。中世には伊沢氏の拠点として伊沢城が築かれていた。慶長二年(一五九七)の分限帳に「伊沢村」「井沢」とあり、高一二五石余が岡田甚左衛門、高八五石余が八田弥助、高五六石余が益田八右衛門、高四四石余が森田助兵衛、高三四石余が益田杢右衛門、高三四石余が岡崎九郎三郎、高二五石余が坪井十兵衛、高一七石余が森吉内の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「いさハ」とみえ、正保国絵図では「井沢村」として高五一一石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方一〇八石余・畠方四〇二石余、芝山・小生山の注記がある。天和二年(一六八二)の富田藩領地方帳では村内の高二〇石余が同藩の家臣分で、物成一一石余(請夏秋納升五ツ五分九厘余)、内麦三石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by