若宮八幡宮
わかみやはちまんぐう
[現在地名]多久市多久町字宮城
東の原、梶峰山北麓にある。旧郷社。社殿は県の重要文化財。祭神は仁徳天皇・応神天皇・神功皇后・姫大神。
源頼朝から肥前の多久を拝領し、建久四年(一一九三)下向したという多久太郎宗直の勧請と伝えられる。建築時は建久四年(九州治乱記・肥前国誌)と正治年間(丹邱邑誌)の二説がある。
由緒について「肥陽軍記」に「多久氏の先祖ハ将軍源頼家公の御時にハ、多久太郎宗直ト号す、在鎌倉して有けるに、三浦の朝夷名三郎と御前にて相撲を取せらるゝ事有、其前の日、宗直八幡宮に参り、此度の相撲に勝しめ給へ、祈る所叶はゝ、我本国舘の辺に八幡を勧請し奉り、永く尊崇の頭をかたふけんと、誠精をこらしける御利生にや、勝利を得たりしかは、帰国して則八幡宮を建立す、是多久梶峰八幡也」とあって、梶峰八幡の別称がみえる。
天文三年(一五三四)梶峰城に入った少弐資元が再興。元亀元年(一五七〇)城主となった竜造寺長信は同三年宝殿を再興。その子安順は朝鮮の役から帰陣後、願成就のため、免田一町三段二五歩を寄進。
若宮八幡宮
わかみやはちまんぐう
[現在地名]若宮町水原
水原の南部にあり、旧郷社。祭神は応神天皇・仁徳天皇・神功皇后・武内宿禰。中世の若宮庄の鎮守社であった。社伝によれば養老二年(七一八)の創建という。ただし若宮庄は文治年間(一一八五―九〇)に京都六条八幡宮領(六条左女牛八幡宮、当時は現京都市下京区。現在は京都市東山区若宮八幡宮社)として成立しており、さほど下らない時期に六条八幡宮の分霊が当地に勧請されたと考えられる。弘安八年(一二八五)三月日の水原若宮社村々相撲次第(町村書上帳/鎌倉遺文二〇)によると、当社の相撲節会に際し、近隣諸所を一番から一〇番に編成して出仕役が定められている。
若宮八幡宮
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[現在地名]松任市若宮一丁目
中村用水東川の東方平地に鎮座し、境内は鬱蒼たる樹林である。祭神応神天皇。旧県社。松任金剣宮とともに旧松任町の産土神。社蔵の若宮以来由緒記によると、康平六年(一〇六三)「松任由井加新保」に白八手矢が三筋たち、ここに源頼義が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して創祀、同七年鎌倉から岡本右京・西尾左金太夫・国府守人社家三人および社僧長福院らを下向させて祭祀をつかさどらせたという。以来源頼朝・義経、足利尊氏・義稙らの社領寄進や奉納があり、江戸時代には加賀藩主前田氏の参詣がしばしばあったという。享保三年(一七一八)金剣宮とともに拝殿が建立され、同一七年の祭礼から神輿の先に獅子舞が出るようになった(小倉日記)。
若宮八幡宮
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[現在地名]岡部町岡部
朝比奈川と岡部川の合流点付近、西の山山麓にある。祭神は大鷦鷯命・品陀和気命・息長帯比売命。境内社に上下神社・熊野神社・琴平神社がある。旧郷社。延喜八年(九〇八)堤兼輔が山城石清水八幡宮を勧請して造営したと伝える。堤兼輔の子孫とされる岡部氏の一族によって社殿の修造が度々行われており、天正八年(一五八〇)の岡部丹波守修造の棟札や和泉岸和田藩主岡部長慎が奉納した絵馬などが残る。また岡部・内谷・村良、借宿・横内・高田・鬼島(現藤枝市)の七村の鎮守としても崇敬された。
若宮八幡宮
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[現在地名]吉井町若宮
字高林に鎮座する旧県社。法人名は八幡神社で、祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・比
神。「寛延記」によれば仁平二年(一一五二)源為朝が鎌倉鶴岡八幡宮の分神を勧請したと伝える。為朝は高林にある日岡・月岡両古墳を左右の鶴翼になぞらえ、その中央に神殿を構え、当社に神領三五町を寄進したという。寿永―元暦(一一八二―八五)の頃、兵火により焼失。
若宮八幡宮
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[現在地名]高知市長浜
長浜川の右岸、小高い独立丘陵の東南麓、字若宮に鎮座する。祭神は応神天皇・神功皇后・市杵島姫神・田心姫神・湍津姫神。旧県社。
「詒謀記事」(県立図書館蔵)によると、源頼朝が京都六条左女牛の源為義の遺跡に勧請した若宮八幡宮をのち当地に勧請したものという。「吾妻鏡」文治元年(一一八五)一二月三〇日条によると「土佐国吾河郡」の地頭職が六条若宮八幡に寄付されているが、この社領鎮守社として勧請されたものと考えられる。
若宮八幡宮
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[現在地名]常陸太田市宮本町
市の中心街の西北隅に位置し、太田城跡の一角を占める要所にある。境内は大欅と杉の木立に囲まれる。祭神は大鷦鷯命・倉稲魂命。旧郷社。
社伝によれば応永元年(一三九四)佐竹義仁が鎌倉八幡宮の神影を描写し、それを持参して太田城中の守護神とし、太田稲荷と二殿を鎮斎したという。鎌倉からは八幡宮の巫女鶴子が供奉して太田に来住、数代にわたって奉仕したと伝える。寛文三年(一六六三)の鎮守開基帳(彰考館蔵)には「除無証文 一、高六斗六升七合 稲荷明神女子 鶴子」「除無証文 一、高五石 稲荷明神免 同人仕配分」と記され、「常陸国北郡里程間数之記」には「太田御殿の内に若宮八幡宮稲荷と二社あり佐竹
在国居城の時松岡稲荷あり是を城内に曳と云、宮迹今馬場村畑中の塚あるを太田稲荷と云伝ふ。
若宮八幡宮
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[現在地名]久御山町佐古
佐古のほぼ中央にある。祭神は応神天皇・神功皇后・比
大神。旧村社。草創は天徳三年(九五九)とする伝承(佐山村郷土誌)があるが不詳。永正六年(一五〇九)の年紀をもつ棟札写があり、創建は同年以前にさかのぼると考えられる。また現社殿(三間社流造・檜皮葺)は同時代の様式を示し、当地方では珍しい室町時代の神社として注目される。室町時代後期から江戸時代中期にわたる六枚の棟札(天文一九年・寛永一三年・寛文七年・元禄三年・享保三年・延享五年)も現存する。また当地にかつてあった法蓮(宝蓮)寺の伽藍配置図(法蓮寺文書)には八幡社が描かれ「城州久世郡佐古村法蓮寺鎮守八幡社同寺境内」と記され、当社は法蓮寺(享保一三年の「宝蓮寺堂再建記木札」に大同元年創建とある)の境内にあって鎮守社であったことがうかがえる。
若宮八幡宮
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[現在地名]岡崎市朝日町 森畔
投町の南端、現朝日町の菅生川河岸にある。天正八年(一五八〇)の勧請で、祭神は仁徳天皇・岡崎三郎信康。岡崎十二社の一。旧村社。もとは菅生八幡宮と号し、俗に若宮八幡と称した。徳川家康の長子信康が武田勝頼へ内通の疑いによって、母築山殿ともども生害の後、尾張の織田信長のもとに首実検に遣わされた。やがて首は岡崎へ返されたので、清水万五郎(あるいは万三郎)が家康の命によって、根石原の当地へ埋め、印の松を植えたという。その後石川数正をして信康は若宮八幡宮、築山殿は神明宮として祀ったという(若宮八幡宮由緒記、三河聡視録)。
若宮八幡宮
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[現在地名]久慈市夏井町 鳥谷
鼻館に鎮座する旧村社で、祭神は大鷦鷯命。幕末まで閉伊口毘沙門堂あるいは久慈毘沙門といわれ閉伊口村にあった。大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の勧請と伝える。明治初年の廃仏毀釈により若宮八幡宮と改め、第二次世界大戦後、鼻館に遷座した。毘沙門堂には久慈地方では最古のものといわれる平安時代の鉈彫仏像二体が安置されていたが、文化年間(一八〇四―一八)に門前村長泉寺に移された。江戸時代初期には盛岡藩主の帰依を受けており、承応二年(一六五三)には三代藩主南部重直の病気平癒祈願八〇寺社のなかに「久慈毘沙門」とみえ、祈願を行い米二〇俵を下付され、さらに熊野・羽黒・湯殿の参詣に毘沙門別当が派遣され米二〇俵を支給された(雑書)。
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[現在地名]久留米市草野町吉木
旧県社。祭神は仁徳天皇・住吉大神・高良大神。社伝によると、草野永平が文治三年(一一八七)に摂津国から若宮八幡社を勧請したのに始まるという。文明六年(一四七四)三月に草野冬永らが再興、元亀二年(一五七一)九月に草野鑑貞らが「若宮三所一社」を造立、天正五年(一五七七)には拝殿を再興した(「棟札銘写」社蔵文書)。
若宮八幡宮
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[現在地名]江南市力長
祭神息長帯姫尊・誉田別尊・大鷦鷯尊。旧村社。境内一千五二二坪。天保村絵図に村の東、柳街道沿いに「若宮八幡宮」とみえる。「尾張名所図会」によれば、もと清須(現西春日井郡清洲町)にあり、慶長一〇年(一六〇五)から同一八年の清須越しの時、この地に移されたという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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若宮八幡宮
高知県高知市にある神社。源頼朝が京都六條に創建した若宮八幡宮を勧請したものと伝わる。祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)。土佐国の戦国大名、長宗我部元親の初陣戦勝祈願所。早乙女(田植えをする女性)が男性の顔に泥を塗り豊作を祈願をする祭、神田祭(別称:どろんこ祭り)が有名。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
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