伊藤述史(読み)イトウ ノブフミ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「伊藤述史」の解説

伊藤 述史
イトウ ノブフミ


肩書
貴院議員(勅選),内閣情報局総裁

別名
号=無川

生年月日
明治18年8月19日

出生地
愛媛県

学歴
東京高商〔明治42年〕卒

学位
法学博士

経歴
明治42年外務省に入り、昭和2年国際連盟帝国事務局次長。満州事変勃発の6年、日本政府代表代理として活躍。8年2月の国連総会で、日本軍の満州撤退勧告案が42対1で可決され、松岡洋右首席代表らとともに退場帰国。連盟脱退の陰の立役者となる。ポーランド公使の後、14年有田外相に求められ日独伊3国同盟推進派の大島浩駐独、白鳥敏夫駐伊両大使の説得工作に当たる。15年第2次近衛文麿内閣の初代内閣情報局総裁。20年勅選貴院議員。21〜26年公職追放。

没年月日
昭和35年4月3日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「伊藤述史」の解説

伊藤 述史
イトウ ノブフミ

昭和期の外交官 貴院議員(勅選);内閣情報局総裁。



生年
明治18(1885)年8月19日

没年
昭和35(1960)年4月3日

出生地
愛媛県

別名
号=無川

学歴〔年〕
東京高商〔明治42年〕卒

学位〔年〕
法学博士

経歴
明治42年外務省に入り、昭和2年国際連盟帝国事務局次長。満州事変勃発の6年、日本政府代表代理として活躍。8年2月の国連総会で、日本軍の満州撤退勧告案が42対1で可決され、松岡洋右首席代表らとともに退場、帰国。連盟脱退の陰の立役者となる。ポーランド公使の後、14年有田外相に求められ日独伊3国同盟推進派の大島浩駐独、白鳥敏夫駐伊両大使の説得工作に当たる。15年第2次近衛文麿内閣の初代内閣情報局総裁。20年勅選貴院議員。21〜26年公職追放。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「伊藤述史」の意味・わかりやすい解説

伊藤述史 (いとうのぶふみ)
生没年:1885-1960(明治18-昭和35)

外交官。愛媛県出身。東京高商を卒業後,1909年外務省に入り,イタリア,スイス,オランダ在勤ののち27年国際連盟日本事務局次長,33年ポーランド公使となる。40年内閣情報部長,次いで情報局初代総裁に就任し,太平洋戦争開戦直前までマス・メディア統制に力を発揮した。戦後貴族院議員となるが,のち公職追放。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊藤述史」の解説

伊藤述史 いとう-のぶみ

1885-1960 大正-昭和時代前期の外交官。
明治18年8月19日生まれ。42年外務省にはいる。昭和2年から国際連盟日本事務局につとめる。日本が脱退した8年の国際連盟総会では松岡外相を補佐した。15年初代の内閣情報局総裁。最終期の貴族院議員。昭和35年4月3日死去。74歳。愛媛県出身。東京高商(現一橋大)卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「伊藤述史」の解説

伊藤 述史 (いとう のぶふみ)

生年月日:1885年8月19日
昭和時代の外交官。貴族院議員;アジア連絡協会理事長
1960年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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