朝日日本歴史人物事典 「伊賀兼光」の解説
伊賀兼光
鎌倉末・南北朝期の武士。光政の子。山城兼光ともいう。六波羅評定衆・引付頭人。正中1(1324)年3月7日,奈良の般若寺に,文観と共に,後醍醐天皇の討幕運動の成功を祈念して,文殊菩薩騎獅像を寄進した。第1次討幕運動(正中の変)が失敗したのちも,六波羅探題の役人を務めつつ,ひそかに幕府側の情報を天皇側に流し続けた。この功績により,第2次討幕運動が紆余曲折の末に成功したとき,天皇は兼光を雑訴決断所三番局の職員に任命した。兼光は,さらに,恩賞方,記録所の寄人や窪所(後醍醐天皇の親衛隊)の所員にも任命されている。土佐,若狭,伊勢の国守をも兼任した。建武3/延元1(1336)年6月に,若狭守を追われたのちの消息は不詳である。<参考文献>網野善彦『異形の王権』,佐藤和彦『太平記を読む』
(佐藤和彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報