伊賀利庄
いかりのしよう
現伊加利に比定される近衛家領庄園。長和四、五年(一〇一五、一六)頃の記載がある造宇佐宮課役注文案(到津文書/宇佐神宮史 史料編二)によると、この頃藤原道長の御願として宇佐宮近辺の恵良にあった薬師堂(現大分県宇佐市の大善寺境内か)に「伊賀利庄・伊□」が寄進されている。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家領目録(近衛家文書/鎌倉遺文一〇)に「伊方・伊賀利」とあり、伊方庄(現方城町)と併記される。
伊賀利庄
いかりのしよう
津井川上流、現西淡町伊加利一帯に比定される皇室領庄園。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文によれば、庄分として「津井伊賀利庄」とみえ、後鳥羽上皇が建立した最勝四天王院(現京都市東山区)領で、田一九町・畠と浦二ヵ所があり、地頭は承久の乱以前は国御家人の刑部丞光盛、乱後の新補地頭は平二郎の子であった。「勘仲記」正応二年(一二八九)九月・一〇月巻紙背の某請文に、「伊賀利新庄」とみえ、日吉社八講供料を賦課されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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