三原郡(読み)みはらぐん

日本歴史地名大系 「三原郡」の解説

三原郡
みはらぐん

面積:二二九・〇六平方キロ
みどり町・西淡せいだん町・三原みはら町・南淡なんだん

淡路島の南西部を占め、南は紀伊水道、南西は鳴門海峡、北西は瀬戸内海播磨灘に面し、紀淡海峡の南西沖合に島がある。東は洲本市、北は津名つな五色ごしき町に接する。南東部には北東から南西へ諭鶴羽ゆづるは山地が延び、西部には西淡丘陵がある。諭鶴羽山地に源を発して北西流する大日だいにち川・三原川などが形成した三原平野が中央部を占める。中央部北寄りを神戸淡路鳴門自動車道が北東から南西へ通り、鳴門海峡に架かる大鳴門橋を経て徳島県鳴門市へと至る。その南方を国道二八号が北東から南西へ緑町・三原町南淡町を経て走る。

〔古代〕

三原の郡名に「和名抄」東急本国郡部では「美波良」の訓を付す。淡路国の二郡のうちの一つ。地名としての三原の異記には「御原」(「日本書紀」応神天皇二年・同二二年条)、「三腹」(「古事記」応神天皇段)がみえる。「日本書紀」応神天皇二二年条にみえる「淡路の御原の海人八十人」、同書仁徳天皇即位前紀にみえる「淡路の海人八十」は、海上交通や御饌都国の海産物貢上の担い手として、大和朝廷と深く結び付いていた。ただし「淡路の海人八十」は「日本書紀」履中天皇即位前紀にみえる「淡路野嶋の海人」の可能性もある。天平宝字五年(七六一)一〇月の年紀をもつ「三原郡阿麻郷」の調塩の木簡(平城宮跡出土木簡)は海人の製塩の実在を示している。また「日本書紀」によれば仲哀天皇二年二月には「淡路屯倉」が設置されたとある。同屯倉の所在地は現三原町榎列大榎列の屯倉えなみおえなみのみやけ神社辺りに想定されている。さらに反正天皇は淡路瑞井みずい宮で誕生したとされ(「日本書紀」反正天皇即位前紀では「淡路宮」)、現西淡町松帆櫟田の産宮まつほいちだのうぶのみや神社がその地とされている(「常磐草」など)。紀伊水道に浮ぶ沼島を、「古事記」や「日本書紀」の国生み神話の「淤能碁呂おのごろ島」(「日本書紀」では「馭慮嶋」と記す)に比定する説もある。

「和名抄」記載の郷は倭文しとり幡多はたやぎ・榎列・神稲くましろ阿万あま賀集かしおの七郷で、養老令の戸令の規定では下郡にあたる。郡域の中心は三原平野にあり、淡路国府国分寺国分尼寺・三原郡衙などが置かれていた。国府の所在地については、現三原町市市いちいち説、同町神代国衙じんだいこくが説、同町八木養宜やぎようぎ説、同町榎列小榎列えなみこえなみ説があるが、「常磐草」にいう市村(現市市)説が通説となっている。同所近くの現三原町市十一いちじゆういつしよには惣社である十一大明神神社の後身十一明神社がある。郡衙所在地については定説をみない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報