日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐用藩」の意味・わかりやすい解説
佐用藩
さよはん
江戸初期、播磨(はりま)国(兵庫県)佐用郡を領有した外様(とざま)藩。2万5000石。平福(ひらふく)藩の別称がある。1615年(元和1)池田輝興(てるおき)が陣屋を佐用郡平福に置き立藩した。これより前、1613年(慶長18)姫路藩主池田輝政(てるまさ)の急死により、旧領播磨一国52万石のうち42万石を長男利隆(としたか)が継ぎ、宍粟(しそう)、佐用、赤穂(あこう)3郡13万石は次男で備前(びぜん)岡山藩主の忠継(ただつぐ)が相続した。15年忠継が若死にすると、輝政の四男輝澄(てるずみ)に宍粟(山崎藩)、五男政綱(まさつな)に赤穂(赤穂藩)が与えられ、六男輝興は佐用郡2万5000石を分知されて当藩を興した。しかし、31年(寛永8)政綱の死で絶家となった赤穂へ輝興が転封となったため当藩は廃藩、支配期間わずか15年であった。なお旧領は輝澄(山崎藩)があわせることとなった。
[小林 茂]