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赤穂藩 あこうはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

赤穂藩
あこうはん

江戸時代,播磨国 (兵庫県) 赤穂地方を領有した藩。関ヶ原の戦い後池田輝政領の一部であったが,元和1 (1615) 年5男政綱が佐用郡内2万石を分知,その弟輝興が赤穂郡内3万 7000石に移り赤穂城に居したが,正保2 (45) 年絶家。代って浅野長直が常陸 (茨城県) 笠間より入封,5万 3500石を領したが孫長矩 (ながのり) が元禄 14 (1701) 年江戸城中の刃傷事件 (→赤穂事件 ) で除封となり,翌年永井直敬が入封,3万 3000石。宝永3 (06) 年その転封後,森長直が備中 (岡山県) 西江原から入封,2万石を領してのち廃藩置県まで森氏が在封した。森氏は外様,江戸城柳間詰。

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百科事典マイペディアの解説

赤穂藩【あこうはん】

播磨(はりま)国赤穂に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は池田氏・浅野氏・永井氏・森氏と変遷。領知高は初め3万5000石〜5万3000石,森氏の代からは2万石。
→関連項目赤穂塩田入浜式塩田播磨国

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

あこうはん【赤穂藩】

江戸時代播磨(はりま)国赤穂郡加里屋(かりや)(現、兵庫県赤穂市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。浄瑠璃(じょうるり)歌舞伎(かぶき)仮名手本忠臣蔵で有名。藩校は博文館(はくぶんかん)。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いの戦功により池田輝政(てるまさ)に播磨一国(姫路藩)が与えられたあと、1615年(元和(げんな)1)、輝政の5男政綱(まさつな)が分知により3万5000石で入封(にゅうほう)して立藩。しかし、政綱死後に入封した弟輝興(てるおき)の乱心事件により1645年(正保(しょうほう)2)に改易(かいえき)され、代わって浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)国笠間藩から5万3000石余で入封。浅野氏は13年にわたる赤穂城築城などで財政悪化を招いたが、塩田開発により藩財政を支えた。1701年(元禄14)、3代藩主の浅野長矩(ながのり)江戸城中で吉良義央(きらよしなか)(上野介(こうずけのすけ))に斬りつける刃傷(にんじょう)事件が起こり改易。翌年、赤穂浪士の吉良邸討入りが実行された。断絶した浅野氏に代わり、永井直敬(なおひろ)が下野(しもつけ)国烏山(からすやま)藩から入封。次いで、1606年(宝永3)には備中(びっちゅう)国西江原(にしえばら)藩から森長直(ながなお)が2万石で入封、その後は明治維新まで森氏13代が続いた。1871年(明治4)の廃藩置県で赤穂県となり、その後、姫路県、飾磨(しかま)県を経て、1876年(明治9)兵庫県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

あこうはん【赤穂藩】

播磨国赤穂郡加里屋を城地とした中小藩。1586年(天正14)から1年間生駒親正6万石がいたが,継続して藩地(外様)となるのは1615年(元和1)池田政綱入封以後である。政綱は31年(寛永8)死に,嗣子なきため断絶。そのあと池田輝興が入封したが,彼も45年(正保2)狂気して改易となる。代わって浅野長直が常陸国笠間から入封,藩政は確立期を迎え,新城と城下町は完成した。海辺一帯に入浜塩田が干拓され,塩田で海水を濃縮する入浜塩田法が開発されるが,この新技術はやがて瀬戸内の十州塩田に広がる(赤穂塩田)。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

赤穂藩
あこうはん

播磨(はりま)国(兵庫県)赤穂地方に置かれた藩。豊臣(とよとみ)治下の播磨で南西隅の赤穂6万石が生駒親正(いこまちかまさ)に知行され、これは翌年宇喜多秀家(うきたひでいえ)領に入ったという。1600年(慶長5)池田輝政(てるまさ)が播磨一国を領知し、一時末弟長政(ながまさ)を赤穂2万2000石に配した。1603年次子藤松丸(ふじまつまる)(忠継(ただつぐ))を備前28万石に封じ、1613年輝政の没後忠継は岡山に移り、同時に生母富子(徳川家康女(むすめ))の化粧料として西播赤穂、宍粟(しそう)、佐用(さよ)3郡の10万石を加増された。当時は赤穂郡代・浦手奉行(ぶぎょう)垂水勝重(たるみかつしげ)が初め尾崎、のち加里屋(かりや)におり、ついで下津井(しもつい)城代池田由之(よしゆき)が赤穂を兼ねた。1615年(元和1)忠継が没したのちは3弟に分知されて3藩が成立。赤穂藩3万5000石は輝政の五男政綱(まさつな)の領知となる。政綱は1631年(寛永8)に没し、佐用平福(ひらふく)の輝興(てるおき)が入封した。1645年(正保2)輝興が乱心で改易され、あとに広島浅野氏の支流浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)笠間(かさま)より入って5万3000余石を領知し、城も増築した。1701年(元禄14)孫の長矩(ながのり)のとき殿中刃傷(にんじょう)事件で没領となる。翌1702年永井直敬(ただたか)が下野(しもつけ)烏山(からすやま)より入り3万3000石、1706年(宝永3)備中(びっちゅう)西江原城主森長直(ながなお)がかわって2万石を領知、以後明治の廃藩置県に及んだ。領知の村数は、浅野家で赤穂郡126村と加東(かとう)、加西(かさい)三郡で62村だったのに対し、森家では赤穂郡43村になり、郡内に幕領や尼崎(あまがさき)、安志(あんじ)などの諸藩が入り組むようになった。地域の塩業は近世初期に始まり、とくに浅野家以来、藩財政のために運営され、関連して藩札が発行された。[阿部真琴]

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世界大百科事典内の赤穂藩の言及

【播磨国】より

… 木綿,塩などの商品生産が展開するにつれて,それを対象とする諸藩の統制,藩専売制が始まる。早く浅野氏赤穂藩は1680年(延宝8)藩札を発行し,領民にはその専一通用を強制して,塩販売によって領外から入る正貨はすべて藩庫に吸収した。つづく森氏赤穂藩もこの方法を踏襲したが,1809年(文化6)にはいよいよ塩を蔵物(くらもの)として大坂蔵屋敷に送る大坂専売を開始した。…

【藩政改革】より

…藩政改革の視点からこの時代を特徴づけるものは,各藩ともに財政的に行き詰まり,産物会所(国産会所)を設け,藩専売制によってこの困難な事態を打開しようとしていることである。例えば,播磨・但馬両国内に展開している大小諸藩をみても,こぞってこの時期に国産会所の設立に走っているが,ただ,産物会所を設け,専売制の実施に踏み切っても赤穂藩の塩専売制度のように,逆に1821年(文政4)には産物会所の解散に追い込まれていく場合もみられた。 そんななかで,姫路藩の木綿専売は際だった成果として喧伝されている。…

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