赤穂藩
あこうはん
播磨(はりま)国(兵庫県)赤穂地方に置かれた藩。豊臣(とよとみ)治下の播磨で南西隅の赤穂6万石が生駒親正(いこまちかまさ)に知行され、これは翌年宇喜多秀家(うきたひでいえ)領に入ったという。1600年(慶長5)池田輝政(てるまさ)が播磨一国を領知し、一時末弟長政(ながまさ)を赤穂2万2000石に配した。1603年次子藤松丸(ふじまつまる)(忠継(ただつぐ))を備前28万石に封じ、1613年輝政の没後忠継は岡山に移り、同時に生母富子(徳川家康女(むすめ))の化粧料として西播赤穂、宍粟(しそう)、佐用(さよ)3郡の10万石を加増された。当時は赤穂郡代・浦手奉行(ぶぎょう)垂水勝重(たるみかつしげ)が初め尾崎、のち加里屋(かりや)におり、ついで下津井(しもつい)城代池田由之(よしゆき)が赤穂を兼ねた。1615年(元和1)忠継が没したのちは3弟に分知されて3藩が成立。赤穂藩3万5000石は輝政の五男政綱(まさつな)の領知となる。政綱は1631年(寛永8)に没し、佐用平福(ひらふく)の輝興(てるおき)が入封した。1645年(正保2)輝興が乱心で改易され、あとに広島浅野氏の支流浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)笠間(かさま)より入って5万3000余石を領知し、城も増築した。1701年(元禄14)孫の長矩(ながのり)のとき殿中刃傷(にんじょう)事件で没領となる。翌1702年永井直敬(ただたか)が下野(しもつけ)烏山(からすやま)より入り3万3000石、1706年(宝永3)備中(びっちゅう)西江原城主森長直(ながなお)がかわって2万石を領知、以後明治の廃藩置県に及んだ。領知の村数は、浅野家で赤穂郡126村と加東(かとう)、加西(かさい)三郡で62村だったのに対し、森家では赤穂郡43村になり、郡内に幕領や尼崎(あまがさき)、安志(あんじ)などの諸藩が入り組むようになった。地域の塩業は近世初期に始まり、とくに浅野家以来、藩財政のために運営され、関連して藩札が発行された。
[阿部真琴]
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あこうはん【赤穂藩】
江戸時代、播磨(はりま)国赤穂郡加里屋(かりや)(現、兵庫県赤穂市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)の仮名手本忠臣蔵で有名。藩校は博文館(はくぶんかん)。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いの戦功により池田輝政(てるまさ)に播磨一国(姫路藩)が与えられたあと、1615年(元和(げんな)1)、輝政の5男政綱(まさつな)が分知により3万5000石で入封(にゅうほう)して立藩。しかし、政綱死後に入封した弟輝興(てるおき)の乱心事件により1645年(正保(しょうほう)2)に改易(かいえき)され、代わって浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)国笠間藩から5万3000石余で入封。浅野氏は13年にわたる赤穂城築城などで財政悪化を招いたが、塩田開発により藩財政を支えた。1701年(元禄14)、3代藩主の浅野長矩(ながのり)が江戸城中で吉良義央(きらよしなか)(上野介(こうずけのすけ))に斬りつける刃傷(にんじょう)事件が起こり改易。翌年、赤穂浪士の吉良邸討入りが実行された。断絶した浅野氏に代わり、永井直敬(なおひろ)が下野(しもつけ)国烏山(からすやま)藩から入封。次いで、1606年(宝永3)には備中(びっちゅう)国西江原(にしえばら)藩から森長直(ながなお)が2万石で入封、その後は明治維新まで森氏13代が続いた。1871年(明治4)の廃藩置県で赤穂県となり、その後、姫路県、飾磨(しかま)県を経て、1876年(明治9)兵庫県に編入された。
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赤穂藩 (あこうはん)
播磨国赤穂郡加里屋を城地とした中小藩。1586年(天正14)から1年間生駒親正6万石がいたが,継続して藩地(外様)となるのは1615年(元和1)池田政綱入封以後である。政綱は31年(寛永8)死に,嗣子なきため断絶。そのあと池田輝興が入封したが,彼も45年(正保2)狂気して改易となる。代わって浅野長直が常陸国笠間から入封,藩政は確立期を迎え,新城と城下町は完成した。海辺一帯に入浜塩田が干拓され,塩田で海水を濃縮する入浜塩田法が開発されるが,この新技術はやがて瀬戸内の十州塩田に広がる(赤穂塩田)。藩札の専一流通,塩代銀=正貨の全面的藩庫吸収に成功した。1701年(元禄14)浅野長矩の江戸城中刃傷事件,翌年の赤穂浪士吉良邸討入りは有名である。浅野氏断絶後,02年永井氏(譜代),つづいて06年(宝永3)森氏が入封し,定着するが,浅野5万石から2万石に減少しての定着は城下を縮小に向かわせ,廃藩置県に至った。塩統制は塩業民の抵抗をうけ,藩財政は行き詰まった。
執筆者:八木 哲浩
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赤穂藩【あこうはん】
播磨(はりま)国赤穂に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は池田氏・浅野氏・永井氏・森氏と変遷。領知高は初め3万5000石〜5万3000石,森氏の代からは2万石。浅野氏時代,入浜(いりはま)塩田の干拓,塩の藩営専売などで藩財政を確立したが,1704年江戸城内での刃傷事件で断絶。翌年12月14日浅野旧家中46氏による吉良(きら)邸討ち入りは有名。→赤穂浪士
→関連項目赤穂塩田|入浜式塩田|播磨国
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赤穂藩
あこうはん
江戸時代,播磨国 (兵庫県) 赤穂地方を領有した藩。関ヶ原の戦い後池田輝政領の一部であったが,元和1 (1615) 年5男政綱が佐用郡内2万石を分知,その弟輝興が赤穂郡内3万 7000石に移り赤穂城に居したが,正保2 (45) 年絶家。代って浅野長直が常陸 (茨城県) 笠間より入封,5万 3500石を領したが孫長矩 (ながのり) が元禄 14 (1701) 年江戸城中の刃傷事件 (→赤穂事件 ) で除封となり,翌年永井直敬が入封,3万 3000石。宝永3 (06) 年その転封後,森長直が備中 (岡山県) 西江原から入封,2万石を領してのち廃藩置県まで森氏が在封した。森氏は外様,江戸城柳間詰。
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赤穂藩
播磨国、加里屋(かりや)(現:兵庫県赤穂市)を本拠地とした藩。播磨一国を領有した池田輝政(てるまさ)の死後、5男政綱が3万5000石の分知を受けて立藩。その弟輝興(てるおき)が乱心により改易となり、常陸国から浅野氏が入る。塩田開発を行い、「赤穂の天塩」として現在も有名な製塩業の基礎を築いた。浅野氏3代目の藩主・浅野長矩(ながのり)は、江戸城内で刃傷事件を起こし改易。のちに浄瑠璃や歌舞伎の題材となる浪士の仇討ち事件に繋がった(元禄赤穂事件)。以後の藩主は永井氏、森氏。
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世界大百科事典(旧版)内の赤穂藩の言及
【播磨国】より
… 木綿,塩などの商品生産が展開するにつれて,それを対象とする諸藩の統制,藩専売制が始まる。早く浅野氏[赤穂藩]は1680年(延宝8)藩札を発行し,領民にはその専一通用を強制して,塩販売によって領外から入る正貨はすべて藩庫に吸収した。つづく森氏赤穂藩もこの方法を踏襲したが,1809年(文化6)にはいよいよ塩を蔵物(くらもの)として大坂蔵屋敷に送る大坂専売を開始した。…
【藩政改革】より
…藩政改革の視点からこの時代を特徴づけるものは,各藩ともに財政的に行き詰まり,産物会所([国産会所])を設け,[藩専売制]によってこの困難な事態を打開しようとしていることである。例えば,播磨・但馬両国内に展開している大小諸藩をみても,こぞってこの時期に国産会所の設立に走っているが,ただ,産物会所を設け,専売制の実施に踏み切っても赤穂藩の[塩専売制度]のように,逆に1821年(文政4)には産物会所の解散に追い込まれていく場合もみられた。 そんななかで,姫路藩の木綿専売は際だった成果として喧伝されている。…
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