佐貫広綱(読み)さぬき・ひろつな

朝日日本歴史人物事典 「佐貫広綱」の解説

佐貫広綱

生年生没年不詳
鎌倉前期の武士。藤原秀郷の後裔を称する藤姓足利氏の一族で,広光の子。上野国佐貫荘(館林市)を本領として佐貫四郎大夫と称した。治承4(1180)年5月,足利忠綱に属して以仁王・源頼政追討に従ったが,その後,鎌倉御家人となる。元暦1(1184)年2月の一ノ谷合戦の際は,源範頼配下にあったが,翌月,近江国蒲生保を私領と号して押領したことを感神院(八坂神社)から訴えられている。建久3(1192)年11月,鎌倉永福寺の池石を畠山重忠らと運んで頼朝を感服させるなど剛力の士として有名であった。その後,兵衛尉を経て右衛門尉に任じている。<参考文献>野口実『坂東武士団の成立発展

(野口実)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐貫広綱」の解説

佐貫広綱 さぬきの-ひろつな

?-? 平安後期-鎌倉時代の武将
上野(こうずけ)(群馬県)邑楽郡(おうらぐん)佐貫荘をおさめる。治承(じしょう)4年(1180)平氏方として宇治川で源頼政とたたかう。のち源頼朝の御家人となり,元暦(げんりゃく)元年以降の源平の合戦に参加。北条政子,源実朝にも近侍した。名は成綱とも。通称は四郎大夫。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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