現JR上野駅西方の上野公園一帯をさす広域呼称。上野は
明治初年以降上野を激変させた契機は戊辰戦争であった。この戦争は薩長中心の武力討幕運動から東征(新政府)軍に対する奥羽越列藩同盟軍の抵抗へと拡大し、慶応四年(一八六八)四月上野の山内に立籠った幕府方の彰義隊の反乱(上野戦争)もその一部であった。五月一五日、総勢二千人足らずの同隊員はその六倍に及ぶ新政府軍勢力により一日で撃破され、東叡山三十六坊の寛永寺の大半は焼失した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都台東区(たいとうく)の西半部、上野公園、不忍池(しのばずのいけ)、上野広小路付近の総称。かつて忍ヶ岡(しのぶがおか)とよばれていたが、江戸幕府が開かれたとき、伊賀国(三重県)上野の城主藤堂高虎(とうどうたかとら)の屋敷があり、高虎が自分の所領伊賀上野をしのんで命名したという伝えがある。しかし、室町時代の1559年(永禄2)『小田原衆所領役帳』に「低野に対する草茂りたる丘」として上野の名がみえ、坂本村(現、下谷(したや)ほか)の1591年(天正19)水帳(みずちょう)に上野郷(ごう)ともある。
上野の開発は、江戸幕府が江戸城鎮護のため1625年(寛永2)東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)を建立したときより始まり、山手(やまのて)台地末端を京都の比叡山(ひえいざん)になぞらえ、不忍池を近江(おうみ)の琵琶(びわ)湖に見立てて、天台宗本山延暦寺(えんりゃくじ)に対抗できる関東の天台宗本山とするため、延暦寺をしのぐ特権も与えられた。寛永寺には、芝(しば)の増上寺(ぞうじょうじ)とともに幕府歴代将軍の霊廟(れいびょう)がつくられ、霊廟からは寺領が一望にできた。その寛永寺領は寺域120万平方メートル、現在の上野公園はその約半分であることと考えあわせ、実に広大なものであった。また、その寺領は、最盛期1万1790石に達し、その範囲は、田端(たばた)、赤羽(あかばね)にまで及んでいた。さらに諸大名の寄進が相次ぎ、堂塔、宿坊が次々に建ち、1698年(元禄11)には根本(こんぽん)中堂を含む大伽藍(がらん)となっていた。根本中堂は、元禄(げんろく)の大火で焼失したが、ただちに再建され、1868年(慶応4)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)(上野戦争)で再度焼失するまでその威容を誇った。支配総祠堂(しどう)は32宇(う)、子院36坊、七堂伽藍を連ねた一大霊域であった。元禄年間(1688~1704)この霊域も一般に開放され、大和(やまと)の吉野山から移植したサクラが、上野をサクラの名所として、今日に及んでいる。
現在の上野は、東京の北の玄関口としての役割を担っているが、第二次世界大戦後の東京の都市化は武蔵野(むさしの)台地の西方へと発展が著しいため、かつての副都心としての地位は低下した。しかし、上野公園にある東京国立博物館、上野動物園、国立西洋美術館など各種文化施設を中心とした芸術・文化センター、上野広小路周辺の繁華街とアメヤ横丁を中心としたショッピングセンターとしての性格は強く残っている。また、谷中(やなか)や池之端(いけのはた)付近は第二次世界大戦の戦災も受けず、古い江戸の情緒をいまに残して、下町ファンに愛されている。
上野駅は1883年(明治16)日本鉄道会社の上野―熊谷(くまがや)間の営業開始と同時に開業、現在はJRの東北本線、常磐線(じょうばんせん)、高崎線、京浜東北線、山手(やまのて)線、上野東京ラインや東京地下鉄銀座線・日比谷(ひびや)線、京成電鉄線などが乗り入れるうえ、1985年(昭和60)には東北・上越新幹線(とうほくじょうえつしんかんせん)が、その後、山形・秋田・北陸(長野)・北海道の各新幹線が相次いで通じている。付近には、駅開業とともに日本橋周辺から移った旅館を中心に土産物(みやげもの)店、食堂、映画館、演芸場などが多く独特の雰囲気を醸し出している。
[菊池万雄]
『『上野と浅草 台東区誌』(1951・台東区)』▽『『上野繁昌史』正続(1963、1968・上野観光連盟)』▽『酒井不二雄著『東京路上細見3――上野・御徒町・谷中・入谷・根岸』(1988・平凡社)』▽『新潮社編『江戸東京物語――上野・日光御成道界隈』(1997・新潮社)』
三重県中西部にあった旧市名(上野市)。現在は伊賀(いが)市の中央部から西部を占める一地域。1941年(昭和16)上野町と小田(おだ)、城南(じょうなん)、花之木(はなのき)、長田(ながた)、新居(にい)、三田(みた)の6村が合併して市制施行。1950年(昭和25)府中(ふちゅう)、猪田(いだ)、中瀬(なかぜ)、友生(ともの)の4村、1955年花垣(はながき)、依那古(いなご)、比自岐(ひじき)、神戸(かんべ)の4村、1957年古山(ふるやま)村を編入。2004年(平成16)伊賀町、阿山(あやま)町、青山町、島ヶ原(しまがはら)村、大山田(おおやまだ)村と合併、伊賀市となる。旧上野市は上野盆地の中心都市で、名称の「上野」は中世からの地名、江戸期の城下町名を引き継いだ。市街地と城は盆地内ではやや高燥な平地に展開し、地名の由来ともなっている。JR関西本線と伊賀鉄道伊賀線、近畿日本鉄道大阪線が通じ、名阪国道と国道25号、163号、165号、368号、422号が走る。古くから伊賀国の中心地であったが、1585年(天正13)羽柴(豊臣(とよとみ))秀吉が筒井定次(つついさだつぐ)を封じて上野城を修築させた。1608年(慶長13)徳川家康は東西交通の要(かなめ)の一つであるこの地に、大坂の豊臣勢に対する軍略上から、築城に長じた藤堂高虎(とうどうたかとら)を配して本格的な市街地を形成させた。天守は竣工(しゅんこう)直前に台風のため倒壊し、その後の一国一城令によって津藩藤堂氏は津を本城としたため、再建されることはなかった。上野城跡(国指定史跡)には高さ30メートル、わが国最高といわれる本丸石垣がいまも残り、実戦的な城のおもかげをしのぶことができる。現在の3層の天守がある白鳳(はくほう)城は1935年の建造で忠実な復原ではない。周囲は上野公園となっていて、1999年に歴史民俗資料館が開館している。上野は伊賀忍者でも知られ、高虎以後も忍者は登録、扶持(ふち)制となった。家康の伊賀越えを助けた伊賀者200人はその後幕府に召し抱えられ、隠密(おんみつ)も勤めた。上野丸の内の上野公園(白鳳公園)内の伊賀流忍者博物館には忍者屋敷があり、資料が展示され、忍術の実演が行われる。
明治以降、幹線交通路から外れて産業的にも農村都市として推移し、組紐(くみひも)や和傘、伊賀焼など伝統工芸が知られる程度であったが、1965年以降、大阪と名古屋を最短距離で結ぶ名阪国道の開通で工場の進出が続き、県下では北勢に次ぐ工業化の著しい地域に変容した。繊維、電機の工場が多い。松尾芭蕉(ばしょう)の出身地で、生家、俳聖殿(国指定重要文化財)、蓑虫庵(みのむしあん)、記念館などゆかりのものが多い。また荒木又右衛門(またえもん)の伊賀越仇討(いがごえあだうち)の遺跡鍵屋の辻(かぎやのつじ)がある。国指定史跡に伊賀国分寺跡、国分尼寺跡と推定される長楽山廃寺跡、藩校の旧崇広堂、浄土信仰ゆかりの廃補陀落寺(ふだらくじ)町石、御墓山(おはかやま)古墳があり、城之越(じょうのこし)遺跡は名勝・史跡。高倉神社本殿、絹本著色『藤堂高虎像』(西蓮寺蔵)など国指定重要文化財も多数ある。果号寺のシブナシガヤ、高倉神社のシブナシガヤは国の天然記念物。10月に行われる上野天神祭は近世初期に始まり、鬼行列や9基の山車(だし)(だんじり)で知られ、「上野天神祭のダンジリ行事」として国の重要無形民俗文化財に指定される。また、だんじり会館においてだんじりの常設展示を行っている。
[伊藤達雄]
『『上野市史』(1961・上野市)』▽『福永正三著『秘蔵の国』(1972・地人書房)』
群馬県南西端、多野郡(たのぐん)にある村。2020年(令和2)の国勢調査では人口密度は6.2人(1平方キロメートル当り)と小さく、過疎傾向が続いている。2000年の国勢調査では人口は増加に転じたが、その後再度減少に転じている。1000メートル級の山に囲まれ、神流川(かんながわ)に沿う十石峠(じっこくとうげ)街道(現、国道299号)が通じる。JR高崎線新町駅から乙母(おとも)、乙父(おっち)などの珍しい地名の集落を経て、上野村ふれあい館までバスが通じる。傾斜地で野菜などを栽培。林業が盛んで、シイタケやナメコ栽培のほか、木工品の生産も行われ、銘木工芸館などもある。生犬穴(おいぬあな)(鍾乳洞(しょうにゅうどう))および上野村亀甲石産地(きっこうせきさんち)は国指定天然記念物。そのほか不二洞(ふじどう)(鍾乳洞)、浜平(はまだいら)温泉、野栗沢(のぐりさわ)温泉、旧黒沢家住宅(国指定重要文化財)もある。神流川上流では2005年に上野ダムが竣工し、揚水発電所が運転を開始している。面積181.85平方キロメートル、人口1128(2020)。
[村木定雄]
『『上野村誌』(1954・吉川弘文館)』▽『相葉伸他編『みやま文庫4・5 群馬県多野郡上野村の民俗 上下』(1961・みやま文庫)』
沖縄県宮古島(みやこじま)南部、宮古郡にあった旧村名(上野村(そん))。現在は宮古島市の南部を占める。旧上野村は1948年(昭和23)下地(しもじ)村(現、宮古島市)から分村。2005年(平成17)城辺(ぐすくべ)町、下地町、伊良部(いらぶ)町、平良(ひらら)市と合併し宮古島市となった。旧村域の北にある野原(のばる)岳(109メートル)から、南に緩傾斜する平坦(へいたん)な隆起石灰岩地形。国道390号が平良と結ぶ。野原は1714年(正徳4)強制植民によって、宮国(みやぐに)、新里(しんざと)は、1771年(明和8)の大津波を受けて海岸から台地上に移動した集落で、現在はサトウキビ中心の純農村。葉タバコや野菜の栽培、畜産が盛ん。1873年(明治6)宮国沖に座礁したドイツ商船を住民が救助したことから宮国海岸に「独逸(ドイツ)商船遭難之地碑」があり、周辺にはドイツ文化村がつくられている。
[堂前亮平]
『『上野村誌』(1988・上野村)』
東京都台東区西部の地名。武蔵野(山手)台地最東端に当たる上野山およびその周辺を指す。この台地は忍ヶ岡(しのぶがおか)とも呼ばれた。江戸時代初期に伊賀上野を領していた藤堂高虎らの屋敷があったため,上野の地名がついたといわれるが,周囲の低地から見て上野と名づけられたともいう。1625年(寛永2)に天海(慈眼大師)によって東叡山寛永寺が建てられ,清水堂付近は奈良の吉野山から移植された桜の名所となった。台地の南西下にあった潟湖は整備されて不忍池(しのばずのいけ)となり,周囲の低地は埋め立てられて町屋や武家屋敷ができた。寛永寺正面入口の黒門の前面には上野広小路の大通りがつくられ,見世物や茶店が集中して盛場として発展した。明治維新の際彰義隊の戦いで灰燼(かいじん)に帰した寛永寺跡地は1873年上野公園となった。83年日本鉄道株式会社(のち東北本線)の上野~熊谷間の営業開始と同時に,東側の山下に上野駅が開設され,東北日本への最大の玄関口となり,現在は東北本線,常磐線,上越線,信越本線などの発着駅であり,85年には東北・上越両新幹線の始発駅となった(現在の始発駅は東京)。1927年浅草との間に開通した地下鉄や京成電鉄も通じる。上野駅および東京芸術大学,上野図書館,東京国立博物館,国立西洋美術館,東京文化会館,上野動物園など文化施設の集まる上野公園を核とした上野地区は,すぐ南の御徒町(おかちまち)一帯の商業中心地とともに,高度経済成長期以前は東京の副都心としての地位を保っていたが,最近は新宿,渋谷,池袋より発達が遅れている。第2次世界大戦後の闇市のなごりをとどめ,食料品,雑貨などの卸小売商が集まるアメ屋横丁(アメ横)がある。
執筆者:正井 泰夫
群馬県南西部,多野郡の村。人口1306(2010)。神流(かんな)川最上流域を占め,長野県,埼玉県と接する。江戸時代に中山道の脇往還として用いられた十石峠街道の白井(しろい)に関所が設けられ,信州側から移入された米が取引された。周囲を標高1000m以上の山々で囲まれ,総面積の97%が山林で,林業従事者の占める割合は高い。水田はほとんどなく,コンニャクの生産を中心にシイタケ,ナメコ栽培が行われる。1960年以降,人口流出が激しく,過疎化が著しい。過疎対策として77年には国の高齢者生産活動センター建設モデル事業を誘致し,木工業の振興を図っている。長野県境近くの御巣鷹尾根は,1985年8月12日,日航機が墜落した地である。シオジの原生林,亀甲石産地,生犬穴(おいぬあな)(縦穴型石灰洞)はいずれも天然記念物。十石峠付近は妙義荒船佐久高原国定公園に指定されている。
執筆者:千葉 立也
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…江戸初期の大名茶人小堀遠州が指導し,またその好みの茶具を焼いたとされる七つの窯。遠州七窯が説かれるようになるのは江戸時代後期かららしく,1854年(安政1)刊の《陶器考》では,瀬戸を除いた国焼に限り,志戸呂,上野(あがの),朝日,膳所(ぜぜ),高取,古曾部,赤膚の諸窯をあげている。しかし,朝日,古曾部,赤膚は遠州の活動期以後の窯である。…
※「上野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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