うえ‐の うへ‥【上野】
[1] 〘名〙
集落などの上手
(かみて)にある
野原。
※虎明本狂言・
仁王(室町末‐近世初)「さらばおっつけわごりょはうへのへゆかしめ」
[2]
[二] 東京都
台東区西部の地名。東叡山
寛永寺、
上野公園、上野動物園、不忍池などがある。桜の
名所。忍ケ岡。忍ケ森。
こうずけ かうづけ【上野】
(「かみつけの(
上毛野)」の変化した語)
東山道の
一国。現在の
群馬県にあたる。北は
岩代・
越後、西は
信濃、南は
武蔵、東は
下野に接する。大化改新後、毛野
(けの)国が上・下に二分し、上毛野国と下毛野国となった。
古代は東国経営の
拠点となり、
戦国時代は
北条・上杉・
武田氏の抗争の場となる。江戸時代は幕府領と小藩に分立。廃藩置県後九県に分かれ、明治九年(
一八七六)群馬県となる。上州。上毛。
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デジタル大辞泉
「上野」の意味・読み・例文・類語
こうずけ〔かうづけ〕【上野】
《「かみつけの(上毛野)」の略「かみつけ」の音変化》旧国名の一。東山道の一国。大半が現在の群馬県。ごく一部が栃木県足利市。上州。
うえの【上野】[三重県の旧市名]
三重県西部、上野盆地の中心にあった市。もと藤堂氏の城下町。芭蕉の生地。窯業・機械工業が盛ん。平成16年(2004)に周辺町村と合併して伊賀市となった。→伊賀
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上野
うえの
現JR上野駅西方の上野公園一帯をさす広域呼称。上野は忍ヶ岡ともよばれ、武蔵野台地の一角を形成する上野台南部の主要部分を占め、またかつて袴腰ともいわれた山下、広小路に相当する南部一帯もそれに含まれる。明確に現在の上野周辺である確証はないが、仏光寺派伝来の法脈図である鎌倉時代末から南北朝期の光照寺本親鸞聖人門侶交名牒に「覚念 ウヘノ」とあり、「ユシマ」と並んで記されているところから、上野の地名は鎌倉時代までさかのぼる可能性がある。戦国期の北条氏所領役帳には江戸衆の島津孫四郎が「上野内法林院分」で五貫七〇〇文、千葉氏の旧臣である円城寺氏が 「江戸上野」で一八貫二二〇文の知行を得ている。法林院は小日向にあったと推定される禅宗寺院であるが、この時代には廃絶していたものとみられる。江戸時代の上野の山内は寛永寺と付属寺院などが立並び、北方飛鳥山までの連丘は桜の名所として知られていた。参詣客が集まる眺望のよい景勝地や行楽地に、そうした大寺院が立地していたところに江戸の町並の一つの特徴がある。
明治初年以降上野を激変させた契機は戊辰戦争であった。この戦争は薩長中心の武力討幕運動から東征(新政府)軍に対する奥羽越列藩同盟軍の抵抗へと拡大し、慶応四年(一八六八)四月上野の山内に立籠った幕府方の彰義隊の反乱(上野戦争)もその一部であった。五月一五日、総勢二千人足らずの同隊員はその六倍に及ぶ新政府軍勢力により一日で撃破され、東叡山三十六坊の寛永寺の大半は焼失した。
上野
うえの
[現在地名]木曾福島町新開 上野
木曾福島の市街地をはずれて少し行った木曾川対岸の集落が上野で、すぐ後ろに相図ヶ峰という戦国時代の狼煙台の跡が三角錐の形でそびえている。
木曾氏の部将上野氏がここに居住していたといい、永正元年(一五〇四)飛州勢が王滝へ侵入した時、上島の合戦に討死した上野肥後の墓があったが(岐蘇古今沿革志)、明治一七年(一八八四)の水害で埋もれてしまって今はない。上野に続く熊沢には関平・白山沢・橋詰・木戸口・牛首などの地字が残っており(新開村地字調帳)、上野氏が藪原から菅を経て熊沢へ出てくる道の押えとしてここに居館を構えていたことがうかがわれる。
上野
うわの
[現在地名]高鷲村鷲見 上野
鷲見の北側にある高原で、北方は西洞の蛭ヶ野高原に小高い丘を挟んで接する。標高約八〇〇―一〇〇〇メートル。「新撰美濃志」に東西・南北約三里とある。江戸期には鷲見ヶ上野とよばれ、郡内でもまれな広野で、西洞村・鷲見村の総山として、また向鷲見・穴洞・中切・正ヶ洞・鮎走各村の入会地として、焼畑をはじめ草や薪などの採取地として重要な役割を果していた。
上野
うわの
[現在地名]津南町上郷上田 上野
外丸村の枝村。同村枝村の田中の北にあたり、西は小池。北の菅沼へ至る道が田中から当地を経由する。正保国絵図に高二一石余とみえる。正保三年(一六四六)の古高につき指上帳控(津端一郎氏蔵)では田六石三斗余・畑一〇石・青苧高四石八斗・白布高二石。
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上野
うえの
三重県北西部,伊賀市中西部の旧市域。上野盆地のほぼ中央,柘植川と服部川の合流点に位置する。 1941年上野町など7町村が合体して市制。 1950~57年,府中村,猪田村,友生村,中瀬村の一部,花垣村,依那古村,比自岐村,丸柱村の一部,神戸村,古山村の一部を編入。 2004年伊賀町,島ヶ原村,阿山町,大山田村,青山町と合体して伊賀市となった。中心市街地の上野は古くから軍事,経済上の要地で,慶長 13 (1608) 年藤堂高虎が入封,同 16年徳川家康の命により上野城 (城跡は国指定史跡) を大幅に改修,拡充し,城下町を開いた。農業を中心に酒造業や,組紐,和傘,伊賀焼などの伝統工業がある。名阪国道沿いには電機部品,繊維,食料品などの工場が立地。東部に伊賀国分寺跡 (国指定史跡) があるほか敢国神社など式内社が多く,御墓山古墳,長楽山廃寺跡,崇広堂 (以上国指定史跡) などもある。松尾芭蕉の出身地で,生家,遺品を集めた俳聖殿,高弟服部土芳の草庵である蓑虫庵がある。また江戸幕府の隠密として活躍した伊賀忍者 (→伊賀者 ) の拠点としても知られ,現在も百地砦,忍者屋敷が残る。鍵屋ノ辻は荒木又右衛門の伊賀越仇討ちの地。北西部にある高倉神社と果号寺のシブナシガヤは国の天然記念物。
上野
うえの
沖縄県西部,宮古島市南部の旧村域。宮古島の南部にある。 1948年下地村の一部が分離して成立。 2005年平良市,城辺町,下地町,伊良部町と合体して宮古島市となる。上野,野原,新里,宮国の4地区からなる。サトウキビ,タバコ栽培と肉用牛飼育が行なわれる。近海はサンゴ礁の暗礁が多く,宮国沖合いでドイツ遭難船を救助 (1873) した話は博愛美談として知られ,海岸にその記念碑がある。地域活性化のため,1993年ドイツ文化村が開設された。
上野
うえの
愛知県西部,東海市の北半分を占める地区。北は天白川で名古屋市と境し,かつては天白川沿いの沖積地と西部の海岸低地で米作とフキ,トマトなどの野菜栽培が行われていた。第2次世界大戦後,名古屋南部臨海工業地域の埋立て地が造成され,中京工業地域最初の銑鋼一貫作業の製鉄所が立地した。またその用地の行政的帰属問題で紛糾し,1969年に南の横須賀町と合体して東海市が成立。現在丘陵地のミカン畑は宅地化が進み,低地では米作のほかタマネギなどの野菜栽培が行われている。
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上野【うえの】
東京都台東区,上野駅,御徒町(おかちまち)駅周辺の地名。近世以来,浅草と並ぶ下町の盛り場。上野公園,上野動物園,不忍(しのばず)池などの行楽地があり,広小路,JR高架線下の〈アメ屋横丁〉は商店が密集する。上野駅は東北・上越・北陸新幹線が通じ,東北,常磐,高崎各線の始発駅で東京の北玄関に当たり,京浜東北,山手,京成電鉄,地下鉄各線も集まる。
→関連項目下谷|忍岡|台東[区]
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うえの【上野】
東京都台東区西部の地名。武蔵野(山手)台地最東端に当たる上野山およびその周辺を指す。この台地は忍ヶ岡(しのぶがおか)とも呼ばれた。江戸時代初期に伊賀上野を領していた藤堂高虎らの屋敷があったため,上野の地名がついたといわれるが,周囲の低地から見て上野と名づけられたともいう。1625年(寛永2)に天海(慈眼大師)によって東叡山寛永寺が建てられ,清水堂付近は奈良の吉野山から移植された桜の名所となった。台地の南西下にあった潟湖は整備されて不忍池(しのばずのいけ)となり,周囲の低地は埋め立てられて町屋や武家屋敷ができた。
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上野
群馬県多野郡上野村にある道の駅。国道299号に沿う。
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世界大百科事典内の上野の言及
【遠州七窯】より
…江戸初期の大名茶人小堀遠州が指導し,またその好みの茶具を焼いたとされる七つの窯。遠州七窯が説かれるようになるのは江戸時代後期かららしく,1854年(安政1)刊の《陶器考》では,瀬戸を除いた国焼に限り,志戸呂,上野(あがの),朝日,膳所(ぜぜ),高取,古曾部,赤膚の諸窯をあげている。しかし,朝日,古曾部,赤膚は遠州の活動期以後の窯である。…
※「上野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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