鎌倉前期の政治家。伊豆の武士,北条時政の娘。平治の乱(1159)後,源頼朝が伊豆に流されていたおり,その妻となった。1180年(治承4)8月,頼朝が挙兵した際,政子は一時伊豆山に潜んでいたが,10月には頼朝に迎えられて鎌倉に入った。82年(寿永1)に長男頼家,92年(建久3)に次男実朝を産み,ほかに2人の娘がいる。95年頼朝が東大寺供養に上洛した際,政子は子どもたちとともに同行し,京都で丹後局(高階栄子)らと対面した。丹後局は後白河法皇の寵を受け,法皇の没後も隠然たる勢力をもっていた。頼朝夫妻が局と対面したのは,長女大姫(おおひめ)を後鳥羽天皇に入内(じゆだい)させる計画を進めるためであったが,97年に大姫が没し,計画は実らなかった。99年(正治1)頼朝の死により政子は出家したが,同年には次女三幡も病没,政子には悲しみが続いた。頼朝の跡を頼家が継いだが,政子や時政は頼家の外家である比企氏の台頭を嫌い,頼家がみずから訴訟を裁くのを停め,北条時政・義時父子,大江広元,比企能員ら13名の有力御家人の合議によることとし,頼家の独裁を抑えた。1203年(建仁3)頼家が重病になると,関西38ヵ国地頭職を実朝に,関東28ヵ国地頭職と惣守護職を頼家の長男一幡に分与する案を立てた。一幡の外祖父比企能員がこれに不満を示すと,政子,時政は比企氏を滅ぼし,一幡を殺し,頼家を出家させて伊豆の修禅寺に幽閉し,実朝を将軍に擁立し,時政は執権となった。この結果,将軍は完全に実力を失い,時政と政子が実権を握った。
1205年(元久2)時政は後妻牧の方(政子の継母)と謀って実朝を廃し,女婿の平賀朝雅を将軍に立てようとした。政子は弟の義時とともに実朝を守り,父を伊豆に隠退させた。18年(建保6)熊野詣に赴いて都に立ち寄り,後鳥羽上皇の乳母として権勢を振るっていた卿局(藤原兼子)と会見,嗣子のない実朝の後継者として,上皇の皇子頼仁親王を迎える内約を結んだ。京都滞在中,兼子の計らいで政子は従三位に叙せられ,やがて従二位に昇った。翌19年(承久1)実朝が頼家の遺子公暁(くぎよう)に殺されると,幕府はさきの内約に基づき,後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に迎えることを望んだが,上皇はこれを許さず,そのかわりに摂関家から,頼朝の遠縁にあたる藤原頼経が鎌倉に下ることになった。しかし頼経は当時2歳であり,実質上の将軍(鎌倉殿)は政子であって,俗に〈尼将軍〉と呼ばれた。21年後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げ,承久の乱が起こると,政子は御家人たちに幕府の恩を説いて奮起を促し,都に攻め上らせ,勝利を収めた。24年(元仁1)義時が没し,その子泰時が執権となると,泰時の継母伊賀氏は泰時を退け,子の政村を執権,女婿の一条実雅を将軍にしようとしたが,政子はこの陰謀を抑えて泰時を救い,執権政治を安泰ならしめた。政子と実朝の墓は,政子が栄西を開山として創建した鎌倉の寿福寺にある。
執筆者:上横手 雅敬
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(五味文彦)
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鎌倉前期の政治家。時政(ときまさ)の女(むすめ)、源頼朝(よりとも)の妻。2代将軍頼家(よりいえ)、3代将軍実朝(さねとも)の母。伊豆配流中の頼朝と結婚、石橋山の戦いのときは伊豆に隠れていたが、まもなく鎌倉に迎えられた。1182年(寿永1)には頼家を、92年(建久3)には実朝を生んだ。3年後頼朝に従って上京し、長女の大姫入内(おおひめのじゅだい)を意図して、朝廷の実力者丹後局(たんごのつぼね)と面談した。しかしこれは大姫の死によって実現しなかった。頼朝の死(1199)後、尼となり、大江広元(おおえのひろもと)、父時政らの元老重臣の合議制政治を推し進め、頼家の独裁を抑えた。頼家重病に際し、父と謀って頼家を廃して実朝を将軍とした。1205年(元久2)時政が後妻牧方(まきのかた)とともに将軍廃立を謀ったため、弟義時(よしとき)と相談して実朝を守り、父を伊豆へ送った。義時執権時代を通じてつねに政務の中心にあった。18年(建保6)の上京の際、出家の身で従三位(じゅさんみ)に叙せられた。続いて二位に進み、「二位家」と称された。実朝の死後、鎌倉殿の任務を代行、やがて藤原将軍を迎えた。承久(じょうきゅう)の乱(1221)に際して、幕府の恩を説いて東国武士を京に攻め上らせた話は有名である。義時急死後、伊賀(いが)氏の陰謀を抑え、甥泰時(おいやすとき)(義時の子)を執権とし、政子は「尼(あま)将軍」として敬重された。嘉禄(かろく)元年7月11日病死。
[田辺久子]
『渡辺保著『北条政子』(1961・吉川弘文館)』
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1157~1225.7.11
将軍源頼朝の妻。父は時政。二位尼・尼将軍と称する。伊豆流刑中の頼朝と結ばれ,1180年(治承4)10月鎌倉に入り,2男2女をもうけた。頼朝が急死した99年(正治元)に出家したが,父時政・弟義時らとともに幕政の主導権を保持。1203年(建仁3)将軍頼家を廃しその外戚比企氏を討ち,次男の実朝を擁立してみずから将軍後見役となった。05年(元久2)将軍廃立を企てた父時政を失脚させ,18年(建保6)にはみずから上洛して京都の実力者藤原兼子(卿二位)と会見。実朝の死後は,幼少の藤原頼経にかわる事実上の鎌倉殿として幕政に参画し,承久の乱では御家人の結束の大切さを説いて勝利に導いた。
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…このほか,後家が,子どもに譲るべき数々の所領を中継相続した事例は,きわめて多い。したがって,鎌倉時代には,例えば北条政子のごとき女丈夫が出て,亡夫に代わってしばしばめざましい政治的活動をみせた例のあることが知られているが,それらは結局,以上のごとき中継相続という社会的慣行の力によるものであって,必ずしも政子などその女性個人の能力に帰さるべきことでないことに注意しなければならない。 こうした後家の中継相続が,なぜ可能であったかということも,よく考えてみなければならない問題である。…
…19年(承久1)実朝が殺されると,幕府は京都の摂関家から藤原頼経を鎌倉殿として迎え,21年の承久の乱にも勝利を収めた。この間の幕府の性格を見ると,鎌倉殿実朝は従来の鎌倉殿と違って傀儡(かいらい)にすぎず,頼経は幼年で,まだ征夷大将軍に任命さえされていないが,故頼朝の妻北条政子が実質的な鎌倉殿として,そのカリスマ性によって,御家人との主従結合の頂点に立って政治を独裁し,執権義時は幕府官僚機構の上首としてこれを助けており,政治の体質としては,鎌倉殿独裁政治の延長である。したがって幕政の改革は,25年の政子の死を契機に,執権泰時によって精力的に行われた。…
…頼朝にとってそれは頼家が武家政権の後継者にふさわしい資格を有することを御家人に誇示する祝宴でもあった。頼朝は早速この吉事を妻北条政子に報告させたが,政子は〈武将の嫡嗣として原野の鹿鳥を獲ること,あながち希有(けう)たるに足らず〉と冷ややかに使者を追い帰し,使者は面目を失ったという(《吾妻鏡》)。頼朝の喜悦を,頼朝の親ばかと見るか,それともその深い政治的配慮のあらわれと見るかは別にして,武家政権を確立した頼朝が,その政権の行末について2代目頼家に対し,心配となにがしかの憂慮を抱いていたことは確かであろうし,その意味でこの巻狩は頼朝がなしうる最後の仕上げの行事にほかならなかった。…
…99年(正治1)頼朝が没し,子の頼家があとをつぐと,頼家の外家である比企能員の勢力が台頭した。義時の父北条時政,姉北条政子らはこれを嫌い,頼家がみずから訴訟を裁くのを停め,13人の有力御家人の合議によることとした。義時は時政や能員らとともに13名のメンバーに加えられている。…
※「北条政子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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