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北条政子 ほうじょうまさこ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北条政子
ほうじょうまさこ

[生]保元2(1157).伊豆
[没]嘉禄1(1225).7.11. 鎌倉
鎌倉幕府初代将軍,源頼朝の妻。北条時政の長女。治承1 (1177) 年伊豆に配流中の頼朝と結ばれ,大姫,頼家,乙姫,実朝を生んだ。夫の幕府創設を助け,正治1 (99) 年頼朝の死後尼となったが,実家北条氏と結んで幕政を左右した。

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デジタル大辞泉の解説

ほうじょう‐まさこ〔ホウデウ‐〕【北条政子】

[1157~1225]源頼朝の正室。頼家実朝の母。時政の長女。頼朝の死後尼となり、初め頼家、のち実朝を将軍としてその後見となった。実朝暗殺後は京都から九条頼経を4代将軍に迎え、執権政治を確立して尼将軍といわれた。平政子

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百科事典マイペディアの解説

北条政子【ほうじょうまさこ】

源頼朝の妻。北条時政の娘。伊豆に配流(はいる)中の頼朝に嫁し,鎌倉幕府の創業を助けた。頼家・実朝を産み,頼朝の死後は父や弟義時とともに幕政に参画。実朝が暗殺されると京都から九条頼経を迎えて,将軍とし,自ら後見として幕政をみ,尼将軍といわれた。
→関連項目寿福寺信生法師日記富士の巻狩北条氏

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条政子 ほうじょう-まさこ

1157-1225 平安後期-鎌倉時代,源頼朝(よりとも)の妻。
保元(ほうげん)2年生まれ。北条時政の娘。伊豆(いず)配流中の頼朝と結婚,源頼家・実朝と2女を生む。頼朝の死後尼となり幕政にかかわる。3代将軍実朝の死後は九条頼経(よりつね)を4代将軍にむかえ,政務を後見。尼将軍と称される。承久(じょうきゅう)の乱では御家人(ごけにん)の結束をうながし,幕府の基礎をかためた。嘉禄(かろく)元年7月11日死去。69歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

北条政子

没年:嘉禄1.7.11(1225.8.16)
生年:保元2(1157)
鎌倉幕府の政治家。北条時政の娘として生まれ,源頼朝の妻として幕府の成立と発展に尽くした。父時政が大番役で在京中の治承2(1178)年ごろに伊豆の流人となっていた頼朝との間に娘の大姫をもうけたといわれる。4年に頼朝が挙兵し,石橋山の戦で敗れると,伊豆山にかくまわれて過ごし,頼朝が鎌倉に館を築いてから鎌倉入りをした。 頼朝との関係は単に妻としてだけでなく,その存在は頼朝と東国の武士団を結びつけるものであって,しかも寿永1(1182)年長男頼家が生まれたことでその地位は不動のものとなる。同2年には頼朝の寵女亀前を住まわせていた伏見家綱の宅を壊したり,さらに頼朝の命令で長女大姫の婿の清水義高を討った堀親家の郎従を梟首させるなど,幕府の家の中を掌握し,その場においては頼朝の意思をも越えた存在であった。建久6(1195)年に頼朝が2度目に上洛したときには一緒に京に上り,娘の大姫の入内の話を朝廷との間で交渉している。頼朝の死後にはその後家として大きな力を振るった。頼朝の御所はその死後に大御所と称されたが,そこを管領するなど頼朝の重要な遺跡を管轄し,さらに頼家の政務に不安を覚えると,13人の御家人を指名してその補佐を託した。頼家が阿野全成の謀反を理由にその妾の阿波局の身柄を差し出すように求めてきたときには,「然るが如き事,女性に知らしむべからざるか」として退けるなど,将軍と他の勢力との争いを調停して幕府の安泰に努めた。やがて時政が頼家を廃して実朝を擁立する動きのなかで子の頼家を失う悲劇に遭遇するが,実朝をも廃する動きが出てくると,弟の義時と共に時政を伊豆に引退させた。 『愚管抄』は「時政がむすめの,実朝・頼家が母いき残りたるが世にて有り」と述べ,京で大きな勢力を築いていた卿二位と共に「女人入眼の日本国いよいよまこと也」と指摘し,日本の政治はこうして女性が助けることにより完成するのだと述べている。実際,子のできない実朝の後継者問題では上洛して卿二位と交渉を持ち,その養っていた後鳥羽上皇の皇子を迎える約束をとりつけている。このとき,出家の身で二位に叙され,前例のない待遇を受けるが,承久1(1219)年には実朝も暗殺される。この非常事態において「鎌倉は将軍があとをば,母堂の二位尼総領して」と,幕府の実権を完全に掌握した。尼将軍の誕生である。幕府は「禅定二位家」と称され,京に皇子の下向を要請したが,それは政情の変化により拒否され,摂関家から後継者が下ることになる。その年,九条道家の子三寅が鎌倉に下って政所始が行われたときには,「理非を簾中に聴断すべし」と,三寅の幼稚を理由に理非決断の権限を行使している。承久3(1221)年,承久の乱が起きると,軍事動員令を発するとともに,鎌倉に集まった御家人を前にして頼朝の恩を強調し後鳥羽上皇の近臣を討つことを求めた。それによって幕府軍は朝廷の軍事力を粉砕して,幕府の危機は回避された。さらに元仁1(1224)年に義時が急死すると,甥の泰時を六波羅から戻して義時の後妻伊賀氏が推す勢力を退け,北条執権体制の方向を示し,翌年にこの世を去った。その後,将軍の権限の主要部分は執権に移っていった。<参考文献>渡辺保『北条政子

(五味文彦)

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世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょうまさこ【北条政子】

1157‐1225(保元2‐嘉禄1)
鎌倉前期の政治家。伊豆の武士,北条時政の娘。平治の乱(1159)後,源頼朝が伊豆に流されていたおり,その妻となった。1180年(治承4)8月,頼朝が挙兵した際,政子は一時伊豆山に潜んでいたが,10月には頼朝に迎えられて鎌倉に入った。82年(寿永1)に長男頼家,92年(建久3)に次男実朝を産み,ほかに2人の娘がいる。95年頼朝が東大寺供養に上洛した際,政子は子どもたちとともに同行し,京都で丹後局(高階栄子)らと対面した。

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大辞林 第三版の解説

ほうじょうまさこ【北条政子】

1157~1225) 源頼朝の妻。北条時政の女むすめ。頼家・実朝の母。頼朝の死後は父時政・弟義時とともに幕政に参与。実朝の死後、京都から九条頼経を四代将軍に迎え、自ら後見として幕政を裁断したので尼将軍と称された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条政子
ほうじょうまさこ
(1157―1225)

鎌倉前期の政治家。時政(ときまさ)の女(むすめ)、源頼朝(よりとも)の妻。2代将軍頼家(よりいえ)、3代将軍実朝(さねとも)の母。伊豆配流中の頼朝と結婚、石橋山の戦いのときは伊豆に隠れていたが、まもなく鎌倉に迎えられた。1182年(寿永1)には頼家を、92年(建久3)には実朝を生んだ。3年後頼朝に従って上京し、長女の大姫入内(おおひめのじゅだい)を意図して、朝廷の実力者丹後局(たんごのつぼね)と面談した。しかしこれは大姫の死によって実現しなかった。頼朝の死(1199)後、尼となり、大江広元(おおえのひろもと)、父時政らの元老重臣の合議制政治を推し進め、頼家の独裁を抑えた。頼家重病に際し、父と謀って頼家を廃して実朝を将軍とした。1205年(元久2)時政が後妻牧方(まきのかた)とともに将軍廃立を謀ったため、弟義時(よしとき)と相談して実朝を守り、父を伊豆へ送った。義時執権時代を通じてつねに政務の中心にあった。18年(建保6)の上京の際、出家の身で従三位(じゅさんみ)に叙せられた。続いて二位に進み、「二位家」と称された。実朝の死後、鎌倉殿の任務を代行、やがて藤原将軍を迎えた。承久(じょうきゅう)の乱(1221)に際して、幕府の恩を説いて東国武士を京に攻め上らせた話は有名である。義時急死後、伊賀(いが)氏の陰謀を抑え、甥泰時(おいやすとき)(義時の子)を執権とし、政子は「尼(あま)将軍」として敬重された。嘉禄(かろく)元年7月11日病死。[田辺久子]
『渡辺保著『北条政子』(1961・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の北条政子の言及

【後家】より

…このほか,後家が,子どもに譲るべき数々の所領を中継相続した事例は,きわめて多い。したがって,鎌倉時代には,例えば北条政子のごとき女丈夫が出て,亡夫に代わってしばしばめざましい政治的活動をみせた例のあることが知られているが,それらは結局,以上のごとき中継相続という社会的慣行の力によるものであって,必ずしも政子などその女性個人の能力に帰さるべきことでないことに注意しなければならない。 こうした後家の中継相続が,なぜ可能であったかということも,よく考えてみなければならない問題である。…

【執権政治】より

…19年(承久1)実朝が殺されると,幕府は京都の摂関家から藤原頼経を鎌倉殿として迎え,21年の承久の乱にも勝利を収めた。この間の幕府の性格を見ると,鎌倉殿実朝は従来の鎌倉殿と違って傀儡(かいらい)にすぎず,頼経は幼年で,まだ征夷大将軍に任命さえされていないが,故頼朝の妻北条政子が実質的な鎌倉殿として,そのカリスマ性によって,御家人との主従結合の頂点に立って政治を独裁し,執権義時は幕府官僚機構の上首としてこれを助けており,政治の体質としては,鎌倉殿独裁政治の延長である。したがって幕政の改革は,25年の政子の死を契機に,執権泰時によって精力的に行われた。…

【富士の巻狩】より

…頼朝にとってそれは頼家が武家政権の後継者にふさわしい資格を有することを御家人に誇示する祝宴でもあった。頼朝は早速この吉事を妻北条政子に報告させたが,政子は〈武将の嫡嗣として原野の鹿鳥を獲ること,あながち希有(けう)たるに足らず〉と冷ややかに使者を追い帰し,使者は面目を失ったという(《吾妻鏡》)。頼朝の喜悦を,頼朝の親ばかと見るか,それともその深い政治的配慮のあらわれと見るかは別にして,武家政権を確立した頼朝が,その政権の行末について2代目頼家に対し,心配となにがしかの憂慮を抱いていたことは確かであろうし,その意味でこの巻狩は頼朝がなしうる最後の仕上げの行事にほかならなかった。…

【北条義時】より

…99年(正治1)頼朝が没し,子の頼家があとをつぐと,頼家の外家である比企能員の勢力が台頭した。義時の父北条時政,姉北条政子らはこれを嫌い,頼家がみずから訴訟を裁くのを停め,13人の有力御家人の合議によることとした。義時は時政や能員らとともに13名のメンバーに加えられている。…

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