朝日日本歴史人物事典 「余豊璋」の解説
余豊璋
7世紀後半の百済の王子。義慈王の子で,余豊,豊章,糺解とも書く。日本語読みは「よ・ほうしょう」。『日本書紀』には,舒明3(631)年義慈王の命により人質として来日したとあるが,この年は義慈王の即位以前で,年次に疑問が残る。皇極2(643)年三輪山(桜井市)の麓で蜜蜂を放養したとあり,この時点で来日していたのは確かであろう。近年は皇極1年来日の翹岐を豊璋にあてる説もある。斉明7(660)年唐・新羅連合軍の攻撃により百済が滅亡すると,百済遺臣は鬼室福信らを中心に復興運動を展開し,豊璋を百済王に迎えたいと願った。天智1(661)年日本は5000人をつけて豊璋を衛送したといい,ここから日本は百済復興運動に全面的に肩入れし,唐・新羅と対決すべく,兵を半島に送ることになる。しかし,百済では豊璋と福信の間が不和になり,豊璋は功臣福信を斬殺させた。こうした君臣間の乱れをついて,陸からは新羅軍が王都に迫り,海では白村江(錦江)の戦で日本が唐に敗退し,663年百済は完全に滅亡することになる。豊璋は高句麗に逃れたというが,高句麗も668年に滅亡しており,その後の消息は不明である。<参考文献>鬼頭清明『白村江』
(森公章)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報