日本の現行法では,人を人質にとる行為は禁じられ,逮捕監禁罪,ときには誘拐罪でも処罰しうる。しかし,これらにおいては人質の目的である各種の不法な要求の強要に処罰の主眼が置かれていないばかりでなく,実際上は人質の生命の危険にも質的差異のあるのが一般である。ハイジャックの多発はこのことを強く印象づけた。そこで当初〈航空機の強取等の処罰に関する法律〉(1970公布)中に強取により乗客等を人質にして不法な要求をする罪を加え,無期または10年以上の懲役を科したが,ほかに大使館占拠人質事件やシージャック,バスジャックなどにも対処するため1977年に〈人質による強要行為等の処罰に関する法律〉を制定し,その1条で,2人以上共同して凶器を示して人を逮捕・監禁しこれを人質にして,第三者に対し義務のない行為をすることまたは権利を行わないことを要求した者を,無期または5年以上の懲役に処するとともに,2条に,航空機強取による人質強要罪を組み入れた。人質を殺害すれば死刑または無期懲役に処せられ(3条),犯罪地の国内外,犯罪者の国籍を問わず処罰される(4条)。
執筆者:田中 利幸
契約履行の証拠として,相手方に契約当事者の身代り,さらには担保として差し出される人,また契約不履行に際し,被害者側によってその履行実現のため差し押さえられた人を人質といった。古くは〈むかわり〉ともいったが,この語が,本来〈身代り〉を意味するのか,〈相当する〉の意味なのか未詳である。古代においても政治外交上の同盟・服属などの際,人質がとられる慣行があったことは,百済の王が王子を同盟の証(あかし)として日本に送ったという《日本書紀》の記事などからうかがわれる。中世においてもこの種の人質は,源頼朝が木曾義仲からその子志水冠者を人質にとった例など多く知られるが,群雄割拠の戦国時代に大名間,大名・家臣間の契約上の慣行として一般化し,当時盛んに行われた政略結婚もこの一形態とみなすことができる。江戸幕府もはじめ大名の近親者を人質としてとり江戸城内に住まわせたが(証人),やがてこれは参勤交代の制に吸収された。
中世社会において,この種の人質より一般に行われたものに,債権の担保としての人質がある。この人身の質入れ証文は,人身売買が盛んであった東国・九州地方などにとくに多く残っており,この人質は,この地方の戦国大名の徳政令の対象にもなっている。質入れの対象としては,債務者の子女または奴婢が多く,質の種類としては,占有質である入質(いれじち)と抵当である見質(みじち)があったが,いずれも質流れとなると人質は,債務奴隷として債権者の下人となった。また,地頭など在地領主が年貢などの課役を滞納した百姓から牛馬資財とならんでその妻子所従を人質としてとること,逃亡百姓の身代りとしてその妻子を人質として差し押さえることなども,通例として認められていた。さらに,この種の差押えとしての人質は,中世後期,強固な村落共同体などが生まれると,共同体メンバーの債務履行を求め,その所属する他のメンバーを人質として差し押さえる郷質(ごうじち)などに拡大し,盛んに行われた。
執筆者:勝俣 鎮夫
西洋史上,人質の概念に包摂される事象としては次のようなものがある。(1)戦争や犯罪において,ある集団に金銭(身代金)の支払もしくは特定の便宜の提供を強制するために,その集団の成員を暴力的に拘束する場合。(2)権力主体間の政治的・法的合意の維持を保証するものとして,その権力主体に下属する人間の身柄が一方から他方へ,もしくは相互に提供される場合。合意の内容は明示的協約の形をとることもあれば,暗黙の了解にとどまることもある。(3)債権・債務関係において,債務者が担保設定の客体として人間を提供する場合。
(1)の人質のうち,戦争捕虜の問題については〈捕虜〉の項を参照されたい。ゲリラ活動,犯罪における人質については古代から現代に至るまで,例は枚挙にいとまがない。古代ではカエサルを人質にした海賊,中世ではクリュニー修道院長マヨルス(マイユル)を人質にしたアルプスのイスラム教徒の活動が著名である。(2)については,古代ではローマ帝国が周辺の服属国家,部族にこうした人質提供を強制していたことが知られる。国内に多数の権力主体が併存し,それらに対する広域的公権力の強制力が乏しい中世社会においては,こうした人質は多様な姿をとる。たとえば,領主家門相互で結婚や近習としての奉仕の形をとって委託される子女は,多かれ少なかれ人質としての意味を持つ。また裁判においても出頭や判決への服従を保証するために,しばしば人質提供が行われた。近世以降,国内の集権化と国際関係の体系化に応じて,このような人質の意義は低下する。(3)については,古代では奴隷は純然たる動産として担保になりえたが,自由人に関してはギリシアでもローマでもその債務奴隷化は早期に阻止されたため,この種の人質は知られない。中世初期には債務者の従属民,従士,血族がしばしば担保の客体となり,債務不履行の際には奴隷化された。また親族による請戻しを期待しての,自由人の自己質入れも見られた。しかしこれらの慣行は中世盛期には消滅した。
執筆者:江川 溫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
約束履行の保証として、相手側に渡された人。これには次の2種がある。(1)肉親や家臣を相手方へ送り、同盟、降伏、和親などの約束の履行を確保するために人身を担保とするものである。違約や相手の都合しだいで殺された。古くは『日本書紀』に神功(じんぐう)皇后のとき、新羅(しらぎ)王が微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかむき)を質(むかわり)として日本に送ったとある。人間不信の所産なので戦国乱世にもっとも事例が多く、当時の武将相互の間では広く行われた。徳川家康の幼時、「今川殿より広忠(ひろただ)(松平)へ御人質を可給との儀也、これによりて広忠の総領竹千代殿(家康)七才に成り給うを駿河(するが)へ証人に御越被成候」(松平記)と、人質として今川へ送られたのは有名である。
その後、諸大名の妻子を都下に集めて居住させることは豊臣(とよとみ)時代に始まった。それまでの戦乱がようやく収まり、全国統一がなったとはいえ、まだ諸国の情勢が十分固まったともいえないころ、豊臣秀吉は、諸大名をその領地に居住させずにおけば、戦乱の種を未然に摘むことになると考えて、諸侯の邸(やしき)を大坂に設けさせた。同時にその妻子を郭内に住まわせれば人質ともなる。徳川幕府が大名の忠誠を確保するため、証人を江戸城内の証人屋敷に居住させたのも、この種の人質である。この制度は1665年(寛文5)に廃止されたが、参勤交代の制度が確立するに伴い、大名の妻子は江戸の屋敷に居住させて国元に帰ることを禁じていたのは、広義の人質である。また人質櫓(やぐら)として、現存するものは大分城にあり、津和野(つわの)(島根県)には人質櫓跡として石垣が残る。(2)人身を質入れして、債権の担保のためになされる人質がある。古代においては奴婢(ぬひ)を、中世には子とか従者の質入れがこれで、流質になる場合もある。江戸時代には人身売買は禁じられていたが、借金の担保として年季請状のごとき証文を入れ、飯盛奉公などによる利子の返済を行い、約束の年季あけに元金の返却をして自由になれた。
[稲垣史生]
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政治的な同盟・協約を確実なものにするため,近親者などを相手方に送り,その生命を担保とすること。戦国期に広くみられた。江戸時代に幕府が諸大名の妻子を江戸藩邸にとどめ,忠勤義務をはたさせたのも人質の一つ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…50年代にできたパイク座Pike Theatreは,気鋭の演出家アラン・シンプソンのもと,ベケットの《ゴドーを待ちながら》のアイルランド初演をロンドン初演と同年(1955)に行って気を吐いた。ブレンダン・ビーハンBrendan Behanの《死刑囚》(1954初演),同じ作者がまず58年にゲーリック語で書き後に英語に書き改めて国際的に有名になった《人質》もこの劇場で初演された。両作品とも,反英非合法活動を題材とし,アメリカやカナダでは上演禁止となったほど激しい風刺や猥雑な台詞に満ちている。…
…ただし明治の両布告は保証債務が相続人に及ぶとしており,これは保証人の義務は1代限りという,遅くとも江戸時代後期には確立していた原則を変更するものであった。請人(うけにん)(2)江戸時代に諸大名が忠誠のあかしとして幕府へ差し出した人質をいう。盟約,降服を保証するため人質を取ることは,とくに戦国期に頻繁に行われたが,江戸時代の証人はそのなごりである。…
※「人質」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
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