日本歴史地名大系 「保久村」の解説 保久村ほつきゆうむら 愛知県:額田郡額田町保久村[現在地名]額田町保久村域を東から西に流れる乙(おと)川支流の保久川に沿って集落が立地。耕地は木の枝のごとく入組んでいる。東は富尾(とんびゆう)村・麻生(あそう)村、西は外山(そとやま)村・一色(いしき)村、南は中保久(なかほつきゆう)村、北は田代(たしろ)村(現東加茂郡下山村)と各々山で接する。開析谷に沿って岡崎道が通る。中世、下山(しもやま)庄に属したという。中世には中山(なかやま)郷の北隣にあたり、松平(まつだいら)郷(現豊田市)から中山郷に至る東の山間道の要地であった。室町時代には幕府将軍馬廻衆の山下氏の本貫であった。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に「弐貫五百文 山下上野入道 参河国保久郷」とある。山下氏は簗瀬家譜牒に義村の時に保久に居住して七ヵ村を領し、義村より一〇代後の重久の代に岩津(いわづ)(現岡崎市)城主松平信光の弟弾正左衛門により滅ぼされたとしている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by