信西塚
しんぜいづか
大道寺の南端にあり、江戸時代の宝篋印塔が立つ。
信西は俗名を藤原通憲と称し、「本朝世紀」「法曹類林」などを著した学者であったが、平清盛と結んで権勢を誇った。清盛の熊野参詣中、対立者の源義朝は兵を挙げ、信西は逃れて宇治田原まで来たが、この地で自害したという。いわゆる平治の乱である。
「百錬抄」平治元年(一一五九)一二月一七日条に「少納言入道信西首、廷尉於川原請取、渡大路懸西獄門前樹、件信西於志加良木山自害、前出雲守光保所尋出也」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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