日本歴史地名大系 「綴喜郡」の解説 綴喜郡つづきぐん 面積:一一九・九七平方キロ宇治田原(うじたわら)町・井手(いで)町・田辺(たなべ)町南山城のほぼ中央部に位置する。かつての綴喜郡のうち北西部は八幡(やわた)市、北の一部が城陽市となったため、現在の綴喜郡は北を八幡・城陽・宇治の三市、南を相楽郡、西を大阪府枚方(ひらかた)市と奈良県生駒(いこま)市、東を滋賀県甲賀郡信楽(しがらき)町と接する東西に細長い郡である。中央やや西寄りを北流する木津(きづ)川によって形成された沖積平野を除いては山地であるが、西は生駒山脈の北端にあたり、丘陵状の低平な山並が西北端の男山(現八幡市)までつながり、最高峰は甘南備(かんなび)山(二一七メートル)である。東部は宇治田原の山地で高原状を呈し、相楽郡境に鷲峰山(じゆぶせん)(六八五メートル)がそびえる。東西の山地はともに花崗岩質で風化しやすく、木津川の枝川は大量の土砂を流出して天井川を形成している。〔原始〕現綴喜郡域では旧石器時代までさかのぼる遺跡は確認されていない。縄文時代の遺跡としては木津川西岸の田辺町大字三山木(みやまき)の山崎(やまさき)遺跡から縄文中期とみられる石棒と異形石器が出土している。三山木の天神山(てんじんやま)遺跡は弥生時代後期の集落跡である。古墳時代の遺跡のうち前期に属するものに田辺町の飯岡車塚(いのおかくるまづか)古墳、興戸寿命寺(こうどじゆみようじ)古墳などがあり、中期になると田辺町大住(おおすみ)チコンジ山(やま)古墳など数も増してくる。後期の小規模な古墳や横穴古墳は田辺町内の各所や木津川右岸の井手町内にも認められる。〔古代〕平安遷都以前、すでに木津川右岸の山麓沿いを古北陸道、木津川左岸を古山陰道が、それぞれ当地域を南北に通じていた。うち古山陰道に沿う田辺町三山木の山本(やまもと)地区に和銅四年(七一一)山本駅が置かれた。この山本から西行すれば普賢寺(ふげんじ)谷を経て河内国に、逆に東行し木津川を渡って田原道を進めば瀬田(せた)(現滋賀県大津市)に至る。交通の要地であったことと、記紀に載る磐之媛や継体天皇の筒城(つつき)宮の伝承から田辺町の普賢寺谷一帯が早くから開けていたと考えられる。山代之大筒木真若王を祖とする息長氏や渡来人の多々良氏らが開発にあたったと伝えている。綴喜郡の郡衙もここに設置されたと思われるが、位置は確認されていない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by