日本歴史地名大系 「修学院焼窯跡」の解説
修学院焼窯跡
しゆがくいんやきがまあと
離宮内にはかつて修学院焼とよばれる御庭焼の窯があった。後水尾院が好みの品を焼かせたもので、寛文四年(一六六四)一二月四日に窯開きが行われた(隔記)。「森田久右衛門日記」延宝六年(一六七八)にも修学院御茶屋焼とみえ、土佐の尾戸焼の陶工久右衛門が見学を願出ている。しかし初期の窯は後水尾院の没後使用されなくなったようで、享保年間(一七一六―三六)以前までは活動を知る資料は残されていない。再び開かれたのは、しばしばここを訪れた霊元法皇によってである。「元陵御記」享保一一年四月二六日に「隣雲にいたりて、しばしやすらひ、後林丘寺にゆく、そのみちにすへものつくり、やきたつるかま、このころもうけたるをみる」とあり、この時期の窯が、上の茶屋から今の中の茶屋の間に設けられていたことを推測させる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報