客に茶を出して休息させる茶店(ちやみせ)から発展した各種の飲食遊興店をいう。江戸時代,旅行者を対象として道中筋に出現した茶店は,途中の休息所であったから,当初は宿場を離れた山中などに開店したが,しだいに宿はずれ(棒鼻(ぼうはな))にまで進出して,これを立場(たてば)茶屋と呼んだ。宿駅保護のために,立場での食事や宿泊は禁じられたが,力餅などの名物とともに酒やさかな(肴)を提供するようになり,やがて給仕女を置いて客をひく店もできた。旅客用の茶店と同類のものが,門前町や市街の盛場に進出したのが出茶屋(または掛茶屋)で,よしず張りのなかに茶道具一式を置いて一服一銭の安い茶を飲ませた。これを,葉茶屋と区別するために水茶屋と呼ぶこともあり,後には家構えの店もできた。茶屋に酒を置き,そのさかなの副食物から主食物までを提供するようになるのは自然の推移で,それぞれ煮売(にうり)茶屋,料理茶屋といい,寛文(1661-73)ごろに始まっている。これらの茶屋にも給仕女が雇われ,水茶屋には客寄せに美人を置く店があり,江戸で有名な笠森お仙は明和ごろ(1770年前後)の水茶屋女である。彼女らは営業用に赤い前垂れを着けたので赤前垂れと俗称された。
茶屋女がふえるとともに,茶屋に擬装した売春宿が出現した。とくに京坂地方でこの形式が発達し,大坂の堀江,曾根崎などの遊所は茶屋株での営業であり,これを色茶屋といった。遊郭にも太夫を呼ぶ揚屋に対し,下級妓を招く茶屋(または天神茶屋)があったから,〈茶屋遊び〉といえば遊所への出入りを意味した。色茶屋の女に,茶屋女,茶立女,茶汲女,山衆(やましゆう)などいろいろな呼名が与えられたのは,類似商売の多様化を示すが,遊郭が認められない場合に茶屋として営業する例は多く,地方都市で茶屋町といえば私娼(ししよう)街のことであった。徳川幕府は茶屋や茶屋女を取り締まり,延宝(1673-81)以後おもに数量規制で対処したが,実効は薄かった。料理茶屋の多くは貸席的性格をもっていたが,その中から貸席専業の待合茶屋,席貸(せきがし)が現れ,さらに男女の密会を専門とする出合茶屋(または盆屋(ぼんや))が分岐した。遊郭には編笠茶屋,引手茶屋があり,茶屋と略称されることがあった。また芝居茶屋,相撲茶屋は,それぞれ歌舞伎劇場や相撲小屋に付属して案内や休息のために設けられたが,後年にはそれらの興行に参画する業者もあった。
このように多様に分化した茶屋は,明治以後の社会の変化と西欧の同種業態の移入に影響を受けて,喫茶店や食堂に変容するものがあったり,カフェーなどの新形態をも生み出す一方で,引手茶屋や芝居茶屋などのように,完全に消滅したものも少なくない。なお茶道における〈茶屋〉については〈茶室〉の項を参照されたい。
→揚屋 →待合
執筆者:原島 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
茶を接待するための一種の茶店。15世紀に入ると、抹茶(まっちゃ)を喫する風俗が一般民衆へも広がりをみせていき、街道を往来する人や寺社詣(もう)でをする人のために、門前に茶売りが集まるようになった。これを一服一銭の茶売りとか茶屋と称している。その史料的な初見は、1403年(応永10)東寺南大門の茶売りである。一服一銭の茶売りは、通常、天秤(てんびん)棒の一方に風炉(ふろ)と釜(かま)、他の一方に桶(おけ)水指と天目(てんもく)、台、茶筅(ちゃせん)などの入った箱を担って、人の集まるところへ持ち出し、一服を一銭の値で提供したもの。『七十一番職人尽歌合(うたあわせ)』には一服一銭の茶売りと煎(せん)じ物売りが描かれている。一服一銭には「こ(古)葉の御茶をめし候へ」と詞書(ことばがき)があって、天目台を持って茶筅で茶を点(た)てているようすが描かれているから抹茶であったことがわかる。それに対し煎じ物売りは、狂言の「せんじもの」に茶屋の座をもって煎じ物を売買する話が描かれているから、小屋掛けをして一定の場所で提供するものであったらしい。この掛茶屋で、女性が亭主となって売る場合を「小町茶屋」とよぶが、江戸中期になると酒を売る御茶屋との区別がつかなくなる。なお中世では、茶室の源流となった庭中の小亭をも茶屋とよぶ。
このほかに、煮売茶屋、菜飯(なめし)茶屋、豆腐茶屋、また街道筋の立場(たてば)茶屋や墓地の墓茶屋などができ、宿屋を兼ねるところもあった。都市では料理茶屋、芝居(芝居札)茶屋が人気を博した。遊里には編笠(あみがさ)茶屋や引手茶屋が、また相撲(すもう)場近くには角力(すもう)茶屋が生まれた。陰間(かげま)茶屋、出合(であい)茶屋、待合茶屋などが出現したのは19世紀に入ってからのことである。喫茶店全盛の今日は、これらの茶屋はほとんど残っていない。
[筒井紘一・遠藤元男]
岡山県南部、倉敷市の一地区。旧茶屋町。宝永(ほうえい)年間(1704~1711)の干拓地で、金毘羅(こんぴら)往来の中継地、また汐入(しおいり)川の川湊(かわみなと)として茶屋が多く集まり繁栄したのが地名のおこり。現在、畳表・花莚(はなむしろ)製造、織物工業などの中小工業が多い。JR瀬戸大橋線茶屋町駅がある。
[編集部]
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16世紀に出現した通行人に湯茶を売る休憩所を起源とし,以後多様に分化,発展した飲食・貸席業の総称。飲食系は掛(かけ)茶屋・水茶屋から料理茶屋などへ発展し,貸席系では待合(まちあい)茶屋・出合(であい)茶屋・泊り茶屋などが現れた。特殊な形態には遊廓内の編笠茶屋・引手(ひきて)茶屋,さらに芝居茶屋・相撲茶屋・墓茶屋などがある。明治期以後は欧米の同種営業形態の影響をうけ,コーヒー店・食堂などへ変貌。なお茶屋遊びというときは,関西の遊廓で中以下の妓と遊ぶ天神茶屋や私娼街の色茶屋をさす。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…とくに大坂では揚屋制が発達し,揚屋の設備・待遇は全国一と称された。また,中級以下の遊女を招く家を茶屋と呼んで区別し,さらに私娼街でも送込み制をとってこれを呼屋といった。これに対し,江戸では発達せず,延宝(1673‐81)ころには大坂の35軒に江戸は14軒,宝暦10年(1760)ころには最後の1軒も消えた。…
…江戸から明治・大正期まで劇場付近で観劇客に各種の便宜を供した施設。江戸期の芝居見物は早朝から夜までかかったうえ幕間も長く,劇場の設備も不十分で,より快適な観劇を望む客は多く茶屋を利用した。もっとも,上等席は茶屋が前もって押さえていたから,桟敷などで観劇するためには茶屋を通すほかなかった。…
…〈茶室〉の呼称は近代になって普及した。室町時代には〈茶湯座敷〉〈数寄(すき)座敷〉〈茶屋〉などの語が見られたが,単に〈座敷〉と呼ばれることが多かった。また茶会記には座敷の広さだけが記されることもあった。…
…遊廓にあった茶屋の一種。引手茶屋がもっとも発達した江戸吉原では,高級遊女と遊興しようとする客は,まず引手茶屋にいった。…
※「茶屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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